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2008/05/14

前田塁『小説の設計図』

 いわゆる文芸批評のジャンルに属するものだと思うし、実際帯で蓮実重彦氏がそのような趣旨のことを書いているから、やはり文芸批評である。
 ただ、別にこの作者のみのことではなくて、文芸批評というか批評一般に言えることだが、批評の文章になにか香気のようなものが薄れてきて久しいように思うのだ。文芸批評は文字通り文芸を批評するものだが、と言って文芸の外にあるというよりはそれ自身もまた文芸の範疇にあるものとして、一個の文芸作品として屹立しなければならない、と僕は思うのだが、最近の文芸批評はどうにもその感が希薄である。言ってしまえば、文芸批評の本の雰囲気が思想書や哲学書の雰囲気に近い(昔はそういう本が多かった)、というよりはどちらかというと『別冊宝島』的な、少しスノッブなマニュアル本、に雰囲気が似ているのである。
 いや、時代は変わったのだ、今ではもうそんなものは流行らないから、と言われればまあそれまでなのだけれど、個人的には少し淋しい。文芸批評は文芸作品として屹立すべきであるというのが僕の理想だし、要はマニュアル本的にその時代のみで消費されて終わりというよりは、長く名著として受け継がれるようなものであってほしい、と思うのだ。
 と、まあそれはそれとして、しかし本書も読み物としてはなかなか面白い。今の時代に旬な作家(漫画家一名を含む小説家たち)を取り上げて、それぞれに解説をしているのだが、一番読み応えがあったのは小川洋子の章だろうか。『博士の愛した数式』に舞台として登場する阪神戦、その実在する一日に実は野球史的なトピックがいくつも重なっていたのだとする、その語りの手つきは非常に読み物として面白い。また、小説家のつく「嘘」について徹底的に追及しているのも、これもまた楽しめる。その他にも、多和田葉子の章では多和田葉子の文章自体を偽装するかのように批評を進めるのだが、これもまた洒落た試みである。
 ところで、あらためて思ったのだけれど、その小説家のつく「嘘」について。確かに『博士の愛した数式』を読んだときには、八十分以前の記憶は消えてしまうという「博士」の設定に、「なるほど」などと思いながら、若干疑問を感じつつもなんとなく流れで読まされてしまったのだが、この本で指摘されているように確かに変だ。例えばの話、この小説の中では「ノーヒット・ノーラン」になりそうな野球の試合を観戦するのだけれど、八十分しか記憶の持たない人がその試合を「ノーヒット・ノーラン」になると興奮をもって見られるわけがない。要するに、とんでもない嘘の設定なのである。ただ、それにしても物語の美しさの必然からは、この博士は記憶を短時間で無くさなくてはならなかったし、そして何か特別な野球の試合を見なくてはならなかった。だから、多少の嘘も隠しとおしてしまう必要があったのであろう。
 創作上の真は、決して現実生活の真と一致しない。これは別に小説だけに限らず、いろんな創作ジャンルに共通することだろう。勿論、このふたつがなるべく一致するようにはしつつも、どちらかを選択しなくならなくなった場合には、創作上の真を採る。小川洋子も意識的か無意識にかはわからないが、そのルールに従っただけなのだ。

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