2011/11/12
4:57 pm 尾崎豊(笑)と自己批判と自浄作用と情報化社会
なんと、この文章は尾崎豊批判を批判する文章である。しかし尾崎豊擁護がしたいわけではない。では何がしたいのか。それはまぁとにかく読んで欲しい。
まずこの文章を書こうと思った原因はこのスレを読んだことにある。
今の若者は尾崎豊に全く共感しないらしい 「独りよがりで意味不明」「何に怒っているかわからない」
まぁ非常にありがちな「15の夜」と「卒業」批判の大合唱である。その中でとりあえず75番の書き込み、
75 :名無しさん@涙目です。(福島県):2011/10/23(日) 21:00:58.80 ID:jDvU3ZWv0
おれゆとりだけど傷つけた人々へって曲が好きだ。
歌詞がいい。
とあるが、尾崎豊は弟がいっぱい持ってたので、大体知っていると思ったが、「傷つけた人々へ」といわれてももう思い出せない。しかし今の時代10分もあれば、探して最後まで聞くことができる。
尾崎豊さん『傷つけた人々へ』の歌詞
傷付けた人々へ 尾崎豊
しかし、どうもこれをした人はいなかったのではないかと思われる。そのページで「傷つけた」を検索すると今の書き込みを含めて3ヵ所のみで、「今聞いて○○と思った」とは、少なくともこのページ選ばれたカキコの中にはない。
別に「聞いたが青い歌詞でダメだった」でもいいのだが(僕もそんな気はするw)、それすらしない人の集まり方に批判をしたいのである。彼ら一人一人は「自分達は間違う事はないので、そのような事をする必要を自分が感じ行う必要はない」とでも思っているのだろうか。自分が変える事が出来るのは自分の行動だけなので、自分がしなければその集団が変わる事もない。そのような集団は自浄作用がないと言うべきで、そこから出てきた言葉を無批判で受け入れるなどと言うことは僕はしない。
もっと言えばどうせ全ての情報を追うことなど出来ないのであるから、自分達の発している情報の信頼性は自分自身であげる努力をしなければ、情報を受け取る側にコスト負担を強いる事になり、それを受けとり側が必ず負担するとは言い切れず、無用なトラブルが増えるだけだと思う。トラブルの例はいちいち挙げるまでもないだろう。
なにムキになっている?と言う人はいると思う。コミュニケーションは猿の毛づくろいと同じで、それを行う意義は、集団の価値(全ての猿がいつも外敵に目を光らす必要がない等)を、集団を維持するコストを負担しないのに受け取る者を探す事にあるのだと。それも正しいであろう。それをきちんと行う人が自分の周りに集団を維持することが出来て、そういう人がモテるのである、みたいな文章も読んだ。モテると言われれば僕も気になりはする。だがまぁこの点について、あなたがモテる猿になるか、情報のキュレーターになるか考えて欲しいと思う。
あと、その歌の歌詞そのものであるが、「僕はなんてまぬけな男だったろう」みたいな事を歌っているのである。別に何でもいいが、とにかく自分に対して批判的な視点を持つ事をするくらいな誠実さはあるのであろう、そういう人の言う事の方が耳を傾ける価値があると僕が思っても別にいいだろう?とは思う。
ちなみにそのページで、「黄昏ゆく街で」をいい曲といってる人がいたこれも聞いてみた。自分が別の場所で、「ガラス割るなと批判する人がいるが、今の街中の落書きも迷惑という点では同じじゃね?」といった事があるが、こんな歌詞があった。
壁の落書きには思い出すものもない
何時誰が書いたのかすら僕らは知らないけれど
雨に打たれ風にさらされ時の過ぎ行くままに愛を
育んでいる二人にどこか似ている…
(まぁくさいかw)







lightcyan


