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利根川友理

 JR北浦和を降りてすぐの、北浦和公園内に在る、埼玉県立近代美術館というところは、けっこう面白くて、わたしは何度か、ここで、良い出会いを、体験している。現在では、特別展として、勅使河原宏展が、開催されているが、むろんこの特別展も、なかなか力の入った、ボリュームのある、展覧会ではあるのだけど、しかし一方、一階で、ささやかに(さして客は入っていなかった)開催されている、常設展も、実は、いつでも、けっこう見応えがあるものと、なっているのだ。ピサロ、モネ、ルノアール、ロートレック、ユトリロ、藤田嗣治、佐伯祐三、などなどが、入ってすぐに、ごく自然に、観ることができるし、そしてその常設展示場の、一部の区画では、なかなか良質な(ちょっとマニアックな?)、特集展示もなされていて、それも、いつでも、なかなか興味深い展示となっているのだ。常設展示だけの入場料は、たったの二百円なので、だからもしも、浦和周辺に、用事があったのならば、北浦和まで足を伸ばして、北浦和公園をふらふら散歩しつつ、ちらっと美術館に、立ち寄ってみる、というのも、なかなか悪くないと思うのだ。

 埼玉県立近代美術館の、常設展示室の、ごくごく小さな一角で、現在なされている、「線・記号・文字  <本>をめぐる試み」という特別展示のなかの、さらにまた、とてもちいさな、利根川友理の作品に、わたしはすっかり、魅了されてしまったのだ。とても知的で、軽やかで、きわめて明解な、魅力的な作品。本・言葉への、なかなかラディカルな考察を含みながらも、しかしとてもチャーミングに仕上げられている。だからその利根川友理の、繊細なセンスには、ささやかだけど、しかし必然性あるなにかを、明解に、提示しようという、いかにもモダンアートらしい、知的な上品さが、感じられる。すると突然、なんの前触れもなく、そんな知的で上品な作品に、北浦和公園の片隅で、出会ったりすると(そんな出会いをこそ、待ちつつ、その作品も、そこに、在りつづけていた、ということなのだろう!)するとわたしとしては、そのことに静かに高揚し、忘れかけていた、ほんのささやかな考察の、そのつづきを、ここで、ひそかに、再開することになるのである。だからわたしが、かつて、その考察をしつつ、ある時在った、ということと、今ここで、その考察の続きを、この作品の前で、不意に再開しつつ、わたしが再び在る、ということが、この場所で、遭遇することになるのである(わたしとわたしが、わたしにおいて、思わぬ遭遇を、このとき、演じているのである)、すると何重かに重なり合った、このような複雑な遭遇の体験こそが、「ほんとうのわたし」ということを、ほんとうに、裏付けてくれる、ということになるのである(ほんとうのわたし、とおもっていたそれが、多くの偽りをふくんでいた、ということは、意外に、よくあることなのだ)。だからこそこんなささやかだけど絶対的な体験こそがなによりも貴重なものとなるのである。こういうことがなによりもうれしいのだ。

  
 秋山さやかは、地図に、糸を縫い付けるという方法によって、作品を製作するが、しかし一方、利根川友理は、開いた本の、その表面に、糸を縫い付け、作品を制作する。だから秋山さやかと、利根川友理の、それぞれの作品は、とても似通った見た目とはなるのである、しかしそのそれぞれの作品においての、縫い付けられた糸/線が、意味するところは、まったく異なっているのだ、だからむしろ、その見た目の相似が、作品としての/コンセプトとしての、実際の双方の違いを、かえって浮きだすことにすらなるのである。秋山さやかによる、地図に縫い付けられた、その糸は、彼女が、実際に、その場所を歩いた、ということに基づいて、つまり地図の外部との関わりとして、その糸は、その地図上に、縫い付けられるのである。したがって秋山さやかによる、その糸/線は、地図のその外部との関わりを含んで、なにかを意味しはじめる、ということになるのである。しかし利根川友理によって、開いた本に、縫い付けられた、その糸/線は、本の外との関わりは含まず、あくまでもその本の中の、そのページの表層の、言葉との関わりにおいて在る糸/線なのである。その糸/線は、言葉とのなにかしらの関わりにおいて、作品として、意味しはじめることになるのである。言葉と絵柄は、それぞれが、対立するものとして、イメージされがちではあるが、しかし実際には、どちらともに、平面に刻まれた、線の集合として、視覚的に、見られるもの、という点では、まったく共通しているのである。つまり平面に刻まれた線とは、言葉にもなれば、絵にもなる、と、したがって平面に、線を描く、ということとは、文字になるかか絵んなるかの違いを超えて、それ自体が、文化の源泉としての、きわめて過剰な、原質的な何かですらある、と、そのようにみなすことも、可能なのである。つまり利根川友理による、本に縫い付けられた、その糸は、いくつもの活字/言葉に、なりきれなかった線、つまり活字/言葉を、かろうじて逸脱した、一本の線、とも見えるし、また反対に、その線こそが、言葉へとなっていく、源としての線、とも、みえるのである。しかしいずれにせよ、本のページの表層を、つまり活字の連なりの上を、軽やかにうねる、利根川友理による、その糸/線は、活字/言葉と、まさに、文字どおり、「紙一重」で、接することで、同じ線でありながら、しかし言葉とは決定的に違った様相を持つ線として、活字の連なりと、表層的に、親密に、関わり合っているのである、だからその糸/線は、活字/言葉という線を、異化していると同時に、また、活字/言葉によって、その糸が、異化されてもいる、という、スリリングな、相互関係を、紙一重の関わりによって、形成している、ということなのである。言葉を肯定し、言葉を祝福し、また同時に、言葉を挑発し、言葉に挑発され、それから逸脱しようと、その糸は、得意な、美しい、線を描きつつそこに在るのである。言葉とはまったく違った様相の、その糸/線は、もちろん、それ自体で、充分美しい、力ある線ではあるが、しかしその美しさを、受け入れたうえで、あらためて、活字/言葉に、目を向けると、すると不思議なことに、その活字/言葉自体も、ひとつの、美しい線として、線によって作られたひとつの形象的世界として、見えてくことになるのである。ページ上の糸/線は、美しい、ひとつの世界を感じさせるし、またそれと関わる、ページ上の、活字の連なりも、ひとつの美しい世界として、結果として、見えてくることになるのである。同じ線が形作る、しかしまったく異なっている世界が、それぞれを挑発し合いながら、紙一重で関わり合いながら、その緊張関係の、きわめてスリリングな均衡が、結果として、そのふたつの世界の、絶妙な、共存をも、最終的には、実現することになるのである。糸と活字の、ページ上での、紙一重の関わりは、このふたつの世界の、絶妙な共存の実現をもって、ひとつの遭遇と、なり得ているのである。このようにすでに書かれ記されている、ひとつの、特定の、ページの上に、一本の糸を、後から縫い付け、線を描こうということは、すでに在る、このページに、表層的に、一方的に、関わろうということだから、だからその表層に糸をうねらす、その衝動は、極度に潔癖な、しかしインモラルな、エロティズムすら、感じさせるのである。だからふたつの世界の、その絶妙な共存には、一見そうは見えないが、しかしギリギリにつき詰められた、生の衝動を、モラルを飛び越えた生の衝動を、不思議と感じさせもするのである。糸と紙という極めて明解な方法と、線をめぐる鋭いコンセプトと、そしてそれを突き動かす、つきつめられた、インモラルな欲望と。それらの完成度高い重ね合わせが、必然性ある作品として、ここで結実している。
 とても美しい。


利根川友理

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投稿者:
room9

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