関心空間はブックのクチコミも満載!

新着

... もっとみる
ログイン | ユーザー登録(無料)

バベルの図書館

幻の一書を求めて

 大学に入り、そびえたつ学問の大山を前にひるんだのは私だけではあるまい。それまでの義務教育を脱し、ここに来れば何か素晴らしいものがあると期待したが、それをつかむにはこの山を登らねばならないと気付く。登山道は取り敢えず文学部哲学コースに決めたはいいが、登山靴もなければ第一体力がないので登りきれるかどうか。上空の空気は薄い、高山病になりはしないだろうか。何よりも挑んだ相手の山は手におえないほどデカイ。学問するために来たはずなのに、考えが甘かった。与えられた大学生活の半分が過ぎてしまっても、未だ山の一合目にも達することができないこの私が、この山について語ろうという無謀を試みた。晴れて登山口に立った新入生の皆さんへの私なりのエールとして。

 学問あるいは書物の無限性を痛感して断筆したある作家はこう書いた。「フランクフルトの書籍見本市に一度でも行き、出版されたばかりの(おそらくページをめくって、ぱらぱらと見ることさえできそうにない)数十万冊もの書籍の前に立ったことがある者ならば、私のように感じるのではないかと思う。それはつまり、大海を前にしてその岸辺に立ち、手にはスプーン一杯の水を持ち、自分のそのスプーンによって大海に水の補給をしなければいけない、といった感じだ。こんな風に対比してみただけでも(少なくとも私は)意気阻喪させられてしまう。(…)結局のところ、情報洪水の時代に生きる物書きの美徳、その第一の美徳とは、沈黙することではないか……」(スタニスワフ・レム「なぜ私は書くことをやめたのか」『文藝』一九九五年秋季号所載)。作家と言えば学者と並ぶ「言葉の権威」である。四十五冊もの本を著した作家が、最終的に行き着いた答えは重く深い。

 一方で、世界の全てを言語で語り尽くすため、失明してもなお執筆活動を続けた作家もいた。アルゼンチンの国民的作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスその人だ。祖国の国立図書館長を務め、アルゼンチン国民文学賞や第一回フォンメントール賞(国際出版者賞)を受賞した彼の、博覧強記との形容がぴったりな作品群のうちでも、短編「バベルの図書館」は秀逸である。日本でもこれをテーマに昨年十月“「バベルの図書館」文字 / 書物 / メディア”と題するイベントが行われたほどである。彼の作品を通して、「沈黙」の美徳を退け、学問の大海あるいは書物の大山を旅する意味を考えてみたい。

 ここに登場する無名の主人公は、世界の全ての書物を要約したという一冊の書物を求めて、「バベルの図書館」の中を探し歩く。この図書館はある種幻想的であり宇宙を想起させる。というのも、階数は無限に空高くまで続き、従って書棚に並べられた本の数もまた無限にあるからだ。具体的にはこんな本がある。「未来の詳細な歴史、熾天使らの自伝、図書館の信頼すべきカタログ、何千何万もの虚偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の証明、真実のカタログの虚偽性の証明、バシリデスのグノーシス派の福音書、この福音書の注解、この福音書の注解の注解、あなたの死の真実の記述、それぞれの本のあらゆる言語への翻訳、それぞれの本のあらゆる本の中への挿入」。衒学的とも思えるボルヘスの特徴がよく現れた部分だが、それら一冊一冊がどのようなものか思案するのは、本稿の意図から外れるだけでなく作者も望まないことだろう。今は、それらの書物全てを包含するという、一冊の書物の存在こそ重要である。

 仮にその完全なる一書を精読した図書館員は、神に近しい者として崇拝の対象とされた。主人公もその一書の在りかを永年探し続けているのだが、一向に見つからない。私たちも一度は夢に見たことがあるだろう幻の一書。たった一冊この本だけ読めば世界のエッセンスが自分のものになるのだから、のどから手が出るほど欲しい。けれども、無限の書物の山の中からそれを探し出すのは至難の技である。全知を収めた一書は、どこにあるのだろう。逆説的だが、それを読めば全ての本を読んだことになる究極の一書を探し出すためには、図書館をくまなく歩き一冊一冊調べなければならない。気の遠くなるこの彷徨は、神が仕掛けた悪戯か、はたまた人間の行き過ぎた思い上がりか。

 物語は旧約聖書に伝えられる「バベルの塔」のパロディであるのは明らかだが、この塔も決して目的を達成されることはない。旧約聖書の創世記第一一章に記述されているバベルの塔は、ノアの子孫たちが天に至るために空想し、シナルの地に建てようとした巨大な塔である。しかし、その僭越がエホバの神の怒りにふれ、人々は互いにことばが通じなくなって離散し、計画は潰れてしまった。バベルの図書館もまた、人間の愚かな意図をあざ笑うかのように、幻の一書を私たちの前に差し出してはくれない。

