第六十五期将棋名人戦七番勝負
昨夜の感想戦を観ていると郷田は101手目の6四歩打ちが敗因(敗着)だと後悔していたようですが、個別の着手の善悪より一局の将棋の起承転結を読む(或いは自分で物語を紡ぎ出す)大局観に乱れが生じたことが、結果的に6四歩と云う一手を生み出したと考えるべきではないでしょうか。
郷田は森内の敗北覚悟の攻めを受けながら、相手の攻めを先細りさせる手順に腐心していた。森内の持ち駒は底を尽き、何とか手を作りながら郷田玉に取り付くしかない。そこで無理に攻めに転じる必要はまったくなく、龍は守りに利かせながら角でも打って馬を作り、真綿で首を絞めるように相手の兵站を消耗させつつ勝負を長引かせる、「ロシア式レニングラード攻防戦」を展開すべきだったのではないか(笑)。
彼が2四桂と打って攻めに転じた時に大技が出たと書いたのは、そこで素人のボクなどには予想も付かない妙手順があり、一気に森内玉に「詰めろ」をかけるのではないかと思ったからですが、その時既に彼は自分自身が不利だと判断していたのかも知れず、その判断が負けを早めたと云えなくもない。
将棋が面白いのは、部分的な局面での読みの深さ・正確さを追求する思考の喜びを味わえるからでもあるのですが、それも然ることながら、最終的には一局全体の絵図面の描き方(構想力)や形勢判断の客観性(人生観)みたいなものが勝負に大きく影響するからでありまして、負けを怖がる人ほど無理な攻撃を仕掛けて自滅すると云う社会全般にも通用する真理(人間心理)が、これほど露骨に表れるゲームはないからでもあるんですね。
人間は不安を感じると動きたがる。必要以上に自分は不利なのではないかと心乱れ、その不安を払拭するために勝算のない戦いに挑んで死期を早めたりする。まるで何処かの国のかつての「帝国陸軍」みたいですが、動いてはいけない時に動きたがるのが小心者の常であったりする(笑)。
かつて大山名人は「将棋には勝つチャンスが必ず二度ある。だが、最初のチャンスを私は敢えて見逃すようにしている」と語ったことがあります。つまり、大山名人は勝てると思う手順が浮かんでも、すぐには跳びつこうとしないんですね。勝てると思っても勝ちに行かない。自分から動けば其処に隙が生じ、相手のカウンターパンチを受ける確率も高くなるからです。それなら相手に先に動いてもらって、相手の脇が甘くなる一瞬を待った方がいい。或いは兵糧(持ち駒)が尽きて攻め疲れるのを待つべきである。攻め将棋は派手で観客を唸らせることもありますが、一方で何処か一点でも読みに瑕疵(傷)があれば、それはみずから死を選ぶに等しいと彼は考えていたんです。
別に将棋に限らず、或いは勝負事全般に限らず、はたまた金儲けや色事に限らず、日常茶飯のアレヤコレヤの諸々の雑事に限らず、本当に強い人と云うのは類稀なる鈍感力を持って、雨が降ろうが槍が降ろうがうら若き麗人が団体で追っかけて来ようが、じっと動かずに待てる人なのではないか。ボクなどは足元にも及ばないけれど、不利は不利なりに有利は有利なりに、慌てず騒がずじっと我が脚下を照顧できる人こそが、実は「扇子がなかったのが勝因です」なんて意味不明の呟きを、ぼそぼそと消え入るような声で漏らすことができるのではないか。
森内が勝てたのは第六局の大逆転負けがあったからであり、彼はおそらくその時何かに気づいたのではないか。九分九厘勝ったと思った時点で、彼はどう動いても勝ちだと思い込み、負けるように負けるように逃げていった。
一方で、郷田は僥倖とも思える勝ちを手に入れて最終局に臨み、あと僅かで名人と云うところで待つことができなかった。動いて勝とうとした。相手がへとへとになって疲れ負けるのを待つことができず、みずから動いて勝利を手中に収めようとした。それが武士の情けであると思ったかどうかは判らないが、真綿で首と言う選択肢を採らなかった。
