2007/11/19
大塚英志『物語消滅論』
『物語消費論』という同じ作者による本があって、それはいい意味でも悪い意味でも80年代的な雰囲気を象徴する本だった。あの時代は不思議なほど思想の言葉が輝いていて、しかも面白いほどそれらの言葉というか動きが消費の最先端とリンクしていた。それは、表層的にも深層的にも。だから、確かにこの本でも触れられているように、広告とかマーケティングがある意味で現代思想の実学的な展開の場(この本の言葉を借りれば「応用現代思想」)として捉えられていた部分があった。
そして、それから約20年近くが経って、本書がある。80年代において輝いて見えた思想のさまざまなターム、そしてそれの実践としてのマーケティング、といった考え方も、やけに色あせて見える。たぶん、それは個人的な感慨だけではあるまい。思想の言葉が時代をリードしているという実感には程遠いし、実際たまに最近の〝思想家〟はどんなことを考えているのか、どんなメッセージを発信しているのか、と思って本などを覗いてみても正直なところあまりスリリングな感じはしない。あれはあの時代特有の夢みたいなものだったのだろうか、と思う。
そして、現在においては〝思想〟や〝消費〟に代わる時代の輝きの中心は〝ネット〟や〝デジタル〟だ。実際、ネットが作り出してしまったオープンソースなどのあり方は、あの80年代にしきりに語られた〝リゾーム〟の具現化ではないのか、というのはこの作者が指摘をしなくてもみなが漠然と思っていることだろう。あの頃、〝思想〟や〝消費〟が夢想していたことは、ネットがかなりの部分実現してしまったというのはかなりの割合で真実だ。そして、最近の〝思想〟の現場を見ると、どこかそのような〝ネット〟的ターミノロジーの植民地化しているような気さえする。いや、それはきっと誤解だけではないはずだ。
ともあれ、そんな時代において『物語消費論』の作者が再び語る。理論的なことはいざ知らず、この作者は常に実践者であるところが敬服できると思う。理屈を捏ね回すだけの批評家ならいっぱいいるが、実際に物語を自分の手で作ってしまうところに、やはり現場を知る人間の洞察と説得力のようなものがある。この本の中で作者が提示する世界観は、実はシンプルである。「イデオロギー」消滅後、それに取って代わろうとしている「物語」。そのことが招来するリスクを回避するために「文学」は必要であり、そのための実学的技術論として「文芸批評」も必要だ、ということ。そして、少なくとも僕は彼が提示する実学としての「文芸批評」というあり方に諸手を振って賛成したい。実学を離れた虚学(現場を知らない人間の理屈)など、ディレッタント以外の意味はない。文芸批評も然り、である。
なお、この本の中でも再三提起されながら、一向に結論もしくは解答の糸口のないテーマがある。それは、ネットが生み出す「新しい書式」の問題である。明らかに時代の変動を引っ張っているネットという存在は、確かにそんなものを含めた新しい何かを生み出す可能性を持っている。そう考えると、今必要なのはネット的なターミノロジーもしくはメソドロジーを踏まえた実学としての文芸批評(つまり〝物語工学〟〝コンテンツ工学〟)なのではないかと思う。




