「リアルのためのフィクション」(東京国立近代美術館)
ソフィ・カル、やなぎみわ、塩田千春、イケムラレイコ。
四人の現役女性アーテイストの作品十五点ほどによる小さな企画展。
展示される作品はすべて1990年代に制作されたもの。
「リアルのためのフィクション」というコンセプトはやや正しすぎるしそしてあまりにも大きすぎる幅を持った(大風呂敷広げ過ぎな)考え方でもあるから十五点程度のこの小さな企画展にはそぐわないようにも感じられたのだけどしかし観た後の印象としてはむしろ的確なタイトルかなとも感じられる。
そもそも本来ならば「リアル」と名指すべきものはそれこそ収拾がつかないほどに多様であるはずなのだがしかしここでは「現役」の「女性作家」による「1990年代」の作品が集められているのでかなり共通性のある「リアル」が問題となっている、つまり二十世紀後半の女性たちの現在(リアル)が多かれ少なかれここでは問題となっていてだから共通な問題の多様な様相としいくつかのフィクションがここにはあるというまとめられ方が最終的にはなされているのだ。だからこの展示を見た後では「ひとつのリアル」の「多様な様相」をあらためて再発見することができてなかなかすっきりとした気持ちになることはできる。誰もが気になっていた現役女性作家たちの多様性がここではコンパクトに(しかし多様性を損なわず)そして良質にまとめられていてそれこそ驚きの新発見こそないもののなかなか完成度の高い必然性ある企画となっている。とても面白かった。
ひとつのリアルをめぐっての驚くほど多様な様相をここでは観ることができてだからその自由の豊かさには作家的な逞しさすら感じられもするのだけどしかしそれでもそれぞれが(異なったフィクションを操作しながらも)似たような閉塞感と闘っているという点では驚くほど共通してもいてそのほどんど「同じ」といいたくなるほどの四人の共通性にも同時に見る者は気づくことになるのだ。女性が女性として価値ある者であるその在り方にことさら正面切って挑みかかっているわけではないのだがしかしその女性が女性として在るその在りようがときに自らに対して自己免疫的に襲いかかって来てそしてそのとき彼女たちは「自己としての孤独」というよりも「女性であるわたし」としての孤立とも言うべき切ない寂しさを感じざるをえないようなのだ。なにひとつ落ち度がないはずなのに不可避的に感じなければならないこの耐えがたくも切ない孤立感とはなんなのだろう、と。そこで彼女たちはその閉塞感に向けて闘いを挑むのである。
たとえばやなぎみわはその孤立を社会的・歴史的に考察し厳密に位置づけようとするしまたソフィ・カルは私的体験をクールに解体することでそのほつれの只中に切ない孤立からの脱出口をさぐろうとする、またイケムラレイコは可愛らしいイメージにさも当然のように悪意的な切なさを滲ませるし(可愛らしい意匠のなかに含まれている悲痛な切なさを方法的に浮かび上がらせそれをイケムラレイコはことさら強調しようとする)そしてまた塩田千春はその切ない孤立をさらに深めて存在論的な絶対孤独に直接的に変質させてしまうことを目指し(おらくは不可能であろうことを目指し)ひたすら泥を浴び自然的な存在になってしまおうと不可能性の壁にひたすらぶつかり続けているのである(痛々しいほどに生真面目に)。
自由と解放とそしてそのプロセスとしての豊さと。
それこそが九十年代の女性たちのリアルということなのだろう。
とても面白かった。
- 2007/03/31更新
- 2007/03/31登録
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