2008/05/14
『海程200804&05』
師走だと言ってしまえぱ貸し借りなし 相原左義長
荒星の底の文房具店探す 塩野谷仁
落ち葉の家ブンパブンパとやかん鳴く 河原珠美
難聴やりんごに蜜が入らない 長谷川育子
ひとりの音母へ母へと柿を剥く 丸木美津子
病葉は見られてしまった日記のよう 森美樹
銀行やポインセチアと他人ばかり 前川弘明
糸遊は大きな仏つれて来る 清水伶
着膨れて妻に掃除機で転がされ 峠谷清広
幾重にも蜘蛛うつくしき留守の家 稲葉千尋
北陸本線遠し冷蔵庫を開ける 木下ようこ
皿洗う夜汽車過ぎゆくようにかな 高松葡萄門
銀河濃しわれらは水の惑星に 前川弘明
餅搗きの前夜の母は決起めき 宇野律子
鮫すーっと動いてたっぷりの夜かな 宮崎斗士
順にいろいろ順調その他大晦日 谷佳紀
極月の祖父は枠からはみ出ない 油本麻容子
大根引き右手左手釣り合うよ 奥山和子
橋渡るとき手袋のまま祈る 室田洋子
小柄な老人加わり大鷹調査隊 木下ようこ
冬の空難問解けたときの眉 月野ぽぽな
最近少し人に俳句を教えたりする機会があって(と言ってもあくまで個人的にだが)、俳句を説明するということを考えるようになった。作品を見て、「ここが悪い」というのを指摘するのは比較的簡単だ。その推敲の方向を示すこともできる。だが、実際に推敲するのはやはり難しい。特に季語の選定は難しい。「この句は季語がよくありません」ということは指摘できても、はたしてそれでは何の季語ならぴったり嵌まるかというと、簡単には見つからない。
その一方で、いい句を説明するということも考えてみた。ある種の句は、その良さというか上手さをきちんと説明することができる。ここで上げた句では、丸木さんや稲葉さんの句がそうだろう。うまく説明できる句というのは大概が上手い句で、その説明は理論的であるがゆえに自作にも活かすことができる。要するに、自作を推敲する場合にその「上手さ」の理屈を取り入れるのである。なので、そういった句については自作ながらも「どこがいいか」を説明することができるようになる。そのような句は、自分でもたまに作る。「この句はここが上手いんだ」というのが自分でもわかっている。
だが、この説明がまったく不可能ないい句というものがある。上記では、宮崎さんや木下さんの句がそうだろうか。まあ、こうなると感覚というかセンスの問題なのでしょうがない。例えば木下さんの句では、「北陸本線」や「大鷹調査隊」といった言葉の選定が抜群に上手い。上手いのだが、なぜそれが上手いのかというのは、うまく説明できない。これを説明しようとすると、読み手の詩的解釈を披露するばかりになる(まあ、それが面白いという話もあるが)。ただ、この手の説明不可能な句は、追随不能な上手さにもなる反面、一般性がなくなる危険性も合わせ持つ。一般性がなくなるというのは、要するに理解もしくは共感をできる人が少なくなってしまう、ということでもある。






