「按摩と女」清水宏監督
1938年に撮られた黒白映画。
日本映画のみならず、映画一般の全盛期というべき時代に撮られた、まさに傑作中の傑作。清水宏の天才が漲る、とてもとても美しい作品。
高峰三枝子が訳ありのヒロインを演じている。
主人公である、ふたりの盲目の按摩は、しかし実はとてもよく見えているのである。ふたりの盲目の按摩は、まったく見えないけれど、まったくの全盲だけれど、しかし目の見える人以上に、とてもよく見えているのである。彼らは、隔たりのなんたるかを、ほかのだれよりも良く心得ているのだ。
たとえば、前方との距離が近より、とうとう間近にまで迫り、そしてさらには追い抜き、再び後方に距離が広がっていくということ。
あるいは、人を横たわらせ、そのひとにこの手で接し、かれらの身体に適度に力を加えること。
もしくは、不穏な気配を感じ、そちらに向けて、みずからの手に持つその杖を、そちらの空間に向けて、振り回してみること。
さらには、音のする、においのする、気にかかるほうへと顔を向け、見えないそちらを見ようと(見ること以上に、もっと見ようと)、じっと気配を感じようとしていること。
盲目のこの二人は、距離/隔たりのダイナミズムを、視覚によってイメージ化することなく、生のままで、それに接するほかなのいのである。だから彼らは、出会いと別れが、まったく同じである、ということを、何ら誤解なく、きわめて正確に、身をもって、あらかじめ、知ることが出来ているのである。この盲目の二人の按摩は、宿場を、季節ごとに、渡り歩いているのだ、つまり旅人の中を、旅しながら、この盲目の按摩は、日々暮らし続けているのだ。だからそんななかで、このふたりは、出会いのなかに、すでに別れが仄めいている、ということを、あらかじめ、自然と、体得出来ているのである。盲目の彼らは、別れと出会いが、常に、同義であるような、そんな関わりしか、そもそも、持ち得ないのだから。しかも二人が居るのは、常に、宿場なのだから。例えば、生の最中に、すでに、死が、はじまっているように、出会ったそのときから、実は、別れが、すでに、はじまってもいるのである。出会いの最中の、別れの進行とともに、しかし実は、まったく別の出会いが、同時に、別のどこかで、生成してもいるのである。しかしむろん、その新たな出会いとて、その出会いの最中に、すでに、見えない別れが、はじまってはいるのだけど。
盲目の按摩は、宿場でひとり滞在している、美しい訳ありの女に向かって、こう懇願するのだ。
「自分にも見えない、もっと遠くに、逃げてください」
訳ありの女は、いずれ、この宿場を、立ち去ることになる。そして盲目の按摩は、立ち去る女を、見送ることになるのだ。見えない按摩が、女を、見送るのだ。言葉ひとつ交わすことのない、別れの場面。別れ、という言葉では、まったく生易しすぎる、別れの場面。女が乗る馬車が、遠ざかっていくそして。いずれ、馬車は、消え去ることだろう。盲目の男は、別れのなんたるかを、心底心得てはいたはずなのである。出会うことにも、別れることにも、盲目の彼は、はじめから、慣れっこだったはずなのである。しかし女が、盲目の彼にすら、見えないところに、ほんとうに、消え去ったときに、別れと出会いが、均衡していた、あの時間が、終わってしまった、ということに、盲目の彼は、初めて、気付いたのである。別れと出会いが、均衡する、そんな時間が、あろうとは、別れに精通した、盲目の彼とて、実はまったく、知らなかったのである。別れと出会いが、奇跡的に、均衡していた、あようなの時間のことを、人は、きっと、愛と呼ぶのだろう。盲目の彼にすら、見えないところに、女が、消え去ったときに、盲目の彼は、愛という時間が、確かに在った、ということを、そしてそれはもうありえない、ということを、はっきりと、悟ったのである。盲目の彼にすら、見えなかったなにかが、とうとう彼にも、見えてしまったのだ。あるいは、見える者には、なかなか出会えない、あのような時間に、別れに精通した、盲目の彼だからこそ、まざまざと、出会えてしまった、というべきかもしれない。
最後に露呈する、馬車との距離が、すばらしい。映画にしかありえない、最高の叙情が、ここにある。
すばらしい。
シネマヴェーラにて、「清水宏大復活!」特集上映中。
- 2007/07/28登録
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