2006/09/09
hon-nin
…またしてもKW化断念。とにかく私的にも程があるんだわたしの書く文章は!
そんなことも意外と含めて、「hon-nin」の感想。
あ、でも「感想」は大嘘。まだクドカンとこまでしか読んでないからです。
それ以降をまだ読んでない理由は、号泣して読めなくなったからです。
クドカンの小説で大号泣。
エエェェ(´Д`)ェェエエ
個人的には正しいんですけど…
むしろ、正しすぎる成り行きに心底驚いた。
感動話でも、悲話でもない。
まあ、ある意味では悲話は悲話かもしれないけど…
白鳥おじさんの配役を宣言されたから、画と声がついてる。
白鳥に群がられる白鳥おじさんを見ている。
宮藤さん、宮藤さんが見ている景色、
縦の時間をプレスして折り畳んだ状態で届いてるけど、いいかな?
それは虚8でも。
白鳥おじさんのシーンと、
白鳥おじさんが言い捨てた(聞き覚えのある)言葉と、
とにかくこの本の体裁である「本人という○○」、それ自体が…
なんだろ、この縛り上げられるような感じ、
痛いよ。痛いよ。痛いよ松尾ちゃん。痛いよ。苦しいよ。いとおしいよ。
「《本人》」この本は、ほんにんという名前の本だけど、書いてあるすべてが本人そのものであるわけでは決してない。
「書く本人、読む本人。本人という私、本人という他人。」(本誌コピー引用)
でも、それでも《本人》なんだ。
本当は、人の作る物語に大なり小なり練り込まれている、《本人》なんだ。
わたしはきっと、物語をみる時、技術ではない容れ物ではない《本人》を感じようとしてしまうんだ。
だから、技術ぐちゃぐちゃでも、泣いたりするんだ。
そうだったんだ。
一応、物語を作る者のはしくれとして、
「登場人物という本人」「作者(わたし)という本人」という意識が強くあります。
そして、厄介なことに、登場人物のとっかかりに、時として実在の人物から強く影響を受けることもしばしばあるのです。
そのひと、そのひとという「本人」。それは、わたしにとってとてつもなく大きい分野でした。
物語を作る「本人」、表現する「本人」。わたしはいつもそこにとらわれてきました。
だから。だから。だから松尾さん。痛くて苦しくて愛おしいです。「本人」という存在と、表現との関係性が。
宮藤さんのを読み終わったら、失礼なことに続きが読めなくなった。
ガチすぎる。松尾ちゃんの言ってた通りだった。
季刊で正解かも。
月刊だった日にはもー、月の半分くらい朦朧と暮らすかもしれん;
ヘビー過ぎて。
松尾さん…どえらいとこ突っ込んできましたね。











