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2007/11/02

千の娘と一つの命

  • 千の娘と一つの命の画像

小さなものもふくめれば蕾〔つぼみ〕は、いまこそ百ほどあるのではないか。だから千の数字は、すこしも大げさではない。10月初旬のはじめての開花からこのかた、たしかにこのテラスの白い植物棚では千を優に超える蕾がふくらみ(その数じたいは初期より増えている)、じっさい開いた花の数も千にもちかい数百の規模におよんだのではあるまいか。

だがここ数日は、完全に冬の気候である。瞬間的には摂氏12、3度に達するような午後もあって、だからなのか枯れ朽ちる葉があるいっぽうでまだ生え伸びる(それとも止まってる?)蔓そして葉もある、そんな全体像のなか、痩せた緑のうえで蕾がジャンケンのグーのかたちまでふくらむのだけれど、そこから先はいっこうに花開かない、そんな日が数日、続いていた。

その開花が止まった日付は、まさにこの日記の過去分から特定できる。すなわち、10月22日付の日記のタイトルに「最後の写真」と記し、その本文中では「[こののち咲こうと咲くまいと]日記欄でふれるのも、本日をもって、最後とする」とまで宣言しはしたものの、新たに項(稿)を起こすのでなければ許されるだろう、というノリで添景(点景)としてソレをとりあげた10月27日付の日記の、その3つ目のコメントで、朝顔の体感温度にかんしてやりとりを交わしたもえぎさんへの報告として、「今日はついに花を開きませんでした(蕾はありますが)」と記しているのである。

さて、そこに記しているような寒さが、その後も変わることなく続き、きょうも氷点下近い最低気温の朝を迎えたのだが、全館暖房のおかげでTシャツと薄い掛け布団で眠り呆けて、11時まえにようやく目を覚ました私は、ブラインドをこじ開けて外をみた瞬間に心底、おどろくことになる。すぐさま地元紙のHPをみても、朝10時半時点での気温が華氏49度(体感同45度/摂氏7度)となっているのに、一輪の朝顔が花開こうとしている姿が、そこにみとめられたからである。

単純にいえば、上の耐寒温度にかんする議論を否定する要素の発現である。私はTシャツにウインドブレーカーを羽織っただけの状態で外に出て、ふるえながら数枚の写真をカメラに収めたあと、部屋にもどって朝食を摂り、そうして体感温度が1度上がって摂氏8度と表示されている11時半の時点でもういちど、シャッターを切った。それがいまこのページで画像として表示されている、ほぼ花が開ききった瞬間の写真である(全体的状況を伝えたいから小さくしか映っていないが右端近くで天を向いて開いている姿がみとめられよう)。

そう、最初は、あの終息宣言のあとだから、「この写真に映っているのは空だ」と強弁しようとさえ思ったものだ(笑)。が、そんな無益なことはやめた。奇蹟のように美しい光景には、それにふさわしい裏切り方はあるはずだし、まさにそのような文章としてこれを打ち終えることができたら、投稿するよりも先に、上の宣言の箇所にまず禁をやぶる旨を記しに行くことにする。

その予告のうえで、禁をやぶるのであることの見返りとしての思弁の、その結論の一を書き留めておくと、朝顔の、とくにこのセイヨウアサガオと呼ばれる(のであろう)種の耐寒温度にかんするわれわれ(もえぎさんと私)の議論にまちがいがあるのでは断じてなく(笑)、「この日に開花すべくプログラムされていた花々のなかで、突出して勁〔つよ〕い生命力をもっている」(上記27日付日記に本日11時50分の「出勤」直前の時点で書きこんだ第4コメント)、その一輪が咲いた、つまりこいつはアノマリィ[異常事態]にほかならない、というものとなる。

いや、これこそまだ凡庸と私の悟性がつよく言い募るから、もうすこし続けてみる。――いま私は、あたかもさまざまな能力もてる一群の人びとのなかに傑出した才能もてる一人がいて、煌いたのである、そのような擬人法的な見方(anthropomorphism)によった物言いをした。それは当初からこの花に女性的な趣を看取し、娘とみとめ、彼女と呼んできたことからも明らかだし、整合性もあるのだが、ところで同じ花を、雲衣。さんは別の感性を発動させて、「朝が翁」でも良いだろう、と書かれている。私はその評言からうけた感銘を昨夜、酩酊のうちに書き込んできたのだが、私の単純な直喩ともちがった、音〔おん〕に係る遊戯をふくんだその文学的な見立てにおいては、はたして、一輪ずつの花が翁に喩えられているのか、それとも朝顔の全体が翁のようであるのか。