そんなふうに考えてみると、今回の将棋名人戦には棋譜に残された足跡とは別の、同い歳の男同士が紡ぎ合った嘆息と慟哭と悲嘆と悔恨とほんのちょっとばかりの会心の笑みが幾重にも重なり合っていて、それはそれで実に興味の尽きない二ヶ月であったと、我と我が身に照らして思わざるを得ないのであります(笑)
完
***
109手目の郷田2四桂まで書いて、目が離せなくなった。何故受けに徹していた郷田が決めに出たのか。森内は同歩と取り、郷田も同歩。続いて森内が7八香と金を取って、郷田同玉。大事な金を取られてまで攻める必要があったかどうか。
これで森内に光が射し始めた。
以下、棋譜だけを並べると、森内5一歩・郷田4一角・2四銀・3三歩・同金・2四歩・同銀・2三歩・同金・3二金・1三玉。此処で相手玉を追うだけ追った郷田が6五歩と手を戻した。結果的には「詰めろ」にもならない攻めで、郷田は森内に桂馬と歩をプレゼントしただけになった。これは明らかにこれまでの流から逸脱している。
森内は勇んで2八龍の王手。郷田は8七玉。森内7五歩に郷田7八香の受け(129手目)。以下、6八龍・7七銀上・6七龍・8八桂打ち・8五歩・同歩・7四桂・同龍・同角・6四歩・2三金・2一金・8五角・8六玉・8三飛・8四歩・同龍・9七桂・7四金(148手目)で殆ど必死。
郷田は最後の逆転を狙って7三銀。森内は8三飛。此処でもまだ粘れる手順があったと思われるが、郷田は角を切って2三角成り。同玉に8四金と受けたが、取られた角を5九に打たれて痺れた。以下、7五銀・8四飛・同銀引・7六金(158手)にて郷田無念の投了となった。
白熱した戦いがようやく終り、森内が名人位防衛と共に第十八世永世名人の称号を得た。
勝負処の最善手・悪手については感想戦を待たねばならないが、二転三転した流れの最後のところで郷田が一歩先に焦ったように思われ、これもまた勝負の世界につきものの運命であるとしか言いようがない。
***
いよいよ二日目の夕食休憩も終り、名人戦七番勝負の最終盤に差し掛かった。
79手目・郷田の6三歩成りに対する手が悩ましく、森内が考慮している間に夕食休憩になったのだが、再開後は一気に手が進んだ。
結局森内は飛車を逃げずに郷田の馬を取って7五歩。郷田は当然ながら5二とで飛車を取る。森内は金取り・馬取りに構わず7六歩。郷田6七金。森内6六歩。郷田は金取りに構わず森内の馬を取って4六歩。森内金を取って6七歩成り。郷田同銀(87手目)。
森内は5一の金を逃げるのか、或いは玉砕覚悟で郷田玉に絡んでゆくのか。局面が落ち着けば、玉の固さで郷田の優勢は動かない。森内仕方なく5二金。此処で森内がひと呼吸入れなければならないのがツライところ。対する郷田は待ちに待った反撃の7二飛車打ち。これで自陣の傷を消しながら森内の5二金に当て、攻めると見せて森内の「勝算なき攻め」を挑発している。
森内は露骨に7七桂打ちで飛車取りに当てたが、郷田は右に一歩かわして7九飛。この時点で、森内の持ち駒は角・金・桂馬が各一枚に歩が二枚。郷田は角・桂馬が各一枚に歩が四枚。8九に金を打てば王手飛車取りで飛車が取れるが、死んでいた相手の駒を取るのに金と桂馬を費ってしまうことになり、角と飛車だけでは手が続かない。
93手目・森内6三銀と引いて飛車に当てる。郷田は森内の攻めの拠点になっている目障りな歩を払って7六飛車成り。森内8九金・郷田同飛・森内同桂成り・郷田同玉までは一本道。
休むワケにはいかない森内3九飛打ちの王手。郷田は鉄壁の金底の7九歩。森内1九飛成りで香車を補給し、7四香車で飛車・金両取りを狙う。郷田は6四歩と銀頭を叩いた。
森内の同歩で金銀の連携を断ってから、郷田は7二龍(103手目)。森内は5一歩の底歩で受けるしかないが、此処で長考に沈んだ。持ち時間は互いに一時間を切っているが、最後の詰みまで読み切らなければならない局面になった。プロ棋士が集う控室ではまだまだ勝負は長引くと診ているようだが、指し手の流れから見る限り、森内に勝算があるとは思えない。時計はまもなく九時を示そうとしている。
