みんなのクチコミが 261,720 件!

新着

... もっとみる
ログイン | ユーザー登録(無料)

2008/04/17

鹿島田真希『白バラ四姉妹殺人事件』

  《毎日毎日、鼻歌を歌いながらスイカをくり抜いてフルーツポンチを
   作ってくれるママが恐ろしくて、部屋に閉じこもった。》

 面白かった。以前に『六〇〇〇度の愛』も読んで、これもなかなか面白かったのだけれど、なるほどこの本を書いた上であの本に行ったのか、となんだか妙に納得できるところがあった。というのは、この人の文体はいささかスノッブというか非現実というか、そういう方向に向かいがちなところがある。金井美恵子の作品も僕はとても好きなのだけれど、どこかその雰囲気にも似たようなところがある(だいたい、この「白バラ四姉妹殺人事件」などというタイトル自体からして、センスに似通うものがあると僕は思うのだけれど)。この手の文体は、やはり詩に近いものがあって、文章自体に陶然とするのだが、一方で容易に想像がつくように、物語にするとどこか物語として固まりきらないままそのままふわふわと空に飛んでいってしまうようなところがある(勿論、そこがいいという話もある)。
 そんな中で、『六〇〇〇度の愛』はモチーフとして原爆ということを取り上げるのだが、これは原民喜や林京子などが作り上げてきた原爆文学の系譜から見るといかにも異端というか、場合によっては原爆文学史上もっとも“不謹慎”な作品にも見えなくもない(いや、本当はそんなことはなくて「ヒロシマ、モナムール」という先例があるのだが)。ただ、原爆というモチーフと鹿島田真希の文体のアンバランスが結果として文学的緊張になる、というのがこれは作者がどこまで意識的であったかわからないが、ともかくそのような作品として結実した。そして、この『白バラ四姉妹殺人事件』は、そのような『六〇〇〇度の愛』から、原爆というきわめて現実的な重みのあるモチーフを引き算した、そのような作品として見える。逆に言うと、「ああ、これに現実的な重さのあるモチーフを足し算すれば、確かにあの作品になるな」という感じがする。そしてそれは少なくとも、作品自体が持つ均衡という意味では成功している。
 しかしながら、こんなことを考えていると「現実」(リアリティ)ということが何を指すのか、ということが妙に気になってくる。意外に、『白バラ四姉妹殺人事件』で書かれた些細な日常のほうが今を生きる我々には「現実」なのではないか、という気がする。核の問題は今でも我々にとって切実な問題であり、「現実」の問題である。しかし、『六〇〇〇度の愛』で書かれたように、もはや博物館の向こうに行ってしまったような感のある「原爆」は、どうしても今実際に眼の前にある社会を生きる我々にとって「現実」として捉えるにはあまりにも「非現実」でもある。そういう問題こそ真摯に現実的な問題として考えるべきだという倫理的な話ではなく、純粋な作品のモチーフとして今の読み手にとってはそれは残念ながら「非現実」的だという意味である。
 問題は、『白バラ四姉妹殺人事件』に描かれたような些細な諸々こそが、今の我々の「現実」を構成するのだという、その事実にあるような気がする。そして、その事実の中からこそ、この『白バラ四姉妹殺人事件』の物語は立ち上がってきたような気がするのだ。ふわふわとした現実は、ふわふわとした物語を生む。その感覚が、この作品全体に満ちている。そして、そのふわふわしたものが、すっとまた現実に戻ってくるような、そのような往還の感覚が、この作品自体に満ちている。我々は、というか、我々の現実は、このような物語しか作れないのだ、というメッセージのようなもの自体を、この作品自体が孕んでいるような気がする。
 この作品の中で、登場人物がこう独白している。「よく考えてみると人に自慢できるような悲しい体験はしていないから」。あるいはこんな文章も唐突に登場する。「核が落ちたというニュースはやっていなかった」。このような「現実」から立ち上がってきた物語。ここで「地域新聞」を通じてもたらされる「四姉妹」を巡る物語は、その物語自体にリアリティがあるというより、その物語が語られること自体に何か不思議なリアリティがある。
 あるいはこう言ってもいいかも知れない。何か物語としての悲劇の基盤のようなものが欠如した時代があって、それが今だとしよう。にも関わらず人が生きて生活している限り実は悲劇はいくらでも起こる。そのように、悲劇の基盤がない時代に悲劇が起こること自体の悲劇、そのようないささか語義矛盾的な感覚がこの作品を徹頭徹尾貫いている。いささか耽美的でもあり、いささかコミカルでもあり、しかし悲劇的でもあり、そのようなものとしてこの作品が多義的に成立しているのは、そもそものこの作品を貫く感覚が語義矛盾的なものから発しているからだ。
 しかし、忘れてはならないのは、このような語義矛盾的感覚が決してこの作品のみに留まるようなものではなく、実は今の時代の何かを正確に反映しているということだ。『六〇〇〇度の愛』もまた、そのことを別の側面から照らしてみようと思った作品にも見える。少なくとも、彼女の作品はともに、今の時代において小説を書くことの難しさ、あるいはそのような行為自体がそもそも語義矛盾的な感覚の中を彷徨わざるをえないこと、そのことを真正面から見据えているように思える。

コメント(0)

まだコメントされていません。

  • コメントを書く

携帯でこのページにアクセス

鹿島田真希『白バラ四姉妹殺人事件』

2次元バーコード対応の
携帯で上の画像を読み
取るとアクセスできます

トラックバック(0)

まだトラックバックされていません。

トラックバックURL
http://www.kanshin.com/tb/diary-1413958

空間内の日記を検索

ono-deluxe

ono-deluxe画像 「ono-deluxe」 いろいろと書き物をしています。(このサイトは、小野裕三の公式ブログです) ... もっと見る

  • 2008/09/30更新
  • 2007/03/12登録
ページの先頭へ ページの先頭へ