それは、老人の朝は早いといったコモンセンス――私の師のように朝が遅い老人もいる――がうながしてくる自問であると同時に、さわやかな朝に咲き競う姿には娘たちの躍動をみとめ、他方、咲き切れずに夜にも開く姿には美しいバーのマダムの妖艶をみとめてきた、そんな見方(欲望の投影?)に反省の機運が熟すのを、私じしん、感じはじめていたからでもある。

そう、ジャンケンのグーで終わる蕾ばかりを抱く朝でも、植物棚にからまる朝顔の全体は生きている。まして、一輪の花が奇蹟のように咲いた今朝は、一人の能力がそこで花開いたのであると同時に、一なるものとしての生命体が部分としての一輪の花に全エネルギーを傾注したものとも、考えられる。いや、エネルギーの傾注と書いた瞬間にもうそこに卑小なアンスロポモルフォシスの、卑小ゆえの傲慢は発現しているのであり、ならばいっそのこと、傲慢の主――じっさいanthropomorphosisの起源は表象しえぬ神にたかだか人間が自身の姿形を投影する補償行為(あるいは哲学的には代補supplement)である――をも部分としてふくむ、より大きな生命のことに、思いをいたさねばならないのではないか。

そうして私のとめどない思弁は、あのガイアシンフォニーのような通俗的エコロジー(笑)に一瞬、流れてしまいそうになって、しかし踏み止まり、毎日のように通る径の周辺でこの秋、轢死した数たるや百を下ることはないだろうリスたちの、最後まで卑小かつ具体的な話でオトされる方途が探られる――。

じっさい、スタバに行く道すがらの私の横をささっと通り抜け、チッチッという口の音にふりかえって一瞬固まった、あの愛らしい一匹も、新鮮な轢死体の二、三に出会わないことはない日を数か月も生きていると、元気で生きてるかなと心配するより、轢かれて死んじまったと端からあきらめたほうが楽ちんなのだが、同時に、朝顔の一輪一輪が咲こうと咲くまいとその植物は生きているように、実りの秋に数百匹のリスが轢死しても、郡立公園と巨大墓地がひと連なりとなったうえに広がる森における、リスたちの豊かな生は、絶えることなく続いてきたし、またこれからも続くであろう。

そう、すこし恥ずかしいが、「森は生きている」と書いてもいい。そしていま、上の段落を書き終わった、ほんの15秒前にふと思い出したのだが、スラブの民話にもとづいてサムイル・マルシャークが書いたとされる同題の書物は、いまから40年近くも以前、小学校2年生のときにそれ――さすがに中高学年が読む岩波少年文庫版ではなかったはずだがルビつき漢字もあった絵本ではないやつ――を読んで書いた感想文がやたら先生に褒められた(賞ももらったかもしれない;でもこの学年で読書感想文なんか書かない気もする)、文にかんする私の最初の記憶に係るものでもあったのである。

(米国東部時間01日21時16分)

コメント(7)

