2007/09/13
舞城王太郎『世界は密室でできている。』
《「密室の謎なんて、密室の中に閉じ込めときゃいいんだって」》
面白かった。面白かったが、この面白さはいったい何なのだろうか、と考える。作品の仕立てとしては、ミステリーではある。密室にまつわる、自殺や他殺や自殺まがいや、そんなものが次々と登場する。それでは種明かしが面白いのだろうか。いや、必ずしもそうではないだろう。密室の仕掛けの精密さもしくは意外さ、もしくはそれを取り巻く人間関係の複雑さといったもので唸らせる正統派ミステリーというのとは少し違う。
面白さの理由はいくつか考えられる。密室が引き起こす、物語というか、イメージの面白さ。いささか荒唐無稽の域に達するかも知れない、過度なイメージが密室をめぐっていくつも繰り広げられるのだが、それが面白いということもある。
あるいはキャラクター。主人公も、主人公の友人の探偵役も、あるいはその他登場する女性たちも、何か不思議とアクの強い魅力を持っている。不思議にそのキャラクターたちが読後に心に引っかかる。
あるいは文章。気取らず、日常会話的な呼吸の中でリズムよく繰り出される言葉の面白さ。少年の独白体自体も実に小気味よいし、それに加えて挟まれる卓球のように続く会話の反復の気持ちよさもある。
いや勿論、これら全部の要素が絡み合って作品の面白さを形成しているのではあるのだろう。イメージ、キャラクター、文章、それらの要素が複合的に作用しつつ、何か少しばかり異形めいた作品の感覚を残していく。
この作品にリアリティがあるかというと、微妙だ。最後の殺人事件の密室の仕掛けなんて、とても現実にこんなことがあるとも思えないし、そもそもその殺人犯だってなんだかリアリティがあるようにも思えない。にも関らず、リアリティに縛られて変につまらなくなっている作品よりはよっぽど面白いとも言える。
リアルではないが、アクチュアルである。この感じは、詩歌の世界で言えば例えば穂村弘氏などがそうだ。彼も、少女(なのだろう)の独白体を使って、リアリティというよりはアクチュアリティに満ちた世界を積み重ねていく。そう考えると、そこでは少年や少女の独白体というベースになる文体が鍵になっているようにも思える。
思うのだけれど、近代日本語が作り上げてきた言文一致の口語文とは今や、どこか不自由な文章になってしまっているのではないだろうか。誰もが薄々思っているように、あの言葉は「言文一致」と言いながらいささかも「一致」していないし(なにしろ、あんな書き言葉のように喋っている人間はどこにもいない)、そもそもその言葉が何かの意識を作り出すとしても、明治の青年層に起源のあるその言葉は、やはりいささか時代かかった青年(もしくはせいぜい広げて中年)男性の自意識らしきものを作り出すことしかできない。しかし、そのようないかにも書き言葉向けの自意識に果たしてどこまで現代的な魅力があるのか。さらにまた、その書き言葉自体に実は現代的なアクチュアリティがないのであれば、その言葉でいくら現実の対象を書いてリアリティを作ることはできても、全体としてのアクチュアリティは出ないという可能性もある。
いや少なくともこの作品が、いわゆる普通の口語文(つまり明治以来作られてきた、あの言文一致文)で書かれていたなら、内容は同じでもまったく違ったものになっていただろう。あるいは、対象がリアルではないのにそれを語る言葉はやけにリアルだ(その背景には勿論、その言葉を書き綴る自意識自体も時代にとって生々しいということもある)というそのいささか転倒した構造が、作品全体のアクチュアリティに繋がっているのかも知れない。舞城王太郎も、穂村弘も。


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