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2008/05/14

俵万智『考える短歌』

 結構、僕はマニュアルというものが好きなのだ。マニュアルにすれば簡単なことを、妙に難しく語ろうとする人は世の中のどこにでもいて、でも要するにマニュアル化できないのはその人自体もよくわかってないから、なのである。自分でもよくわかってないから、マニュアル化すらもできず、奇怪な精神論に走る――このような光景は、本当に世の中のどこにでもある。マニュアル化できるということは、その人がその世界のことを本当によくわかっているということのひとつのメルクマールである。例えば、この本における俵万智がそうだ。短歌の世界のことがよくわかっているから、それをきちんとマニュアル化できるのである。誤解のないように言っておくが、マニュアルがすべてであると言っているのではない。短歌の世界(もしくは芸術の世界)は、マニュアル化してすべてがわかるような単純なものではない、と、それは確かにそのとおりなのだ。だが、それはいったんマニュアル化した後にさらに残るものがあるという話であって、マニュアル化もする以前から議論するようなことではない。
 と、まあそんなわけでこの本は極めてマニュアル的な短歌の教本になっていて、精神論に走らないきわめて明快なその解説は見ていてすがすがしい。「ここまでであれば短歌の作り方は理屈で説明できます」というラインを極めて明確にしているのだ。勿論、本当は「ここから先には語れない世界があります」ということを暗黙の前提にしているはずだが、そんなことはおくびにも出さないのがまた気持ちいい。
 ところでその短歌のマニュアルなのだが、意外に俳句のジャンルでも適用できそうなルールがあるように思った。特に同感できたのが、「句切れを入れてみよう」「思いきって構造改革をしよう」「副詞には頼らないでおこう」「数字を効果的に使おう」「色彩を取り入れてみよう」「固有名詞を活用しよう」というような項目。これらはみな俳句にも当てはまる。特に「副詞には頼らないでおこう」の章で、著者は「ふと」という副詞は非常によくないと主張しているのだが、これは実は僕も以前から俳句の中でそう思っていて、それなのにそのように主張する人がいないので首を傾げていたのだが、なんと短歌の世界に同じ趣旨のことを言っている人がいたので驚いた。要は、「ふと」もそうだしあるいは「不意に」といったような言葉は、もともと俳句や短歌がそのように「ふと」「不意に」感じたことを作品にするものなので、そのような言葉を使うと実に簡単に俳句・短歌らしくなってしまうのである。だが、それはある意味で安易さに繋がる。俳句の場合には、このように安易に「ふと」を使うと、季語がまったく効果を発揮しなくなるということになりやすい。短歌の場合はどうなるのかよくわからないが、まあ基本は同じということだ。
 一方で、このようなルールは俳句には当てはまりにくいかなあと思ったものもあった。その多くは、やはり長さの違いに由来する。「動詞が四つ以上あったら考えよう」「比喩に統一感を持たせよう」「初句を印象的にしよう」「会話体を活用しよう」といったものはあまり俳句には当てはまらないものだと思った。また、「あいまいな《の》に気をつけよう」というのもあって、これもまた俳句にも当てはまると言えば当てはまるのだが、ただこれは僕自身の意見も混じるのだけれど、俳句の場合にはこの「あいまいな《の》」がいい場合も結構あるように思うのだ。このあたりは、俳句と短歌の違いなのか、あるいはそもそも短詩型に対する考え方というか作風の違いなのか、そのあたりはよくわからない。
 この俳句と短歌の違いということで言うと、もっとも気になったのが「会話体を活用しよう」という項目。会話体を取り入れるということでは俳句は圧倒的に短歌に遅れをとっていて、まあそれを「遅れ」と言ってよいのかどうかもよくわからないのだけれど、とにかくここが現代俳句と現代短歌の大きな違いではある。この違いゆえに、短歌のほうが圧倒的に時代に対してアクチュアルになっている気もする。作品自体もそうだし、歌人という存在自体もそうだし、短歌のほうがいろんな意味でアクチュアルだ。この「会話体」の問題の延長でもうひとつ気になった項目が、「現在形を活用しよう」というもの。現在形を活用することによって同じ内容でも作品に臨場感が出るということなのだけれど、これも俳句ではどうだろう、むしろ「かな」や「ありにけり」ですぱっと切ったほうが臨場感というか潔さが出る場合が多い。
 最近思うのだけれど、俳句にはいろんな仕掛けがもともと施されていて、それは季語もそうだし、切れ字もそうだし、つまりは時代とは少し切り離されたところで自立しうる豊かな土壌を持っている。そのこと自体は確かに、俳句の美点なのだ。けれども、自立は孤立とも繋がる。それだけで自足しうる豊かな土壌を持っている(つまり、時代の変化にもびくともしない、まさに虚子が俳句は戦争によって何も影響を受けなかった、と語ったように)ものとしての俳句は、その反面で時代やあるいは他の創作ジャンルから孤立する、ということにもなるような気もする。「会話体」といったことは勿論、ひとつの例に過ぎないのだけれど、俳句のそのようなそれ自体として屹立しうる特性は、果たして自立なのかそれとも孤立なのか、そこは最近少し迷っているところである。

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