2009/06/16
岸本尚毅『俳句の力学』
俳句評論というのはこれまでいろいろ読んできたけれど、これほど洞察に満ちてしかも理路整然としている本はかなり稀有だと思う。評論・批評というとカタカナ名前の人たちによるややこしい理論をやたらに散りばめて、それで足れりとするような物は世の中に数多い。別にそのような引用がいかんとは思わないし、逆にそういう物の存在を知らずに理論的な文章を書くのもそれはそれでやはり困ったものだという気はする。ただし、結局外部の理論の当てはめに過ぎず、そこに実作に根ざした説得力のあるオリジナルな論があるかというと、はなはだ疑問であることが多い。
ところが、この本はいささかもそのようなカタカナ名前の理論家もその理論の引用も登場しない。出てくるのはひたすら俳句のことと、虚子に代表される俳人たちのコメントばかりである。にも関わらず、きわめて知的に整理されている。「切れ」について解説している部分などは、まさに瞠目しながら読んだ。切れについての解説としては、俳句史上最高の物ではあるまいか。
冒頭の章から、著者は「俳句の現場における最も重要なフロンティアが季題です」とする。まず、この見解に僕は大賛成である。季語から逃れようとすることがフロンティアであった時代はとっくに去り、季語に向かってしかしそれが決して「守旧」から連想されるような惰性の場所ではなくそれをフロンティアとして意識しながらアプローチしていくこと。今の時代の俳句の課題はこれなのだと僕も思う。俳句とはそのような季題を通じて「宇宙の諸相の中に<俳句という秩序>を見出そうとする行為」とする作者の俳句観にも、やはり大賛成(なお、著者はそのような「俳句的な秩序感覚」を理解するために、読み手にもある程度の俳句的なリテラシーが必要だ、とする)。
そして、そのような俳句観を前提に、著者はさらにこんなことも言う。彼は俳句を作るという行為を「創作」よりも「演ずる」ということに近しいものだとするのだ。音楽の演奏やあるいは能などの上演、そういった演ずるという行為にむしろ俳句は近いのだ、と。そして、そこに演ずるにあたりその演じられる題となるのが、「季題」である(この考えから行けば、確かに著者の言うように一句の中に季語がいくつもあったとしても中心となる季題はひとつしかない、ということになる)。
そして、繰り返すが僕がもっとも感心したのは「切れ」についての説明。「切れ字の本質的な機能は<切る>ことではなく、<束ねる>こと」とする著者は、切れとは定型という「堅牢な圧力装置」の中で言葉の圧力を高めるための装置だ、というのだ。この視点から著者は、切れ字の効果を具体的な句に即しながら丁寧に解説していくのだが、とにかくその手つきは絶品である。ここで縷々は引用しないが、興味を持たれた方にはぜひ一読を勧める。「俳句の論理」とは「季題と切れの相互作用に関する言葉の力学」であるとする作者の言葉は嘘や誇張でもなく、本当にそこには言葉を精緻に読み解くことによる「言葉の力学」が理路整然と解説されているのだ。
それにしても、この著者、中学の頃から「俳句マニア」であったということだが(ちなみに僕にはそんなことはまったくありませんでした)、その徹底した「俳人ぶり」にはとにかく恐れ入る。俳句とは結局のところ、「<季>を詠うことに特化した和歌の変種と考えてよい」とまで断言する著者のその所作はどこか禁欲的なようにも見えるが、その禁欲とはもともと俳句自体が持っている禁欲なのだろう。同時代の中でも卓越してしっかりとした感覚とそこから導き出される理論、そして徹頭徹尾、俳人的な身振り。いや、本当に怖ろしい俳人だと思う。
『ono-deluxe』(小野裕三公式ブログ)
『ono-deluxe』(小野裕三公式ブログ) 俳句・俳句評論など、いろいろと書き物をしています。 ...
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- 2012/01/30更新
- 2007/03/12登録






