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鎌倉 妙本寺 海棠 (かいどう:aronia)

  • 鎌倉 妙本寺 海棠の画像

詩人中原中也の追悼文のなかで
昭和の文芸批評家である
小林秀雄が中也の思い出を綴った
新潮社の「考えるヒント 4」
収録されている、そのものずばり
「中原中也の思い出」
というタイトルのエッセイがある

そのエッセイは
海棠(カイドウ)という花の枯死
から始まり
その花がまだ威勢のよかったときに
中原とこれを見たという話になる

あらすじは
晩年(といっても30代なかば)
子どもをうしなって
半ば狂人となった中原を小林が
何年ぶりかで見舞い
一緒に妙本寺の海棠(カイドウ)
を見ながら
何することなく歩いている
小林秀雄はその落ちる花びらを見て
いつまでも落ち続ける花びらを見て
落ち続けまた落ちる花びらについて
考え事をしはじめると
だんたんと イライラとしてくる
そして、それを察した中原が
「もういいよ、帰ろうよ」
と言ったという
有名なエピソード

「お前

相変わらずの千里眼だよ」

小林秀雄はこの再会を果たすまでに
じつに 8年の歳月を要していた
なぜならば
小林秀雄は、はちねんまえ
中原のたいせつな女を寝取ってしまい
それいらい中原に
会う事をためらっていたのだ
こどくな詩人と、小説家になれなかった
希有の批評家との間にできてしまった
あんまり暗くて深い穴
その穴がどんな穴だかもよく分からなくて
なぞるのすらこわくて
小林はなかなか
中原に会う事が出来なかった
のだ

その海棠は
鎌倉の妙本寺にある

地図

フリッカーによるaronia
アロニアベリー

:-)画像 投稿者:
:-)
  • 2008/03/06更新
  • 2008/03/06登録
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コメント (2)

