Notre musique
アワー・ミュージック
2004年フランス、ジャン=リュック・コダール監督映画。邦題はアワー・ミュージック 原題はNotre musique.
今更ながらこれを見る自分というのもマヌケな話だが、まあいいものはいつみてもいいし、とくにこの作品が永久に見られる価値のある真の詩的映像美というにふさわしい芸術作品である事実に、偽りなどあるはずもないのだから、ただちょっと自嘲しながら何食わぬ顔でいればよいのだ、と素朴に言い聞かせてみるだけでことは足りるだろう。まあ、監督自身がある種の「遅刻者」なわけで、遅刻することで明るみにでる断層、断絶がもろに映像として切り貼りされているというわけなのだから、ここではみずからを遅刻者として自覚することによって、自己言及のパラドックス(JLG/自画像)が進化したスタイルを、おのずと感知するにいたっているはずなのである。
作品のいたる箇所は引用で埋め尽くされている。阿部和重×蓮實重彦の対談でも明らかにされているように、ジョン・フォードの「投げる身振り」と作品構造面においてメタ的な連なりを見せるカットに、その意識は顕著に現れる。
映画はまた、多くの文学、哲学を参照している。それはブッキッシュなあまり、ともすればパラノイアックに観られてしまう向きもあるだろう。だが、引用される一節一節には、その著作のコンテクストから剥ぎ取られてパッワーク的に張り巡らされるあいだに、そのどれにもすべからく「幽霊」(デリダ)が宿ることになる。いったんコンテクストから乖離した引用に宿るこの「幽霊」は、今度は映像に憑依しようとして躓く。その躓きゆえ、テクストにもイマージュにも収まるものとはなりがたく、映画の中のどこともしれない層を漂うことになる。誤配された手紙が漂うどことも知れない空間(デッドストック空間)は本来、瞳に映る空間ではない。それでもたしかにあるとされる空間である。見えないけれどたしかにあるものだとされるこの空間は、『アワーミュージック』において、やはりどこともしれない層を漂う引用に置き換えられ、その表層において、あるシミュラークルを形成するようになる。いくつものシミュラークルによって、映像はサラエボ問題=実存レベルにおける民俗的断層をスタティックに捉える一方、もうひとつ映画におけるメタレベル/オブジェクトレベルの構造的断層をダイナミックに駆け抜ける。阿部によれば、ゴダールのそういったスキゾ的感性は、この『アワーミュージック』にいたって「そのまま過去の自分の映画を振り返っているという形ではなくて、むしろ、こちらの撮り方のほうが正しかったんだ、と更新してしまっている感じ」なのだという。遅刻者が断層を乗り越えることでアクチュアリティーを獲得する、といういたって普遍的な感覚からくるこの言説は、いささかも奇抜さを衒うものではない。それは常に新しい「更新」のイマージュを歴史に齎してきたわけであり、この範例に倣って彼のデビュー作である『アメリカの夜』も書き上げられたはずだからである。むろん阿部もJLGの追従者のひとりに違いない。
「ゴダールは刺すしかない」という中原昌也でさえ「あれはもう、60年代のゴダールはいらないね、というところまできちゃったのかもしれない」という結論を阿部とともに話したらしい。
何度みても見飽きない。
- 2007/04/25更新
- 2007/04/25登録
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