「ノーカントリー」(監督・脚本 ジョエル&イーサン・コーエン)
ホラー映画以降の悪しき傾向なのか(あるいは「羊たちの沈黙」がことに印象的ではあるが)サイコキラー的なあまりにもおぞまし過ぎる死/殺人の真相はなにかと闇の中の出来事として映画的に表現されがちで、だからそのおぞましき真相を探ろうとする主人公はそのクライマックスで闇の空間に孤独に入り込みそしてその中でおろおろしつつ目を剥いて<悪>と立ち向かおうとする、そんな「ドキドキ」のシーンが良く見られがちだが、しかしこれほどまでに堕落した映画表現もないのであって、なぜなら悪がもしも悪としておぞましく恐ろしいものであるとするならば、それは悪という闇がわたしたちを包み込みかねないからではなくて、むしろ逆に悪はその辺に転がっているからこそそれはおぞましく恐ろしいのであり、しかも悪によってわたしがもしも傷つけられようとも世界はそのまま何ごともなかったかのようにいつものように生成し続けるであろうし、つまりわたしに負わされた悪による致命的な傷は致命的なままでとどまるほかなく、そして世界はその時にもそれについてまったく無関心なままであるほかなく、つまりわたしが受けたこの悲劇の穴埋めをすることは絶対に不可能であり(起きてしまったことを取り返すことは出来ず)、だからわたしは、理不尽で気の毒であるはずのわたしは、そのまま世界に残酷に放り出されることとなり、しかもその悪は(わたしを傷つけたその悪は)そのままのうのうと在り続けるかもしれず、あるいはその悪が死滅に追い込まれたとしてもしかしその程度の悪は放っておいても次から次へと発生するであろうから、したがってわたしが被ったような悲劇が持つ絶対的な理不尽さはきっとどこかの誰かがいずれ再び被るであろうこともこれまた明らかであり、しかしそれが自明であるにもかかわらず悲劇はいずれどこかで起こるであろうことをあらかじめわたしたちは理解出来ているにもかかわらずしかしわたしたちはそれについてなにひとつことを成すことは出来ないのである。悪人を悪だといってつるし上げることはたやすいが、しかしそれによって被害者の気持ち(被害者の遺族の気持ち)が少しでも満たされたと思い込むことは相当に自分をごまかすことが伴っているはずであり、なぜなら理不尽な目に遭っているわたしちが実際にぶちあたっているのはこの世界の残酷さという巨大な壁であって、つまりわたしたちが憤っているのは神の理不尽さであって、だから悪魔の存在よりも神の理不尽さのほうこそがわたしたちの絶望の源泉なのだからしたがってちんけな悪魔をひとりかふたりつるし上げたところでなにひとつわたしちの根源的な問題解決になるはずがなくあるいは悪魔を一人か二人つるし上げることに熱狂することは時間を逆行しようとしているという点において(時間を逆行し悲劇の穴埋めが可能であるかのように皆で思い込もうとしている点において)それはおそろしく倒錯的な行為ですらあり、だから悪人の吊るし上げは気持ちを満たすというよりもむしろ気持ちをかき乱し気持ちを変質させ結果として自分自身を見失うことにしか至らないことはあまりにもあきらかなことなのである。問題は悪魔の悪ではなく世界の残酷さ/神の理不尽さにほかならないのだから。つまりわれわれはほんとうはこう問うべきなのだ、こうまでも残酷な世界に生きねばならないとはいったいいかなることなのか、と。われわれはほんとうはそう問うべきなのだ。
異常性癖を持つ異常殺人犯とは彼なりに生きようとする衝動を持ってはいるのだがしかし異常殺人鬼の生の衝動はあまりにも異常な意味合いと結びついてしまっていてだから例えば血を見ることによって興奮する(死体を犯すことによって興奮する)という異常性癖をもってしまっていて(しかしその興奮とは彼なりの生きる衝動の現れではあるのだ)だからかれらは少なくとも異様な意味への執着において異常な生の形態として異常な生きる衝動として異常殺人をくりかえしているということなのだが、しかし「ノーカントリー」で描かれている殺人鬼はそのような異常な意味すらもはや興奮とともに求めることはなくむしろこの世界の理不尽さ/神の理不尽さに居直るかのように、「ならばいったいどこに意味があるのか」と居直るかのように、世界の無意味さ/生きることの無意味さをにとりつかれてしまったかのように、ひたすら無意味に死を生産し続けていくのであり(奴は奴の目的とは無関係な殺人を/奴に異様興奮すらあたえない殺人をいかにもあたりまえのように冷酷にくりかえすのである)だから「ノーカントリー」で描かれる殺人鬼は異様な性癖をもったひとりの悪魔(闇の中に潜むひとりの悪魔)というよりも神の理不尽さに居直った死神(そのへんをうろつく死神)とも言うべき真に恐るべき存在なのである。しかし厳密にいえば小津にせよ溝口にせよジョン・フォードにせよそのような世界の理不尽さをこそ最初の前提として映画を組み立ててはいたのであってだからなにも世界の理不尽さとはいまさらあらためて発見すべきことではないしましてやそれは結論ではなく前提ではあるべきなのだがしかしその世界の理不尽さは小津や溝口やフォードにあってはある種の認識としてその作品のうちに在ったのだがしかし現在においては(二十一世紀においていきるわれわれの日常においては)極度に無媒介的にその世界の理不尽さにわれわれは日常的に接しなければならずつまりわれわれは大衆であることを止めたわけではないにもかかわらず世界の理不尽さにすでに放り出されてしまったのでありだからそのことにわたしたちは大衆文化という脈絡においてどうにか対処しなければならないはずなのだが(世界の理不尽さに哲学的に対処するのではなくあくまでも大衆的に対処しなければならず)しかしそんな手だてなど在るはずもなくだからわれわれは弱々しい大衆としてひたすらそれに怯える他ないのであり(だからその弱さにおいて悪の吊るし上げについ耽ってしまったりもするのである)だからそのような脈絡においては「ノーカントリー」に満ちている世界への大衆的な脅えは絶対的な新しさこそ無いものの大事な同時代性を実現してはいてその意味では充分に生々しい映画になりえているのである。傑作。
- 2008/05/28登録
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ノーカントリー
- 極私的、格付け!映画ガイド | Tracked: 08.11.2 8:09 pm
殺し屋は、おかっぱ頭で不気味。でも低くてエエ声してます。(^^) 話は、なんかタランティーノっぽくなくないですか?(^^;; 誰の視点で見て良いのか分からない映画でした。 まぁ、...
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