森内の次の一手は6三角打ち。郷田の龍を追い払って9筋からの端攻めを見せるが、9二龍と根っこの香車を取られたら却って藪蛇になる。夕食にサンドイッチ&フルーツを取った森内だが、長期戦を覚悟してサーロインステーキにカツ丼なんかの方が良かったのではないか(笑)。
持ち時間30分を切った郷田は、9二龍とはせずに7一龍。端攻めより7筋からの香車攻めに備えた。森内は銀の頭を叩く6六歩。郷田はすかさず同銀。持ち駒は森内が香車一枚に歩が二枚。郷田は角・金各一枚に桂馬が二枚、歩が四枚。郷田は無理に攻めて相手に駒を渡すことを懼れ、故にじっと我慢の受け潰し狙い。これでは前にも書いたが、二人の棋風が逆転している。現在九時十七分。終局まではあと一時間だろうか。
森内は郷田の6六同銀を見てから7二香。此処で郷田の大技が出た。金取りに構わず、相手の歩の頭にただ捨ての2四桂打ち(109手目)。7八香成りと金を取られ、同玉に2四歩・同歩・7四桂と縛られても一手勝ちとの読みか。
***
深浦八段の解説中に郷田が6四角と打った。直接的には桂取りだが、狙いは6九金と引いて森内の角を逮捕するの意。森内は6五桂。対して郷田は5三角成りの銀取り。銀取りを防いで4三金なら7五馬だろうが、この馬の存在が大きすぎて森内は手詰まりになる可能性が高い。
この時点でどちらを持ちたいかと訊かれたら、プロなら九分九厘郷田に乗るのではなかろうか。
攻め駒のない森内は馬との交換を強要して5二飛。だが、7五馬と引かれてどうするつもりか。
午後四時四十八分。郷田は予想通りの7五馬。一局の絵図面がこれで定着した。このまま拠点の歩を払われたり、打った角を召し取られてしまえば森内の完敗。従って、森内は強引に5筋から穴を開けに行くしかない。
森内取られる前に7七歩成り。同桂・同桂成り・同金右(69手目)。これで森内の持ち駒は桂馬一枚に歩が二枚。郷田は桂馬一枚に歩が五枚。
森内は取ったばかりの桂馬を2六に打った。郷田は3九に飛車を引き、森内は勇躍4八角成り。郷田は自玉の隣(8九)に飛車を逃げた。森内3七馬で一時的に桂得になったが、郷田は落ち着いて6四歩。と金作りを見せつつ、森内5五銀の決戦を防いでいる。
森内少考して4六馬。郷田は更に急かせる意味の4七歩。森内は相手の言いなりは厭だと切り返しの7四歩(78手目)。郷田も強情で、馬を逃げずに6三歩成り。実に細かい遣り取りだが、中盤での捻り合いこそが将棋の妙味で、強烈なフックやストレートを決める前のジャブこそがプロの腕の見せどころ。
双方の馬と森内の飛車=大駒三枚が当りになっている将棋など滅多に見られないだろう。
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森内の継続手7五歩(54手目)に対して、郷田は熟慮の末に8八銀と引いて自陣を固めた。森内の飛車が6筋に転回する前に当りを緩和し、6二飛車と転じた瞬間に8四角の意味だろうか。
手を渡された恰好の森内は設計図を書き直さなければならなくなった。力をためて攻めを続行するには飛車の転回しかないが、それでは郷田の8四角が痛すぎる。かと云って仕掛けた以上今更後戻りはできない。森内の苦吟が続く。
しばしの長考の後、森内は8六歩。手持ちの角を打って掻きまわすつもりだろうが、攻めが単調になる感は否めない。
郷田の同歩に森内5九角打ち。郷田はさらりと身をかわして3八飛車(59手目)。此処で夕食の注文を取りに来て、森内はサンドイッチ&フルーツ。郷田は和定食。
60手目、森内が7六歩と取り込んでNHK衛星放送が始った。
