木田元×太田光:哲学者は漫才師を納得させられなかった
爆笑問題のニッポンの教養「哲学を破壊せよ~哲学 木田元~」が予想通り面白かった。今回のゲストは反哲学者木田元(ハイデガーの専門家)。「真理より道理、実在より現象」を書くにあたって著書「マッハとニーチェ」のお世話になった人である。
番組はまず、木田の経歴紹介。戦後混乱期に食うために一時闇屋をやったとか戦後の虚脱感絶望感を克服したいと考えてハイデガーに憧れて哲学を志したとかの話である。そして、その後に木田の反哲学が出て来る。反哲学について、ネット検索して見つけた表現を借用すると、
その結果、わかったことは、西洋と日本とのものの見方の決定的な違いである。日本人にとっては自然は、生成消滅するもので、人は自然の中から生まれ出て、自然の中へかえってゆく存在と考えられている。しかし、プラトン以降の西洋哲学では、「イデア」「理性」など、様々に呼ばれる超自然的存在によって形を与えられ制作されるものが自然で、まるで考えが違う。わび、さびを感じ、無常をおぼえる日本人と、自然を科学の力で変えることが出来ると信じる西洋的合理主義の違いは、この自然観の違いに由来する。
要するに、プラトン以降の西洋哲学では人間にとって自然は材料(つくる対象)、これに対して、日本の文化では人間も自然(つくるものではなく自然になるもの)の一部ということだ。プラトンのイデア論に端を発した西洋の伝統的な(言わば)反自然的哲学に対して、木田は自然の復権(ニーチェがプラトンに異を唱えてハイデガーがこれを引き継いだ流れ)を反哲学と称しているのである。ちなみに日本文化のこの「なる」自然的性格を丸山真男が既に論文「歴史の古層」で指摘しているのは著名な事実だ。
さて、そこで太田光登場。大変な読書家(唯一の趣味が読書)で、多忙にも拘らず年100冊を超えるペースで本を読む太田らしくニーチェ「善悪の彼岸」という書名を枕に太田は木田に迫る。
「西洋近代哲学は科学技術の発展を促したが、それと同時に、科学技術に人間は従属してしまった。この点について将来も自分はペシミスチック(悲観的)だ」と語る木田に次のように食い下がるのである。
「そこがつまんないじゃないですか。だってね、言ってみればね、プラトン的な善悪、これはくだらない。俺もそう思う。そうして来たのを止めようということになって、善とか悪じゃねえんだとニーチェが言った、善と善なんだ、善と善とでどっちか選ぶんだ、ということになる。人間の技術、プラトンのやってきた先生が崩したいと思ってきた哲学もいったん善にもう一回肯定し直さなきゃ、だめじゃないですか」
こう、問われた木田先生、太田の言っていることが理解できなかったようだ。そこで、太田が畳み込んで追加説明する。「ニーチェは、善と悪じゃないぞって言っているにもかかわらず、俺は、ニーチェ自身がこのプラトンを悪にしちゃっていると思うんですよ。全部肯定して、例えば戦争も肯定して、生きることも肯定して技術も肯定して自然も肯定して、そこからもう一回考え直さなくっちゃ駄目じゃないか、そう思うんです」
おお、これはスピノザだ。スピノザの肯定の哲学だ(自分と神と他者と世界をゆるす→自由をもたらす)。
太田がスピノザを知っているかどうかは知らないが、太田が言いいたかったことは、いたずらにプラトンや西洋近代思想を悪者にするだけでは展望は開けない。全ては現実に存在する(した)ことなのだから全部をまずは肯定せよ、ということだ。
ところが、木田先生は議論をはぐらかしてしまった(と俺には見える)。「大田さん自身が超自然的な原理の位置に」と何が言いたいかわからないフレーズを口に出した後に、「行ったり来たりしているうちに見えてきたものがたくさんある」と締めくくってしまった。
さすが、哲学者、お上手ではあったが太田は納得してないだろう。ともかくも木田先生を動画で見られてよかったの30分であった。
※再放送予定あり→2008年 4月28日(月) 放送時間 :午後3:15~午後3:45(30分)。
- 2008/04/23更新
- 2008/04/03登録
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