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アートで候 会田誠・山口晃展

 先天性自爆テロリスト症候群という不治の病に冒されそして冒され切っていることにすっかり居直ってしまっている会田誠はたしかに高い芸術性を志してはいないかもしれなすがしかし必然性ある作品をその都度でっち上げていこうという点に関しては驚くほどマメで生真面目ではあるのだ。そしてその点においてかれは(岡崎乾二郎などよりも)なかなかシビアにモダンでもあるのだ。高い芸術性というきわめて立派な志があってそしてその志の実現のために作品を製作するという岡崎乾二郎のその在り方は実はおどろくほどアナクロであり(なぜなら「神」をあらかじめあからさまに前提としているうえその「信仰」への照れという倫理的「感性」すら欠いているからそれはアナクロとしかいいようがなく)だからその在り方はとうていモダンとはいえずだからその正し過ぎるだけの岡崎の作品に(ないしは理論に)会田誠が本気で憤るのは実はきわめて正当性あるリアクションなのである(岡崎浅田コンビに本気で食ってかかっている会田はなかなか素敵だ)。結局会田誠の方法はPCの延長上にあるのだがしかし「真面目な」(真面目でしかない)PCという方法はマイノリティーである自分を最終的には救うことを目的としているのだがしかし絶対的「ダメ人間」会田誠においてはダメな自分をPC的に差し出しながらもしかしそのダメな自分のかけがえのなさとやらを最後にすくいだすなどという下心はかけらもなくだからあくまでも会田誠のそのPC的実践においてはダメな自分はやはり徹底してダメなのであると同義反復的に勝手に断定するのみでありしたがってひとりで勝手に自爆テロしてただただそれだけで終わるのみなのである。そんな自爆テロ的PCをかれはひたすら何度となく繰り返すのである。ダメな自分はやはりダメな自分にすぎないというそんな自己完結した発展性のまったくないテーゼの提出によって何度となく自爆テロを繰り替えながらしかしその自爆の仕方がその都度違っているというそのことにおいて彼の作品の時代的必然性とその芸術性は読まれるべきなのである(実は会田誠はガチガチなまでに理論的/方法的にに実践しているのである)。会田誠の最大の美徳であるその極度の倫理性とは自らの自爆テロ実践に容易に他人を巻き込まないという点にあるのだ(かれはひとりで勝手に自爆するのみであってだから語の真の意味での「自爆テロ」と言えよう)。たとえば美少女が好きという「男のダメぶり」やあるいはマスターベーションにまつわる男のダメダメなさまざまな事柄について会田誠は真っ正面から(生のままで)それを主題としてはいるのだがところがそれら「ダメさ」とは本来ならば男一般に共通する「ダメさ」と言えば言えるはずなのだがところが会田誠はきわめて執拗にそれが「男一般」のことに還元されることに抵抗しあくまでもその「ダメさ」を自分の単独的なこととして(単独的なことであるかのように)身をもって(無理にでも)表象しようとするのである(自爆テロに容易に他人様を巻き込むことはしないのだ、かれはただひたすら勝手にひとりで自爆し続けるのみなのだ、そしてそこにおいてこそ会田誠の孤高の方法的倫理性があるのだ)。たとえばマスメディアにおいてお笑いタレントとかコメンテーターなどが実践する言語実践とは自らのダメぶりをだれにでも共通する一般的な事柄であるかのように提出しそしてそのそような自らの在り方によって自らを普通とみなしたり正しいとみなしたりしているのでありつまりコメンテーターやお笑いタレントなどは偽悪的なだらしないイメージによって視聴者との癒着を常に指向しているのでありそしてその偽悪的な癒着の時空としてメディア的イメージを創造することがテレビタレントたちのプロフェショナルなのである。ところが会田誠の在り方とはそのようなお笑いタレント・コメンテーターなどの在り方のちょうど裏返しの在り方でありつまり会田においては一般的な問題を(一般的な問題として論じてよさそうな事柄を)まるで自らの単独の問題であるかのように自らの身をもって表象したうえでその問題への批判をまさに自爆テロ的に一個の作品のなかで孤独に実現しようとするのだから会田のその偽悪性はテレビタレントたちのだらしない偽悪性の裏返しとしての孤高の偽悪性と言うべきだろう。「神」が死んでしまったことはあたりまえの事であるかのように自称現代人たるわれわれはみなしているがしかしわれれが「神」が死んだというその事実の途方もなさをごく一般的な文化としてきっちりこなしているかというとそうではなくだからいつでもどこでも古き良き<「神」への信仰>の現代バージョンはさまざまな形で蘇るであろうし(そしてその手の「現代バージョン」は<古き良き信仰>よりも貧相で劣ったものであるほかなくだからもしかしたら現代においてでもごく普通の宗教をごく普通に信仰したほうがまだしも健全なのかも知れず)したがって「現代バージョン」たる(多かれ少なかれ)原理主義化したその信仰はやはりわれわれの自由の問題という観点から言えば罠といわざるをえない思考停止の装置にすぎないのである。