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昼食は二人ともカレーライス。郷田は再開後、9五同歩と応じた。先ほど記した手順しかボクには思いつかなかったが、それだと9五香と走った瞬間に郷田に8四角打ちの筋があり、5一にいる森内の金が狙われてしまう。であれば、仕掛ける前に4一金か4一飛と備えておくべきで、郷田が穴熊に囲ったことが森内の焦りを呼んだのかも知れない。
残り時間は52手目(森内9五歩)までを終えて、郷田3時間19分森内3時間41分。
森内は当然とは言え7五歩。此処で郷田の手が止まった。馬を作って受け潰すか、2筋からの継ぎ歩攻めを決断するか。この辺の駆け引きは、鉄壁の受けを身上とする森内と一直線の攻めが得意な郷田の棋風が入れ替った感じ。ここからの数手で、二人の大局観とこの将棋の全体像が明らかになるだろう。
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昼食休憩後の開戦と予想していたら、十一時半過ぎに森内が仕掛けた。郷田が穴熊玉に蓋をする前の6五歩は当然だが、郷田にすれば相手に仕掛けさせたので十分だろう。先に剣を抜いた森内に対して郷田がどう応じるか。いよいよこれからが正念場である。
郷田6五同歩に森内すかさず9五歩。指し手が早い。
郷田が9五同歩なら7五歩・同歩・3五歩・同歩・6五桂で一気に攻めかかるつもりだろうが、持ち時間の少ない郷田にとっては昼食休憩の一時間が貴重。おそらく何を食べても喉を通らないだろう。
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45手目郷田手待ちの2八飛に対して、森内は長考せずに3一玉。あくまで待機の姿勢を見せる。時間に余裕のない郷田はすぐさま9八香として穴熊囲いを匂わせた。駒の組み換え(陣形補強)なら郷田の方に手がある。
森内は再び2二玉としてあくまで待機の姿勢。郷田は9九玉として穴熊に入った。続いて8八金・7八金と蓋を閉めれば鉄壁の陣形になるが、そうなれば玉の固さで森内不利。
おそらくこのまま昼食休憩に入り、再開と同時に森内から仕掛けるのではないか。
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六月二十九日午前九時。最終局二日目が始った。郷田の封じ手(41手目)は大方の予想通り4八飛。4筋で互いの飛車が向かい合う形になり、駒台には双方角が一枚。
数分後、森内は過去例と同じ5一金と応じた。対する郷田はノータイムで6八金右。先手の郷田が何処で4五歩と仕掛けるかがポイントになるが、持ち駒の角を2六角に打てば後には引けなくなる。おそらく此処で森内が長考に入るだろう。
持ち時間は41手目を郷田が封じた時点で、郷田4時間14分森内6時間10分。森内が一時間以上長考するとなれば、後手から6五歩の開戦もある。同歩と取れば同銀・同銀・同桂で相手の言いなりだから、郷田は反発して4五歩か。
因みに、昨夜は森内は関係者と同じ会場で夕食をとり、郷田は一人自室に籠った。
九時五十分過ぎ。おやおや、森内が小一時間の長考で9二香と指した。6五歩を回避したのは郷田に攻めさせてカウンターを狙うつもりか。郷田は少考した後、2八飛と手を戻した。
将棋に限らず先に手を出した方が負けになるのが高段者の勝負だが、この一番で決着がつくとなれば心理的にも決戦は午後からにしたいのだろう。森内は再度長考に沈むはずで、一度待った森内が6五歩と仕掛けるか、或いは身を低く構えてじっと待つか。互いの刃は未だ鞘に収められたままである。
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いよいよ今日から最終局。会場は愛知県蒲郡市西浦温泉「旬景浪漫銀波荘」。銀波荘はギンパソウと読む。第一局開始の際の振り駒で郷田九段が先手となってからは、第六局まで交互に先手番を持って三勝三敗。此処で改めて振り駒をすることになるのだが、結果は郷田九段の先手。戦型は郷田の誘導で「角換り」になった。
