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中国通史―問題史としてみる (堀 敏一) (ちゅうごくつうし もんだいしとしてみる)

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大正期に中国史の大家、内藤湖南はこう講演した。

「だいたい歴史というものは、ある一面から申しますると、いつでも下級人民がだんだん向上してゆく記録であるといっていいのでありまして、日本の歴史も大部分この下級人民がだんだん向上発展していった記録であります。そのなかで応仁の乱というものは、今申しました意味においてもっとも大きな記録であるといってよかろうと思います。」

これが、名高い「応仁の乱に就て(青空文庫)」である。内藤は応仁の乱を、今日に連なる「近世」の始期とみなした。

従来の通説では、この頃はまだ「中世」という時代区分がふさわしいだろうということになっていたから、いったい「中世」と呼ぶべきか、いや「近世」と呼ぶべきだという「太閤検地論争」を生むことになった。

そもそも内藤湖南の視角は、大正デモクラシーと第1次世界大戦後の労働運動・農民運動の高揚を背景としていた。とりわけ「辛亥革命」による共和制の誕生への期待に反映されたものだったことも無視できない。

宋元明清期の中国をすでに「近世」だとみなせば、これから来るべき時代は輝かしい「近代」だというわけである。

内藤は、唐・宋の間を中世から近世への移行であると主張し(宋以後の「近世」が「現代」の時代に直結すると考えていた)、民衆の勢力の勃興という観点から、日本史の時代を区分したのだった 。内藤は後漢中期までを「上古」、過渡期をおいて、五胡十六国時代から唐中期までを「中世」、唐末五代に第2の過渡期をおいて、宋元を「近世前期」、明清を「近世後期」と区分した。宮崎市定は、おおむねこれを受け継いだ。

いっぽう、第2次世界大戦後になって前田直典が唐末までを「古代」とし、宋以降を「中世」とする区分を発表し、仁井田陞もこれを指示した。前田・仁井田の時代区分に投影されていた問題意識は、敗戦直後の日本の近代化が急務とされたことや、「日本をとりまく世界でも、アジア・アフリカ諸国が独立して国家建設を開始し、中国では革命が成功して中華人民共和国が成立」するなどの情勢が変革への普遍性への関心を高めたことが見逃せない 。

こういうわけで、中国史の時代区分には、「両者の生きていた時代と、その時代にたいするそれぞれの関わり方の相違」が密接にかかわっている。内藤は「辛亥革命」期や大正デモクラシー期を生き、前田・仁井田は敗戦まもなくの社会を生きたのである。

じゃあ、いったい「近世」とか「近代」とか、そういう区分は何なのか。現在の教科書をみれば、日本の歴史でいえばだいたい「安土桃山時代」あたりから「近世」に、「開国」あたりから「近代」になっているが、こういう分類法がいったいなにかといえば、ヨーロッパからの舶来品にほかならないのである。

内田銀蔵(1872~1919年)は、ルネサンスの時期に確立した歴史のAncient、Medieval、Modernの三区分法を日本史に適用し、『日本近世史』において日本のルネサンスを安土・桃山~江戸初期に比定した。しかも内田は一方で、江戸時代を封建制の確立期としたために、「近世封建社会」というヨーロッパとは異質の概念が生まれた。

しかし、のちにヨーロッパにおいては市民革命をもって「真の近代」ともいうべき時代に発展するという想定が広まったため、従来の「近世」は絶対主義時代として、「近代」の胎動期としてみなされるようになった。これを受け、中国史においては「アヘン戦争」や「辛亥革命」など、日本史においては「明治維新」や「戦後改革」など、どの時点をもって「近代」の始期とみなすのかという問題が多方面から噴出した。

ようするに、ヨーロッパにとって「近世」が「ルネサンス」によって、「近代」が「市民革命」によって始まるんであれば、日本でも中国でも、ヨーロッパと同じような徴候が認められれば「近世」とか「近代」が始まるにちがいないと考えたのである。その目印さがしの指標として金科玉条のごとく崇められたのが、ヘーゲルだとかマルクスの発展段階論だった。

たとえば、同年代の友人がいっせいに結婚しだしたころに、自分だけがとりのこされている。でも、「適齢期」というのがあるんだから、自分は遅れているのかもしれない。ちょうどこういう考え方で歴史を見たわけである。

ヨーロッパをお手本とする「普遍的な世界史を想定」したうえでの、いわば劣等生としての自己認識だったのである。それはもちろん、「敗戦」という日本近代の「歪み」とか「失敗」とは無縁ではなかった。

戦後、雨後の筍のように登場した新しい歴史学は、戦前・戦中の皇国史観を乗り越え、日本に“本当の近代”をもたらすべく奔走したのだった。しかし、この「戦後史学」の依拠した基本的な視点には、日本の後進性の極端な強調とヨーロッパ近代の先進性の過大評価があった。だから、日本史における歴史学研究は“優等生”としての「普遍的な世界史=ヨーロッパ」を絶えず気にかけた。

そうして、日本を「普遍=ヨーロッパ」に接近させようとすればするほど、「アジアから脱するか、就くか」という二分法のうち、前者を選択せざるをえない認識構造があったのである。こういう『脱亜論』的な思考というのは、脈々と尾を引いてゆくことになるのである。

過去をどうみるかということは、分かちがたく現状認識と結びついている。それは、頭に思い描く“世界像”がどこまで拡がっているのかとか、「他者」の存在が所有だとか支配の関係に落ち込んでいないかとか、頭のなかで月単位年単位のカレンダーを過去現在未来にわたってどのようにパラパラめくっているかということを、絶えず検討することともかかわっている。E・H・カーは、歴史とは「現在と過去の対話」だと種明かししたけれど、歴史の見方だけに収まる問題でもない。

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