たしかに大文字の芸術へのそれなりの信仰なしではあらゆる芸術実践は不可能であるがしかしかつて100年前のあるときにマルセル・デュシャンという人が一個の便器をもって芸術作品としたこととはその大文字の芸術への信仰をとりあえずカッコにくくることによって可能となったのでありというのもモダニティーという時代性を生きる他ないわれわれにおいては大文字の芸術のために実践するということではなくてむしろ反対に個々の実践によって大文字の芸術が無限の表情によって個別的に反復されその反復をもって事後的に大文字の芸術は身をもって個々の作品によって体現される(証明される)ということなのである(ここに差異と反復というきわめて大事な問題の一端を見ることすら可能なのである)。

 ミシェル・フーコーはこう書いている
「しばしばひとは現代性を、伝統の断絶、新しさの感情、過ぎ去るものの眩暈など、時間の非連続性の意識によって特徴付けようとする。ボードレールが、現代性を、<一時的なもの、うつろいやすいもの、偶発的なもの>によって定義するときにいわんとしているのは、そのことであるかのように思える。しかし彼にとって、現代的であることとは、この絶えざる運動を、認め受け入れることではないのだ。反対に、それは、この運動に対して、一定の態度をとるということなのだ。そしてこの意志的で困難な態度は、永遠的ななにかを、<現在>の瞬間の彼方にではなく、またその背後にでもなく、その瞬間の裏に、捕まえることに存するのだ。現代性は、時間の流れを追うだけの流行とは区別される。それは、現在の瞬間の裏に、<英雄的なもの>を掴むことを赦す態度のことなのだ。現代性とは、逃げ去る現在についての感受性の事象ではなく、現在を英雄化する意志なのである」
「ボードレールにとって、現代的な人間とは、自己自身の発見、自らの秘密および自らの隠された真理の発見へと向う人間ではない。現代的な人間とは、自分自身を自ら創出する人間のことなのだ。現代性は、<人間をその固有の存在に解き放つことはない>。代現性は、人間を、自分自身を作り上げるという使命に縛り付けるのである。」
「最後にひとつだけ付け加えておこう。<現在>のこうしたアイロニカルな英雄化、現実的なものを変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、自己の禁欲的な練り上げ、ボードレールはそれらが社会自体のなかで、あるいは政治体のなかで成立し得る、とは考えていない。それは他の場所でしか起こり得ないのであり、その場所こそ、ボードレールが芸術と呼ぶものなのである」
 (以上、ミシェル・フーコー著「啓蒙とはなにか」より)


 いうまでもなくマスメディアの中でのテレビタレントたちの言語実践とは「逃げ去る現在についての感受性の事象」にほかならずそして会田誠がそのメディア的な在り方をあえて無理にでもひっくり返そうとしているのは「現代」というその「絶えざる運動」を受け入れることを拒絶しそしてそれに対して会田なりにひとつの「困難な態度」を打ち立てそしてその態度によって「現在の裏」に「永遠的ななにか」を「捕まえよう」としているからにほかならないのだ。神が死んでしまったのだからわれわれは自分で考え自分で判断しなければならないのだが(つまり啓蒙という時代をわれわれは生きているのだが)しかしそのことは実は途方もないことでありだから本当はその啓蒙という時代の本質を充分に受け入れている人などほとんど皆無ですらあるだろう。つまり現代においてもひとは国家や家柄や性別や諸々のイメージなどへのまったく無根拠な信仰を決して捨てずしかもそれらまったく根拠なき信仰をさも充分に根拠があるかのように何ら懐疑なく人々はみなしそしてその根拠なき信仰を前提にその根拠なき信仰に則って人々は「思考」し「実践」しがちなのである(しかしそれは厳密には思考でもないし実践でもない)、したがってだからこそ(人々がまともに思考も実践もできないからこそ)神なき時代にヒトラーが登場してしまうし(あるいはすでにわれわれは賢くなったはずなのに)小泉とかブッシュも当然のごとく登場してしまうしさらにはあろうことかまぬけなセレブがチヤホヤされるなどということもあたりまえのように起きてしまうのである。しかしマルセル・デュシャンは百年も前に(それこそヒトラーが登場するそれ以前に)信仰を前提として実践するというその在り方をあらかじめものの見事に断ち切っていたのである、たかだか便器一個を置くことによって。たしかにデュシャンも芸術を信仰してはいるがそのことはまちがいないことではあるがしかしデュシャンは作品を創造するというそのときにおいては芸術への信仰はカッコに括っているのでありあくまでもそれが芸術であるかどうかは作品実現のあとから別の誰かによって問われるべきことであってあらかじめ明確な輪郭として芸術なるものを前提と出来るはずがないのである。