対局前の写真を見る限り、森内名人の表情が硬い。前局の大逆転負けが尾を引いていなければ良いのだが、一方の郷田は最終局でも先手を得て、勝負事につきものの「流れ」が自身の側に傾いてきたことを感知しただろう。
二人の膝元に扇子はなかった。
使用する駒は写真と同じ故・宮松影水作で、書体は「巻菱湖」。名人戦専用の駒と言っても良く、かつての大山中原戦や中原谷川戦でも登場した逸品。過去に記録係を勤めてきた奨励会員たちは一様にこの駒を持つと手が震えると云う。
昼食は二人とも「天せいろ」。普段は昼間から平気でステーキを注文するほどの森内なのだが。
午後五時を廻って40手まで進んだ。37手目までは同型だったが、38手目後手森内は4二飛で同型拒否。過去に角換り腰掛銀・4二飛型は二局あり、何れも8八玉・2二玉を経てから別の将棋になっている。この将棋も同じ手順を踏み、ここで先手郷田が手を止めた。
過去の二例は6八金右と4八飛だが、対して後手は二局とも5一金で戦績は一勝一敗。NHK衛星放送が始って深浦八段による解説。五時半を過ぎて封じ手番を告げられた郷田は、それでもまだ動かない。
***
今年の名人戦は本当に何が起きるかワカラナイ。
14日~15日まで八戸で行われていた第六局は、序盤から先手森内名人が優位に立ち、二日目の夕方には大勢が決してしまった。99手目には森内の王手飛車龍取りの5五角が炸裂し、郷田は飛車一枚の丸損。観戦に来ていたプロの殆どが森内の名人位防衛&第十八世永世名人の誕生を疑わず、主催の毎日新聞社は早々と記者会見の準備を始めた。
99手目の局面を見て、それでも郷田を持ちたいと云う人がいたら御目にかかりたい。詰まないように詰まないように攻めてゆき、詰む方へ詰む方へと逃げてゆくのがヘボ将棋ではあるけれど、プロなら殆ど即死状態の大差である。
しかるに 事件は起こった。
「鉄板流」の異名を誇る森内が勝負を焦り、どう指しても勝ちと云う局面から郷田の形作りと思える最後の攻めに対して悪手を連発。アレヨアレヨと云う間に逆転負けを喫してしまった。
森内は勝負に恬淡な郷田がすぐにでも投了するのではないかと思っていただろうし、郷田もこれが最後の一局でなければとっくに投げていただろう。森内は郷田玉を追い詰めるだけ追い詰めてから、郷田の最後の抵抗を軽く受け流そうとした。持ち時間は底をついていたが、郷田の攻め筋は誰にも判る単純なもので、郷田としては森内玉を攻めながら自玉を包囲する森内の攻め駒を抜くしかない。
郷田は130手目に5三香と打ち、森内が5五金と受ければその時点で投了するつもりだった。
だが 森内は負けるならこの手しかないと云う大悪手(4七玉)を指し、その後わずか三手で駒台に手を置いた。
プロ棋士が集まる控室は4七玉を見て騒然となり、森内は一瞬にして勝ちを逃したことに気づき、戦意を喪失した。
九分九厘敗けを覚悟していた郷田は感想戦でも勝ちを信じられず、ただただ呆然とするばかりである。
勝てる将棋を勝つことは難しいが、鉄壁の受けと正確な寄せに定評のある森内が、よもやこれほどの悪手を指すとは誰も思わない。森内自身も思っていなかった。はずである。
これで勝負は三勝三敗の五分になったが、森内のショックは如何ばかりか。
***
午後十時過ぎ。
98手目森内の8五飛を見て郷田投了。
最後は多少粘りを見せたものの、鶴翼の陣を敷いた森内のカウンター攻撃が決まってからは王様の単独逃避行となり、万策尽きてあえなく撃沈。
第四局もそうだったが、全体として郷田の攻めが単調で厚味に乏しく、二の矢を継ぐ間もなく絡め取られている印象を受ける。
これで森内が防衛に王手をかけた。
