2007/07/18
高階秀爾『水絵の福音使者・大下藤次郎』
水彩画というものを日本で普及させるために生涯をかけた一人の芸術家の評伝、ということになるのだろうが、生涯といっても実は短くて死去したのは四十二歳。その四十二年間に、多くの作品制作とそして水彩画普及のための社会的な活動を行っている。自分にまっすぐに、かつ精力的に生きているので、いささか羨ましくもある。だが、明治のこの変革期にはそういう人が多かったのかも知れない。
周知のように絵にはいろんな技法があって、それぞれが違う性質を持っている。と書くとなんだか当たり前のことみたいだが、要は技法とそれによって表現されるもの、というものは我々が想像している以上に密接なもののようだ、ということが言いたいのだ。油絵と水彩画、単にそれだけ取ってみてもその考え方から表現できるものまで、全然違う。それは実際にいろんな技法を試してみると実感する。
そして大下藤次郎は、水彩と風景、という結びつきの中に自らの芸術活動を選択した。当時の美術界では、どちらも高位に位置付けられたものではなかったようだ。油絵を最終ゴールとした洋画カリキュラムの中では水彩画はそこに至る「写生デッサンの一種」でしかなかったし、風景というモチーフもまた「歴史画」「肖像画」の下位に位置付けられていた。
そんな中で藤次郎は風景美の発見を使命として水彩画の普及を押し進めるのであるが、それはまた「同時代の明治文芸界の動向と密接に呼応し合い、共鳴し合っていた」。この時期の「新傾向」文芸には感情表現によるロマン主義的傾向と、「新しい自然」の発見(国木田独歩、正岡子規など)のふたつの流れがあり、藤次郎の絵画が呼応していたのは後者であろう。この流れは、当時紀行文などがよく読まれたというような事実にも現れていたようで、確かに人々の間に「新たに喚起された自然感情」があったのは間違いあるまい。藤次郎は、こんなことを書いている。「私達は氏(国木田独歩のこと)の短文を読み、文字で書いた立派な絵だと迄思つた」。これで言うと、風景美の発見というテーマの中ではやはり「絵」が中心的な手段で、小説や短歌・俳句さらに紀行文などの要するに文字表現は補助的なものという考え方がどこかにあったのだろうか。
そして実は、我々は未だにこの時期に起きた風景美の発見つまり「写生」という技法の中を生きている。別にそれが悪いと言っているのではない。ただ、そのことの歴史背景は当然念頭に置いておくべきだろうし、藤次郎の絵を見ていると彼が風景美もしくは写生ということについてどのようなことを考えたのがなんとなく伝わるような気もする。それはきっと、その時代に幾許かとも共有されていた感覚ではなかっただろうか。そう考えると、藤次郎の絵を見ているとその「写生」の末裔を生きている我々のことまでも思い、少し不思議な気持ちになる。
ちなみに風景の中でも特に藤次郎は「私は湖水が好きだ」と言っているが、水面、そしてそこに映る空、そういったものの描写はやはり素晴らしい。そして、そういうものの表現には確かに水彩画という技法が生きる。あの美しい空や水を、水彩という淡い表現で写してみようと思ったその気持ちはよくわかる。
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