なぜなら芸術を信仰するにしてもその場合芸術は無限なるもの/永遠なるものであるほかないのだからそれをちっぽけな人間があらかじめとらえきれるはずもないのである。もちろん正当な<様式>が前提とし得る時代ならばその様式に基づいてそれなりに穏健な芸術への信仰もありえようがしかし様式を破棄することとはその穏健な信仰も(あらかじめ芸術を前提とすることを)同時に破棄することになるほかないのである。デュシャンは芸術を解体したのではなくあるいは芸樹への信仰をまったく捨て去ったのでもなくただデュシャンは芸術への信仰をカッコに括らざるをえない現代的な必然性を様式の破棄ととも身をもって示したということなのである。つまり神が死んでしまったこととはそのことによって神がまったく消えてなくなったというわけではなくてむしろ神はその姿を消すことによって無限に偏在することになったということでありだからわたしたちはその無限なる偏在する神(普遍性)のただなかで容赦なく孤独な者として突き放されるのであり(様式が無くなるとはそういうことだ)だから永遠なる/無限なるなにかの只中でわたしたちは事実上の無根拠性においてなにかしらの実践を手探り手探り決断する他ないのである。それが現代性の手応えなのである。だから無根拠な決断の集積として作られたその物がはたして作品と成ったのかどうかも実は創造しているそのときにはまったく無根拠であるほかないのでありましてやその物の創造が向うべき答えの在り処などあらかじめ前提と出来るはずもないのである。「現代性は<人間をその固有の存在に解き放つことはない>」のである。つまりあらかじめ定められた本質へと人間が解き放たれることはないのである。なぜならそもそも定められた本質をあらかじめ前提とすることが現代においては出来ないのだから。(そのようなあらかじめ前提とし得る本質が在るとするならばなにかしらの「様式」が現代においても成立可能なはずだがしかし見ての通り正当性ある様式は成立不可能なのである)。したがってその大文字の芸術という概念がいかに洗練された繊細な概念であったとしてもしかしそれをあらかじめ前提としてそれへと向って作品制作してしまったのならばそのとき実現したその見事な芸術性は(たしかにそれは見事な芸術性ではあったにしても)しかしその芸術性はかつての見事な芸術性の痛々しくもみじめな無意味化したパロディーにしかなり得ないのである。なぜなら「現代性は、人間を、自分自身を作り上げるという使命に縛り付ける」はずなのだがところがその「大文字の芸術」を容易に信仰する信仰者はそれを信仰することによって自らだけはその使命から(自らを作り上げるという使命から)あらかじめ解放されているかのように作品制作の際に最初から最後まで振る舞い続けているのでありしたがってそのような実践の結果の生産物とはどうしたって痛々しい無意味化したパロデイーにしかならないはずなのである(その芸術性が見事であるだけにしかしそれがパロディーでしかないことはとても「痛々しい」と感じられる他ないのだ)。したがってきわめて特異に見える会田誠というアーティストは馬鹿だけどなかなか凄いということではなくてむしろ反対に「自分自身を作り上げていく使命」をやたらと生真面目に全うしようと常に意志しているのだからしかもそれを(とりあえず)成功させつづけてもいるのだから(会田は馬鹿だけど凄いということではなくて)あくまでも会田はきわめて知的であって(岡崎乾二郎などよりある意味でははるかに知的であって)したがってその知性の実践的な強靱さという意味において会田はなかなか優れた現代美術家であるというべきなのである。おにぎり仮面がが「祀られている」その下をくぐり抜けて会田誠の「涙と笑いの」孤高の自爆テロの記録映像を堪能したうえであらためて浅田・岡崎コンビをパロディー化した作品を目にするとこの人の自爆テロはたしかに容易に人さまを巻き込むことはしないけれどしかし容易に会田に近づこうものならはそのときは容赦なく会田は攻撃を仕掛けるようでありだから会田の自爆テロは無差別テロならぬ差別的テロでもあるようでなるほどそう考えたならば会田のテロリズムはまたさらにその倫理性を増大させることになるのである。神なき時代のテロリズム信仰なき自爆テロそして絶対的差別的自爆テロ。自爆テロ=PCというとてもきわどい公式を(しかしそれこそが二十世紀における「主体概念」の劣化の最大の徴候でもある「自爆テロ=PC」というこの公式を)会田はそれを徹底して練り上げながらあえて「自爆テロ」を実践することでその主体概念そのものの欺瞞性をものの見事に(身をもって)暴き立てているのだからやはりこれは高度に現代的な美術実践であるとどうしても(嫌でも)いわねばならないのである。それでいいのだ。


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