***
第五局二日目夕方 NHK衛星放送の中継が始まった。
ご覧になられた方ならお分かりだろうが、森内名人の54手目2二角と56手目4六歩がワンセットの好手順で、郷田九段の手がピタリと止まった。
午後の対局再開から夕刻までの間に、歩損の郷田は強引に角金交換を迫ったのだが、どうも森内に攻めを急かされている様子で、森内流「必殺・電気ウナギの太刀」を受けてシビレちゃったのかも知れない(笑)。
***
午前中に48手まで進んで昼食休憩。
メニューは二人とも『牛肉生姜焼き御膳』で、冷奴とミニサラダ付き。おそらく対局前夜からの魚攻めに遭って、肉が恋しくなったのだろう。でも、写真で観る限りあんまり美味そうではない。
局面は郷田の攻めに反発した森内が、金を力強く盛り上がって郷田の飛車を撥ね返したところ。まだ小競り合いの域を出ないが、郷田の攻めに厚みが感じられないように見える。
***
31日 封じ手は予想通りの4四歩。
以下、同歩・2四歩・同歩・同飛までは互いの読み筋。
森内が此処で長考に沈んだ。
***
本日(5月30日)より五局目が始まった。
場所は伊豆半島・今井浜「今井荘」。
使われる将棋盤は樹齢千年の日向榧七寸盤。
駒は御蔵島産の柘植で掬水作。
前日に対局者による座敷と道具の検分があるのだが、これなら誰も文句は言うまい。それほどの逸品。
囲碁・将棋に凝る人は自宅にそれ専用の部屋を用意したりするが、招かれて最初に見るのが盤と駒になり、それをまた見て褒めてもらいたいのが愛棋家の常である。
日向産の榧で作られた柾目の将棋盤であれば、五寸盤で数百万円。稀少品の七寸盤なら軽く二千万を超えるだろうが、それだけの厚みを確保できる素材が今は皆無に近いから、実際には値段が付けられない。普及品ならスプルース材や桂材のものも在り、こちらは五寸盤でも十万円前後だろうか。
好事家なら盤も駒も普段用とプロに稽古をつけて貰う時のものと使い分けるのが普通で、駒なら高い順に「盛上駒」「彫埋駒」「彫駒」「書駒」「プラスチック駒」となる。プロのタイトル戦で使用される駒は当然ながら名のある駒師が作った「盛上駒」で、書体も「錦旗」「水無瀬」「源兵衛清安」「菱湖」など。素材の柘植は御蔵島産を最良とし、柾目・杢目・虎斑(とらふ)などの地模様によって微妙に指し味が変る。
床の間に将棋盤を三つほど重ねて置き、温度湿度を一定に保つカメラ専用の保管庫に大事な駒を入れて鍵を掛けるようになれば一人前で、そうなれば対局用の座布団や脇息まで揃えて余人の立入りを禁止することになるから、家族中の非難が集中して実に居心地が悪い。
それはさておき
五局目の将棋は「相懸かり」。先手は郷田九段で矢倉になると思われたが、森内名人の誘導で力戦型の戦法になった。相懸かりは一歩間違うとすぐに勝ち負けが決まるので、序盤から気が抜けない。
一日目は34手目後手森内の7二金を見て、今回は郷田が手を封じた。各九時間の持ち時間のうち、郷田は四時間十三分。森内は三時間十四分を消費。第四局目の苫小牧では床の間もない八畳ほどの部屋に押し込められた二人だが、流石に今回は設えが良い。
封じ手の予想は4四歩だが、それはこれまでにも指されたことのある形で、角交換後に先手が主導権を握って攻めるのが一般的。豪腕郷田の攻めに、鉄板の受け潰しを得意とする森内がどう応えるか。改めて三番勝負となったこの一番を制したものが名人位に就くだろう。
***
今年の名人戦は面白い。
何故面白いかと言うと、囲碁も将棋も対局に於いて扇子は無くてはならないものなのだが、今回の名人戦では二人とも扇子を手元に置かないからである。
こんなタイトル戦をボクは観たことがない。
今日から第四局が始まっているのだが、二局目以降は二人とも意地になって扇子を持たない。そこの処がプロの将棋指しを知る者にとっては実に可笑しくもあり、かつて山口瞳が日本将棋連盟を「気違い部落」と称し、彼らプロ棋士を「世間知らずの天才集団」と渾名しただけのことはあると、今更ながら思わせられるのである。
