エンリエドゴングジョウド
厭離穢土欣求浄土
関ヶ原の戦いで家康が勝ったのは石鹸のおかげだと云う説がありまして、武将はともかく足軽は戦場まで何日も歩き通しで風呂にも入れません。いざとなったら汗まみれ泥まみれで気持ちが悪いし、それは全体の士気にも大きく影響いたします。
ってなことで、家康は当時ポルトガルから輸入していた樽入りの糊石鹸を大量に貯蔵して、天下分け目の戦に備えていたと申します。その証拠に彼は二代秀忠に家督を譲る際に、莫大な金銀の次に石鹸(サポン)を贈ったってな記録(送り状)が久能山東照宮に残っておりまして、つまり戦いに際して家康は、武器弾薬より石鹸を重んじたと云うんですね。幾ら最新鋭の武器を持たされたって、夜な夜な蚤や虱に苛まれては痒くて堪らない。そんな不潔な身体では当然ながらやる気も起きないわけで、これは実に人間心理の綾にかなった深謀遠慮と申せましょう。
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家康の命を受けた天海僧正は、死後家康を天皇家の天照(アマテラス)に対比させ、「東照大権現」と名乗らせました。絶対権威としての天皇家がアマ(アメ)を照らす神を祖とするなら、権力を掌握した徳川家はアズマを照らす家康を神として崇めよと命じたんですね。
彼の先祖は三河松平郷の出身の豪族ですが、更に遡れば時宗の聖(ひじり)である徳阿弥と言う遊行僧に辿り着きます。司馬遼太郎の言葉を借りれば、おそらく全国を放浪していた時宗念仏の僧が三河の地に落ち着き、其処でいつのまにか松平家の娘とねんごろになって、子供が生まれたと云うことになるわけで。
彼は今川義元が桶狭間で討たれるとすぐさま故郷に逃げ帰り、もはやこれまでと菩提寺の大樹寺で腹を切ろうとするんですが、時の住職(登誉上人)に説得されて思い留まります。その際に、登誉上人が持ち出したのが源信「往生要集」に在る「厭離穢土欣求浄土」の言葉なんですが、おそらく彼の念仏の徒としての血筋がそうさせたのでしょう、家康はその後戦のたびに、本陣に掲げる大旆にこの八文字を掲げ続けました。
直訳すれば「こんな俗世に未練はないさ。早もゆきたや如来のもとへ」程度の意味なんでしょうが、これは表向きには浄土信仰特有の悲観的ナルシズムでしょうし、一種の逃避願望であるとも言えますが、その一方で、武将から一兵卒に至るまで死を懼れず戦えと発奮を促す檄文の意味合いもあって、我らは何処までも死ぬまで一緒なのだと云う、固い絆に結ばれた連帯感を表してもいるんですね。
石鹸の件も含めて、此処ら辺りの考え方が他の戦国武将とは違うところで、消耗品としてしか足軽・雑兵を見ない往時の風潮にはない感性です。
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生まれは天文十一年(1542)十二月二十六日。父は岡崎城主松平広忠。母は刈谷城主水野忠政の娘・於大の方。元和 二年(1616)四月十七日没。大樹寺その他に残る資料から推定される身長は159cm。ウエスト110~120cm。肩幅 50cm 。足袋のサイズは22.7cm で現代の靴なら 24cmでしょうか。基本的には短気ですが、反面機を見るに敏であり忍耐強いと云う性格で、事が上手く運ばなかったりすると手の指の爪を噛む癖があり、夜の褥ではうら若き愛妾に怒られたりも致します。
趣味は鷹狩り・読書・能の鑑賞・刀剣収集・囲碁・漢方薬の調合・お医者さんごっこ・水泳・射撃など。好物は焼き味噌に麦飯。御本人は質素な食事こそが不老長寿の源だと信じていたようですが…。
尊敬する人は祖父・松平清康と源頼朝。先輩格の武田信玄には三方ヶ原で痛い目に遭った所為で、一層尊敬の念を強くしたのでしょう。信玄の家臣団は勝頼亡き後も徳川家に召抱えられ、幕末まで家名を残しております。
愛読書は『論語』・『史記』・『東鏡』。愛馬の名は「白石」。 収集した名刀は「三池典太」「備前国宗」「相州行光短刀」など多数 。
正室は瀬名姫(築山御前)→旭姫(豊臣秀吉実妹)。側室 は西郡局・小督局(於万の方)・於竹の方・西郷局(於愛の方)・茶阿局(於茶阿の方)・於牟須の方・阿茶局(於須和の方)・於仙の方・下山殿(於都摩の方)・於亀の方・蔭山殿(於万の方)・於梶の方(於勝の方)・於梅の方・於六の方・於奈津の方(於夏の方)など、美女多数。子供は判っているだけで十一男六女の十七人ですが、他にも自称・他薦の御落胤は数知れず。
男だけを列記すれば、信康(瀬名姫)・秀康(小督局)・秀忠(西郷局)・忠吉(同)・信吉(同)・忠輝(茶阿局)・仙千代(於亀の方)・松千代(茶阿局)・義直(於亀の方)・頼宣(蔭山殿)・頼房(同)となりますが、勇猛にして聡明と評価の高かった次男・結城秀康が二代将軍になれなかった理由は、どうやら家康が西郷の局をこよなく愛していたからで、次男・秀康は小督の局が浮気相手との間に産んだ子ではないかと疑っていたそうです。
死因については諸説ありますが、漢方医療に熱心だった彼はみずから薬研を挽いて薬を調合し、朝晩欠かさず服用していたそうで、晩年自分で腹にシコリを見つけ「寸白の虫」と名づけていたくらいですから、おそらく胃癌だったのでございましょう。
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神号は冒頭に書いた「東照大権現」ですが、大樹寺に残る法名は「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士 」でございます。
- 2007/05/11更新
- 2007/05/11登録
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