私の百人一首
百人一首は四国八十八箇所巡礼の旅に似ている。それは理屈抜きに『美』を直感的に掴み取るための自問自答であり、鑑賞より観照により近い自己発見の『旅』に似ているからだろう。
藤原定家の作為と遊び心に心地良く翻弄されながら詠い進めば、彼が新古今の編纂とはまったく違った心象でこれらの歌を拾い集めたであろう風景が見えてくる。
ひとつひとつの歌は独立しつつ対になり、或いはそれらが滔々たる大河の如き連歌の流れを作りあげて序破急をなし、やがて穏やか大海へと収束してゆく。これを四国遍路に譬えれば、それは順打ちの歩き遍路かも知れないし、その時々の個人的なテーマに沿った区切り打ちでもあるようで、発心から涅槃までを辿る詠み人と歌い人との「同行二人」の旅であるとも云える。
白洲正子は言霊(ことたま)によって観念世界が具現化すると信じた王朝貴族たちや、彼らの僕(しもべ)となって歌を紡ぎだすことに命を賭けた「ほかいびと」たちの、妖艶にして有心のザワメキを感じることができればそれだけでいいと語るが、その淡々とした中にも核心を突く悠揚迫らざる態度は、従前の解説書とは異なる一種独特な、何処までも柔らかいビロードに包まれているが如き暖かい粘膜すら我々に感受させてくれるだろう。
百人一首には採用されていない歌の中に詠み人の真実を発見し、それを脚韻として用いながら何故百人一首が百人一首たるかを仄かに匂わせる。その手法は多くの頁を裂いて語った西行法師に於いて顕著に現れるのだが、定家の意図を白洲正子が表現すると、対比と消去の妙たるものの何かが薄っすらと見えてくるような気にさせられるのである。
なげけとて 月やは物を 思はする
かこち顔なる わが涙かな
***
春風の 花をちらすと 見る夢は
さめても胸の さわぐなりけり
世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して
みやこ離れぬ わが身なりけり
世をすつる 人はまことに すつるかは
すてぬ人こそ すつるなりけれ
***
願はくは 花の下にて 春死なん
そのきさらぎの 望月のころ
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