***
森内名人と挑戦者の郷田九段は共に三十六歳で、幼い頃からのライバル同士。森内が七番勝負を制すれば十八世永世名人の称号を得るし、郷田が勝てば初の名人位獲得であり、昨年亡くした尊父への最高の供養となる。
そんな二人が顔を合せた第一局で名人戦史上初めての椿事が勃発し、俄然将棋ファンの注目を集めることになったのである。
ことの起こりは郷田九段が第一局目の序盤で扇子の要を捻りながら長考に沈み、その時に発する「ギィギィパタッパタッ」が気になって森内名人が文句を付けたことに始まる。彼は顔面を紅潮させて、郷田に喰ってかかった。
アマチュアでも高段者になれば扇子を弄びながら読みのリズムを作ってゆくし、プロともなれば尚更で、扇子を持たずに対局に臨む棋士などこの世にいないと云ってもいい。無意識の内に扇子を鳴らすことなど、誰もがやっていることである。
しかも、これまで二人は三十局近くも戦っていて、それまで郷田九段の扇子の音に森内がクレームを付けたことはない。郷田にしてみれば、晴天の霹靂であったに違いない。立会人を務める高段者が改めて森内の言い分を聞いたところによると、これまであんなに五月蝿く扇子を鳴らされたことはなかったと云う。とてもじゃないが集中できないから、即刻止めさせてくれと言ったのだそうだ。立会人は慌てて別室に郷田を呼び、森内の意を伝えた。
郷田は当然ながら悪意はないと弁明し、その場で森内も一応は諒解したのだが、以来二人は扇子を持とうとせず今日に至っている。郷田が持たないのは理解できるが、森内も持たない。そうやって第一局の二日目を戦い、二局目以降も互いに意地を張り合っている。
戦績は三局目までを終って郷田の二勝一敗。今日からの第四局は苫小牧で行われているが、今朝観た画面でも二人とも座布団の前に扇子を置いていない。信玄袋には入っている様子だが、出す気配がない。戦型は相矢倉で先手番が森内。此処で負ければ三敗となって後がなくなる。勝てば五分に戻って、流れは変る。その意味で、この一局は七番勝負最大の山場と言える大事な一番であり、いつものように集中するには扇子は不可欠だろうと思われる。なのに持たない。
勝負師の頑固・頑迷なること斯くの如し。
対局は今日明日とNHKの衛星放送で中継されているので、観れば将棋界最高位を争う二人の男の、極めて真剣でひたむきな滑稽さを窺い知ることができるかも知れない(笑)。
***
52手目4四歩を郷田が指し、夕刻五時半を以て森内が手を封じた。
***
18日(金)午前九時二日目が始まった。森内名人の封じ手は大方の予想通り7四歩。やはり双方とも扇子は持っていない。
午前中に郷田が二時間を越える長考。森内も負けじと昼食休憩を挟んで一時間以上の長考。郷田の4七角打(58手目)で過去に事例のない局面を迎えた。
***
先手・森内の攻勢に対して後手・郷田の受け潰し狙い。本来の棋風としては郷田の攻めと森内の受けであり、これで郷田が勝てば森内のショックは大きい。夕食休憩前に郷田が3一玉。森内のジャブを軽くスウェイして受けるつもり。森内は攻め続けるしか選択肢はない。
午後八時半前。103手目森内の4三角を見て郷田投了。これで二勝二敗のタイとなった。
***
負けっぷりの良さが郷田の魅力でもあるのだが、ちょっとアッサリし過ぎたか。森内の感想にも勝負はまだこれからだと思っていたとある。
おそらく郷田の描いたシナリオに何処かで読み抜けがあり、勝てる将棋を不利にした時点で粘りっ気を失ったのだろう。
五局目は郷田が先手。
四勝三敗で郷田新名人誕生がボクの予想だが、果たしてどうなるか。
- 2007/06/30更新
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