2008/03/06

雲衣。 小林の妹 高見澤潤子がそのあたりの事情を『兄 小林秀雄』という文章に書いています。とても面白いので少し長いですが、頼まれもしないのにお届けします/笑。 《 大正十三年、母が、二年半の療養生活を終えて、私たち三人は高円寺の小さな借家に入った。兄は八畳の部屋を自分の書斎として占領し、私は玄関の三畳を自分の部屋にしていたが、ほとんど兄は家にいなかった。たまに夜おそく帰って来ては、同人雑誌の仲間を四、五人つれて来て、酒と議論がはじまる。酒がなくなると、買いにやらされる。私は、暗い道を、泣きそうになって、酒屋に出かけていく。朝は私が学校へ出かける前に起きて来たことはない。帰って来ても、ほとんど家にいたことはない。  夫に死なれ、病弱であまり働くことの出来ない母にとって、頼りになるものは一人の息子の兄しかなかったのに、息子とむきあってじっくり話す時間もなかった母は、どんなに淋しかったろう。そんなことを思いやりもせず、自分勝手なことをしている兄を、私は怒り、恨んでいた。私は一度、兄を可愛がっていた帝大(今の東京大学)のフランス文学の教授辰野隆に、こまごまとした手紙を書いて、兄の行状を訴え、母が可哀そうだから、よくいいきかせて、意見をしてくれと、懇願したことがあった。返事はこなかったし、兄に意見をしてくれたかどうかも、解らずじまいであった。  特に中原中也の愛人、長谷川泰子と同棲することになって、母と私を残して、家を出ていった時は、ひどい兄としか思えなかった。引越荷物の手伝いを、ぷりぷりしながらやった。特に、兄の着物やシャツをよりわけて重ねているやせた母をみて、兄のしうちを恨めしく思った。  それまでに、父がもっていた骨董や古い掛軸や書物など、少し金目のものは、ほとんど売ってしまったが、残っていたガラス戸棚、天井にとどくくらいの高さで、上が本棚になっていて、下は沢山のひき出しのついた立派な戸棚も、中の本も全部、兄の新居のために、その時、金にかえられてしまった。中の本は父のもので、日本古典の全集などもあった。  兄がいなくなったあと、私の家は、全くがらんとしてしまって、何もかもなくなってしまったような感じであった。  最初の六ヵ月ほどの間は、兄の家は、歩いていけるほどの近くにあったので、私もよく訪ねていったし、兄もちょいちょい、家に顔を出したが、だんだん愛人の病気がひどくなり、そのために、兄は、あちこち家をかえた。鎌倉や逗子に移ってしまってからは、私はほとんど兄にあわなかった。最後に、東中野の谷戸に来て、一年ぶりに兄とあった。貸家の大家さんは、英文学者で、その頃推理小説を書いていた松本泰であった。松本夫人の恵子は、私は前から知っていたし、いろいろ世話にもなっていた。その松本夫妻も同じ谷戸に住んでいたから、よく谷戸には出かけていった。  後に私が結婚する高見澤仲太郎(田河水泡)も、同じ小さな借家に独り住居をしていて、抽象画を描いていた。  この頃は兄の愛人の病気はひどくなるばかりで、私にあったあとは、ことにすごい発作をおこすというので、私は谷戸に行っても、兄の家にはよらないで、帰ることが多かった。  兄たちが谷戸に来て、三ヵ月もたたないうちに、突如として、兄は、愛人をその家に残したまま、行方をくらました。私たちは、本当に心配した。大阪のある寺から、私あてに、手紙がくるまで、本当に心配した。手紙をよんで、私は、急にぐっと兄が自分に近くなった気もちであった。その手紙は、初めて、兄がはだかになって、私にぶつかって来た何ともいえない悲惨なものであった。悲惨な、疲れ切った状態のかげに、しみじみと伝わってくる兄らしい、深い愛情を、はっきりと現わしていた手紙であった。  粗末なうすっぺらなハトロン紙の封筒に、親展と書いてあり、差出人の名前は何も書いてなかったが、筆跡で、すぐ兄からだということはわかった。原稿用紙二枚に、ペンの走り書きであった。 富士子様 僕はとうとう逃げ出した。気まぐれでもなんでもない。如何/ドウにも仕様がないのだ。僕が今迄にどの位ひどい苦しみ方をして来たか幕を通して彼方のものを見る程度にはお前にも解っている筈である。僕は実際出来るだけの事をした、馬鹿(ママ)しい苦しみだ、ああ今度で終って欲しいものだ。 ここはお寺です。日蓮宗の立派なお寺だ。俺はまるで牢屋から逃げて来た囚人の様に広い縁側に蹲ってぽかんとしている。池を蛇が器用に泳いで行く。 若/モし俺は悪い事をしたのなら神様が俺を悪い様にしてくれるだろう。若し俺に罪がないのならいい様にしてくれるだろう。兎も角俺は恐ろしく疲れた、春の陽というものはこんな色をしてたっけなあと眺めている。 心配しない様に、お母さんも心配しない様に、 佐規子が来ても断じて相手になるな、僕の出奔に就いては断じて口外してはならぬ、うるさいから、うるさく言う奴もあるまいが、皆んな放っとけ放っとけ。 今の処/トコロ如何する当もない、お寺に置いてくれればここに凝/ジっとしている、当分東京には帰らない、働く口があったら働く。 兎に角心配してはならない、信じる人が今の処兄貴だけなら兄貴を信じるがいい。色々と心配をかけたなあ、疲れたから又書く、 谷戸の家はまだ放って置くがいい、今月の家賃が払ってないが金が出来たら払う、            大阪天王寺谷町八丁目三番地                  妙光寺方                    小林秀雄 月末にでもなったら、谷戸の家に行って、佐規子に見つからぬ様に、恐らく家にはいる筈はないだろうが、いやこの事は又書こう。今は頭が疲れていペンを動かすのも苦しいのだ。                     さよなら 西村のおじさんは大阪の何処にいるかしらん。 「富士子」は私の本名、「佐規子」は長谷川泰子のことで、母が姓名判断でつけて貰った名前である。また西村の叔父というのは、父の弟で、西村孝次の父である。私は、この手紙で、やっと、これまでの兄の苦しい生活を知り、兄の真情がわかった。   それから兄は、大阪から奈良、神戸、京都などを放浪しながら、当時奈良に住んでいた志賀直哉や、京都の伯父、その他友人たちの世話になり、一年近く関西にいた。おちつかない生活ではあったが、よく本をよみ、原稿も書き、講演をした。私には、何度も手紙をくれた。手紙をよむたびに、私はよりよく兄を理解した。》  全体はこの五倍ほどの分量で1983年8・9月の「新潮」に連続掲載されました。  

:-) 読みづれー(笑

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