Vil´em Flasser
自分用雑記になります。
僕をここに連れてきてくれた友達は超初期の関心空間ユーザで、関心空間がメディアテークで賞を受賞したときに同じく賞をとっていたメディアアーティストなんだけど、彼が紹介してくれた哲学者、コミュニケーション学者。情報科学者。
ほとんどバイブルといっていいくらい大変な影響を受けた。
テクノコードの誕生の冒頭がやばい。「コミュニケーションは、独房の中で死に向かう生という絶望を忘れるために人類が発見した方法。」という定義。
この定義にめちゃくちゃ感激した。言葉や情報科学や情報科学や価値、経済といったことについて釈然としないなにかを感じていたのが解消された気持ちだった。
「情報」は根本的ななにかなのに、情報学のどの本にもなかなか死との関係がかかれないのは、この本を読んだあとの今となっては不思議なくらいだ。
フルッサーの本は直接的に便利な思考、因果律、がぎっしり詰まっている。IT企業の社長やナレッジマネージメントに興味がある人には必須のツールだとおもう。「知的創造企業」だとかを呼んで感銘を受けた人は、そのずっと洗練かつむき出しにされたものが提示されているのを見て取れると思います。暗黙地や形式知、情報交換、ノイズ、といった概念をどうあつかうとどう集団が生産性を発揮するか。といった自体にも大変な良い影響を持ちえると思います。そういう意味ではドラッカーに勝るとも劣らない経営哲学者だと思います。
フルッサーで検索するとなじみのある(というか自分のいた大学の教授)がリストされてるようなページがでてきて気まずい。自己愛か。
ふうむ。そうだな。正直いって、しばらくの間(それこそ暗黙知的には作動していたといえ)、自分の意識のにはのぼってこなかった。固有名詞として口にもぼってこなかったな。
その口に上ってこなかった期間にインターネット上や情報社会において、あるいはそれがあまりに経済的にも思考回路的にも恋にも運動にもなににも強い影響を既に持ち始めていることを考えるならすべてにおいて、ということにもなるが、フルッサーの思考はものののみごとに問題の革新をついているようにもおもう。
集団知、フォークソノミー。ウェブ2、SEOやSEM、情報の価値、広告、sutatsとBIによるアテンション(注意)の数値化と金銭かと広告の次世代の提示、情報の次の提示、あらゆることがフルッサーの前に整列していくような気配がする。
たとえばテクノコードの誕生の1章などの情報交換形式をノイズの度合、可逆性、などの属性から、「劇場型」「ピラミッド型」などなどとを図も交えて書き出していった様の新鮮さといったらない。
その際に描かれていくじょうほうの価値の描写も実にかちっとはまる。たとえば「会議型のコミュニケーション」では、参加者はヘイに囲まれていて外部からのノイズを遮断されている。その中で情報交換をする。劇場型やピラミッド型と違って、会議においては常に毎日新しい決定が吐き出されていく。これはエントロピの増大であるので、ネゲエントロピも必要とする組織としては直接的には必ずしも喜ばしいことではないはずだ。だけどそこに何かしらの自己組織化するような情報が見出され、それがネゲエントロピを発揮するならば別。だから会議は、新情報生成=エントロピ増大をしつつそこに生まれた情報に、自己組織化なりネゲエントロピ可能な情報を発見するコミュニケーション形式である。よって会議には参加の時点で所持する情報に大きな差異のあるような参加者がいるときにもっとも大きな価値をもつ。
あらためて今読み直しましたけどこれ凄いじゃん。こんなの。もうふつうに「すごい会議」よりずっとすごいじゃん。ふつうに便利じゃん。超具体的じゃん。哲学的深遠と事実分析と具体的提案が同時に存在するじゃん。めちゃくちゃすごい。こうありたい。
情報吐き出しは、こういう情報情勢とネゲエントロピ的=生産性向上、価値作成、費用対効果の高い因果律の発見のためにもいいし、知的創造企業、なんかの本は前提としてそういうことを期待している。けれども一方でフルッサーは、あらかじめ、冒頭で、コミュニケーションは死の忘却を因果する。ともいっている。死を忘れることに大変な価値がある。
個対(というか遺伝子)は利己的で、自身の死を避ける。また死を忘れたいとおもっている。また種の反映というよりは自身の快楽のためにセックスや恋を求める。といった行いをすると。その中で、死をさけるためには生産的でなくてはならず、そのためには情報の混ぜ合わせを上述の会議型にみられるように、生産を行う。一方で、これとは別、というか死をとりあえず避けられるとして、いずれ来る死は避けられず、だからそれを忘れようとする強い力があり、よってコミュニケーション=情報交換はこのためにも用いられる。恋や快感のための情報交換も当然あるとおもう。フルッサーは性交中の関係、情報交換を一応特別視している。個人的にはこの三つを区別して扱うようにしている。一見、ある情報交換行為が、どれかのためだけにみえても、多くの場合オはそのミクスチャーだったりする。
少なくとも、情報交換は生産性向上や、恋などの密度の濃い快感のためだけではなく、三つ目として死の忘却がある。という知見は僕には大変了解のいくものだった。するとエントロピーがバカみたいに増大していくブロガーたちやウェブ2的なもの(関心空間も含む)の存在理由、というか存在できる理由が分かってくる気がする。
あーメモだ。でもフルッサーは忘れちゃいけない人だとおもう。ので日本語でのURLが一個増えるだけでも僕は幸福です。
哲学的深遠と事実分析と具体的提案に加えて、死と心の恐怖を扱うのだぞ情報はという情緒的なものすら、同時にに提示してくる偉大な思想家。
- 2006/09/04登録
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