 けれども私は、神の存在が目的を挫くことを言いたいのではない。私たちが究極なるもの、完全なるものへ接近しようとしても、神などの超越的存在が私たちの究極へ至る道を塞ぐと言ってしまえば、学問とは何と虚しいものであろうか。決してゴールにたどり着けないレースを走ることほど虚しいものはない。確かに、バベルの塔のエピソードが語り継がれることで人間の宗教心は深まったかもしれない。だが、宗教が誕生したときから今日に至るまで人類が燃やし続けた学問へのひたぶるな情熱を説明するには、このエピソードを別の角度から読み替えねばならない。

 別の読み替えを可能にするには、神の絶対性に向けていた視点を人間の向上心に向けさえすればよい。天に至る塔を創ることは神への冒涜でありタブーであった。それでもなお当時の人がこの壮大な試みに取り組んだのは、宗教的禁忌に始めから白旗を揚げることに甘んじたくなかったからだろう。神の意志に近づくために神の意志に抗うという逆説的行為。それは「漠然とした神への信念」を「理性と視覚による神の証明(確認)」によってさらに強固なものにしたいという欲求の表れである。

 時には「宗教的禁忌」や「漠然とした神への信念」に対する疑問や不安が、人間を脅かすこともある。世界を人間の視点で読んだガリレオ・ガリレイは、当時の常識であった天動説の誤りに気付き、地動説を発見してしまったとき、「宗教的禁忌」と「漠然とした信念」への対決を余儀なくされ裁判にもかけられた。自らの全存在を賭けた切実な問いかけがなくして、究極への接近は不可能である。ヘッセの「シッダールタ」に展開する知の探究の遍歴も決して生易しいものではなかった。

 バベルの塔も、バベルの図書館もそうした人間の向上心を象徴しており、これら二つの建物が私たちに差し出したのは、究極に対する人類の挑戦の足跡である。それは同時に究極に対する人類の敗北の歴史であるが、それでも確実に塔は高さを増し物した本は増えていく。何と誇らしい敗北であろうか。そもそも神の証明をその使命としてきた「神学」は、人間が自らの探究によって言葉に表わし体系化したものである。さらに、書物自体も、永遠なるものを求めて人間が自らの力で勝ち取った智慧の財産である。人間の力はまだ限界に達したとは言えず、探求の旅は無限に開かれている。図書館をさまよう無名の主人公は、実は究極の一書が得られなくとも神に一歩一歩近づいているのだ。そしてこうする以外に近づくことはできないと悟っているから、あきらめないのかもしれない。

 無限は無限であるゆえに、永遠につかまえられることはないだろう。つかまえられないからこそ、追いかける。ここに、知の探究の原点がある。私もそう悟る以外にない。登山靴も体力もないけれど、山を登り続ける強靱な意志力これだけは持ち続けようと気を張りつつ、永遠に続く旅路において新たな登山者と出会えることに、大きな喜びを感じている。

バベルの図書館

このページに
携帯でアクセス

2次元バーコード対応の携帯で読み取ってください

ハナミ画像 投稿者:
ハナミ
詳細情報
  • 人名: ホルへ・ルイス・ボルヘス
  • 2002/07/07登録
  • 1166クリック

ソーシャルブックマーク

  • このページを含むはてなブックマーク
  • このページを Yahoo! bookmarks に登録する
  • このページを del.icio.us に登録する
  • このページを livedoorクリップ に登録する
  • このページを POOKMARK Airlines に登録する
  • このページを Facebook に登録する

コメント (0)

まだコメントされていません。

つながりキーワード (4)

ICC(NTTインターコミュニケーションセンター)で行われた「バベルの図書館」展の記録。 バベルの図書館をテーマとした、文字/書物/メディアによる四人の作家による作品の展示。バベルの図書館...

ボルヘスは、アルゼンチンの作家です。 伝奇集と砂の本を読みました。 バベルの図書館 バビロニアのくじ なんかが好きな話でした。 バベルの図書館は、本棚が延々とつづく図書館というか世界 ...

死の直前までサミュエル・ベケットはオスカー・ワイルドを読んでいた。 終の棲家となった医療付き養老院 ル・ティエール・タンで。 ジェイムズ・ノウルソンの『ベケット伝』最終章にはこう書かれてい...

球型書架

  • (雲衣。)

透明で圓い本棚にわたくしはなりたい。 地球という天体のような全球的叡智を持ちたいと願う               ・ 一本の草に触れる小さな虫のように 本を読む。 土に還る日まで...

携帯でこのページにアクセス

バベルの図書館

2次元バーコード対応の
携帯で上の画像を読み
取るとアクセスできます

トラックバック (0)

まだトラックバックされていません。

トラックバックURL
http://www.kanshin.com/tb/keyword-132916

キャンペーン

植物と暮らすライフスタイル・マガジン PLANTED
ページの先頭へ ページの先頭へ