テツジンニジュウハチゴウソバ
二八蕎麦
ボクは正義の味方である。だから、時として怒る場合だってある。例えば、世の蕎麦屋に「十割蕎麦」なんて言葉が蔓延して久しいが、あれはいったいどう云う意味なのだろうか。十割蕎麦とは混ぜ物の「つなぎ」を入れていないと云う店側の意思表示なのだろうが、純粋に蕎麦粉十割で打った蕎麦がそれだけで美味いかと言えば決してそんなことはないのであって、素人を騙すような阿漕な真似はやめてもらいたいと心底思うのである。
そもそも蕎麦の始まりは十割で、蒸した蕎麦を以て蕎麦とした。蕎麦切りの名が文書に登場するのは天正二年(1574)の長野県大桑村「定勝寺文書」で、其処に「ソハキリ」なるものが振舞われたとある。
時は移って江戸時代初期。当時はまだ江戸でも上方食文化の影響が強く、当然のことながら饂飩が麺食の主流だった。江戸に蕎麦屋が増えたのは文化文政の頃からで、現在のように冷たい蕎麦に醤油味の蕎麦汁を浸して食べるスタイルになったのは、職人たちが腕を競い合って蕎麦切文化を洗練させてゆき、「つなぎ」をいろいろな素材で工夫した結果、小麦粉を二割ほど混ぜて捏ねた「二八蕎麦」が生まれたからである。当然のことながら、当時は小麦粉(饂飩)の方がはるかに高価で、蕎麦などは救荒食でしかなかった。「切りべら」とは伸した蕎麦を畳んで切る切り幅を指すが、一寸幅を何本に切るかという細打ちの腕を競い合った結果、「切りべら二十三本」で蕎麦一本あたり幅1.3mmの細い蕎麦が基本となったのである。
当時江戸で何故このように細い蕎麦が持て囃されたかと云えば、その方が喉越しが良く、小麦粉を多少混ぜた方が蕎麦汁との相性も良かったからだ。短気な江戸っ子は、酒はちびちび呑んでも食べる時は早い。細切りで滑りの良い二八蕎麦は、辛い蕎麦汁にチョイと浸けてさっと食べる手繰り方に合っていたし、客の顔を見てから蕎麦を打つ店のスタイルにも合っていた。
それを今日、十割蕎麦の方が混ぜ物がなくて純粋に蕎麦の風味を味わえると言うのは、素人を誤魔化すための方便でしかない。嘘だと思ったら、粗挽き十割と外一と外二を食べ比べてみると良いだろう。 本物の十割であれば、ボク達が普段美味いと感じる蕎麦汁が負けてしまうし、その野性味を受け止めるだけの辛汁であれば、他の蕎麦などは風味も何も一瞬にして消し飛んでしまう。無理して繋げようと湯で捏ねれば、蕎麦の豊かな風味を嗅ぎ取るのは打ち手の職人だけで、金を払って客が食べる頃には折角の滋味が消えてしまっていたりするのである。
総じて十割蕎麦を前面に打ち出す蕎麦屋は辛汁に対する思いが希薄で、石臼で蕎麦を挽いて十割蕎麦を出せばどんな客でも恐れ入ると思っているフシがあるのだが、それでなくても繋がりにくい十割蕎麦粉を無理にお湯で捏ねたり温泉水で伸ばしてみたりしてみても、それは既にその段階で蕎麦とは似て非なるものになっていると思わないのだろうか。
ボクが好きなのは乗鞍高原産の粗挽き蕎麦粉に外一(そといち)でつなぎを混ぜた蕎麦なのだが、これなら「並木の藪」でも「室町砂場」でも「布恒更科」でも「神田まつや」でも「荻窪本むら庵」でも「宇奈根山中」でも「黒姫ふじおか」でも「小布施せきざわ」でも「蓼科いけ野」でも「駒ヶ根丸富」でも「三軒茶屋東風」でも「山形あらきそば」でも、何処の蕎麦汁と合せても美味いと思う。
江戸蕎麦の三大系統は「更科」「砂場」「藪」だが、「更科」は将軍家や諸大名に献上した白く極細の蕎麦で、蕎麦汁はやや甘め。「藪」の蕎麦は下町の職人に好まれた甘皮を含んだ田舎蕎麦で、汁はその分辛目に仕上げる。「砂場」は主に商人に好まれた蕎麦屋だが、蕎麦も汁も「更科」や「藪」の中間に位置することはご承知の通り。
それぞれの蕎麦屋は代々蕎麦汁の仕込を一子相伝として門外不出としたが、それは蕎麦粉の良し悪しはその年の出来によって大きく左右されるのに対して、蕎麦汁は素材の質さえ落とさなければ常に一定の水準を保てたからでもある。
その意味で、江戸蕎麦とは房総で生まれた濃口醤油をベースに亀節や鯖節などの雑節を使って仕込んだ蕎麦汁が味の基本となったわけで、鯖節の原料も真鯖より落ちる胡麻鯖で江戸時代は房総沖で獲れていたし、本節からあっさりした出汁を取る上方饂飩に対して、江戸蕎麦では雑節をじっくり煮込んで濃厚且つ辛い蕎麦汁を作ったから、雑味の強い田舎蕎麦でも負けることがなかったと言える。
蕎麦の基本はあくまで蕎麦汁に在り、蕎麦はその日その年の出来心で如何様にも変るものだと知れば、おのずと蕎麦屋の選び方も会得できるのではなかろうか。
- 2007/06/04更新
- 2007/06/03登録
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