2007/11/02

雲衣。 過分なお褒めの辞(そうとってもいいのでしょうか/笑)ありがとうございます。そこで「一輪ずつの花が翁に喩えられているのか、それとも朝顔の全体が翁のようであるのか。」に応えないわけにはいきませんね。これは朝顔の【一輪にこそ全体がある】という意味です。anonymさんの今日の日記にあるような《一輪の朝顔が花開こうとしている姿が、そこにみとめられたからである。 》のケースはもちろんですが、盛期のように無数に咲いているときであっても、観るときは一輪を眺めているのではないでしょうか。あるいは二輪か三輪、三輪くらいは認めることができますが、それでもやはり一輪の花に視線は還元していくのではないでしょうか。植物学者ならば全体を眺めるのかもしれませんが、それでも植物画を描く際は一輪ずつを見つめるしかありません。一輪にこそ全体があるという意味わかっていただけたでしょうか。 (☆ 卑近な喩えですが、よく思春期になった男の子は「おんなのひと」全体を夢想します。それは具象と云うより幻想に近い空想であり抽象度の低い妄想でしかありません。その怪しげな妄想をおとなになっても持ち続けている不自由なひとが「おんなに持てたい」とか「「どーすりゃ持てるんだ」とか足掻くようです/笑。)鉢や露地が美しく仕立てられ綺麗に手入れされた朝顔のひと群れはよほど巧く構成されていない限り、ぼくの目にはやはりある種の藪にすぎないように映ります。 社会通念として考えられてるより遙かに「歩く」のと「見る」のはむつかしい営為だとぼくは愚考しております(なんだか偉そうな言説になってしまって、困惑してますが、書き直すのもたいへんなので、どうかお寛しください)。 礼っ!

雲衣。 あのォ、もちろん「持てたい」云々は anonymさんとはナンの関係もないことを重々申し添えます /笑。

anonym アップしてから甘いビスケットをまず小腹に入れ、ついでシャワーを浴び、それからいま出来合いのパスタを食し終えたところです。すこし落ち着きました。以前は日記は、スタバで書くか、夜中に落ち着いてから書くか、どっちかだったのですが、最近帰宅して夕食のまえに書く日が多くなっています。ところが、空腹だから早く片づくかと思っていたのですが、かえって長文になってしまい(苦笑)。★さて、今回書き込んでいただいた内容は、ビールも入ってカーッと回りはじめている頭では即応のむずかしい部分があって――後半のカッコ( )に括られた色っぽいほう――、これは少し時間をおいてからとしたいと思うのですが、前半、「一輪にこそ全体がある」は、わかるという以上に、私の立てた「一輪ずつの花が翁に喩えられているのか、それとも朝顔の全体が翁のようであるのか」の二者択一の外部にある、とさえ認めておきたいと思います。つまり一見、前者の「一輪ずつの花が翁に喩えられている」ようでありながら、それが含意する、一輪ずつが集まった全体がほかにあるのではなく、あくまで「一輪にこそ全体がある」のです。これは雲衣。さんのような方には釈迦に説法なのですが、受容美学の全体/部分の循環のアポリアを、アポリアとしてでなく受容できる者には理解されることです(この同語反復に異常を感じないのは2缶目のビールが酔いをさらに加速させているからです)。「書き直すのもたいへんなので、どうかお寛しください」のセリフを、どうぞ私にもお貸しください。いずれ何かしらのかたちで本稿の改訂に役立てたいと存じます。(米国東部時間01日22時15分)

anonym 喘息で走れない人間がいうのも何なのですが、私にとって文章を書くことは運動のようなもので、それは、もっというと110メートルハードルであったり、3000メートル障害であったりするのです。そう、いずれもただの直線ではなく、障害物がある(笑/オリンピックのときしか[しかも深夜枠でしか]放送されませんが、あの水たまりとかがある障害物競争がおかしくて、おかしくて)。ところが最近、夕食前の日記執筆がとても疲れる(笑)。それは、110メートルだと思って走ったらぜんぜんゴールが見えなくて、結果的に3000メートル走ってしまうからだと思います。じつは一昨日、あの冷凍庫にかんする文章を3、4時間かけて書いたときも(でも11枚くらいに達してますからほんとうに立ち止まらず走るように書いています)、あとから左肩が五十肩状態になりました(2年前まで四十肩といっていたのですが四捨五入で五十になりましたので/笑)。★えっと、なんでこんなメタ日記論で書き起こしているかというと、今夜もまた全速力で3000メートルを走ったせいか、先に留保した雲衣。さんの第1コメントの後半部分への、それなりに気が利いた応接コメントが浮かばないのです(笑)。なんというか、直観的にわかるけど悟性が言葉をつむいでくれない…。たとえば「その怪しげな妄想をおとなになっても持ち続けている不自由なひと」のくだりの、その妄想を、私がまだ持ち続けていないと、どのようにして主張しうるのか、とか(笑)。ビールはすでに3缶目が空〔カラ〕にちかづいている(この3缶目の前にウイスキーのお湯割りも飲んでいる)ので、そんなことにせいにして書くと、いまはなき『スコラ』か何かで勉強していたハウ・ツー的な女性観と、電気を消したなかでモワモワと手を動かして得た女体〔にょたい〕の触覚の、その種のちがいのことをおっしゃっているようにも思われますし、ここでも先(前半部分)と同様、そのような二者択一の外部に雲衣。さんは立たれているようにも思われます(酔うと猜疑心が深まります/笑)。あるいは、「鉢や露地が美しく仕立てられ綺麗に手入れされた朝顔のひと群れはよほど巧く構成されていない限り、ぼくの目にはやはりある種の藪にすぎないように映ります」と書かれる点では、フランス式とイギリス式の庭園のちがいではありませんが私は「ある種の藪」(イギリス式)に惹かれたりもします(それは「よほど巧く構成されて」いる群れのような第一級の女性をまだ私が知らないからでしょうか)。明日になればわかるような気がしますし、明日になってもわからない気もします。いずれにしても、すこしお待ちください。日記も明日からはつとめて短く、あとから虚脱感に襲われない程度に、抑えるとします。(米国東部時間01日23時32分)

anonym なんだか「わかった」気になってきました(もちろん酔ってはいますが私はじつは酔っても思考力は変わらない[ハズな]のです)。それは私の、最近の日記項目中ではやたらアクセス数が多い失恋談義(笑)、すなわち9月21日付の「最初に失恋したのは、いつだったろう。」の議論にも関連するのですが、そうしてタイトルで「最初に」といっているということは、それだけでもう、私がたった46年の人生のなかで何度も失恋してきたことを、含意してしまっている――そう、まるで、お友だちがクルマに轢かれて死んでもその現実からまったく学習せず自分も轢かれてしまうリスのように。が、しかし、これは学習しないのではなく、学習したと思って前回(あるいは前々回)の経験を生かそうと思っても、恋愛にはまったくこういう学習は意味がないからなのです。これは換言すれば、女性を「抽象度の低い妄想」のレベルでとらえても、太刀打ちできないことを意味します。そう、ひとはよく、恋愛する相手がいつも似たタイプだといったりしますが――私の大学時代の女友だちに4人連続でカニ座のO型の男とつきあって毎回苦労していたバカがいましたが――、どんなに似ているようでも、誰ひとりとして同じではありえない。それこそ、朝顔の花のごとくに。――って、ちがってるかな(笑)? (米国東部時間02日00時41分)

雲衣。 《どんなに似ているようでも、誰ひとりとして同じではありえない。それこそ、朝顔の花のごとくに》とても良い表現だと思い、このまま書かずにソッと立ち去ろうかと。。。一瞬考えました。ところが、やはり、宿業と云いましょうか身から出た侘び寂びといいましょうか、かなり巫山戯て変わった性格を自他ともに認めるぼくは[話の通じる良い相手がいるとつい話し込んでしまう]のでした/笑。要するに、つい先ほどまでぼんやり湯浴みしていた露天風呂の中で考えていた、まるで逆のことを云おうとしているのです。要約するとそれは、「☆僕たちは通常ヒトの貌/表情を時系列で眺めてその一人のひとの全体性に迫っていくのです。そして、とりわけ好意を持っている相手だったりすると、一番いい表情をその人の「貌」の基準値として脳裏に刻むのではないでしょうか。その上でまた会った際には刻々と変わる表情の変化を感受し捕捉補強し、修正していくのだろうと。ところが、「朝顔の表情」はいわば空間系列に並んでいるのです。それぞれの花の違いは個体の差異ではなく表情の差異でしかないと。そして、最も好ましい一輪を「その朝顔の貌」とするのではないでしょうか、、、。  ところで《(酔うと猜疑心が深まります/笑)。》この言の葉、かえって普段のanonymさんの素直さというか床しく明朗な性格を逆に偲ばせてくれ、なんだかとても好きです/笑。

anonym ほんとうに寝る直前でした。削除されないように――削除される可能性のあることが書かれてあるかどうかもさておき(笑)――、ひと言、書いて床につくことにします。(ああ、明日はどうなんだろう、朝顔は。) (米国東部時間02日02時04分)

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  • 2010/08/31更新
  • 2006/08/17登録

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