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映画監督アンジェイ・ワイダ

祖国ポーランド

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ヨーロッパの中でも、ポーランドという国の歩みは、波乱に富んでいる。そのポーランドを祖国に持つ人にとっては、波乱どころではない恐るべき歴史に弄ばれた、悲劇であるかもしれない。ドイツとソ連の密約の中で、祖国は引きちぎられ、国の名前もなくなり、親が虐殺をされたことも。その歴史がなければ、アンジェイ・ワイダの作品はなかったのかもしれない。「ハイビジョン特集 映画監督アンジェイ・ワイダ ~祖国ポーランドを撮り続けた男~」(NHK BShi の7月13日(日) 午後7:00~8:50)を見て、そう思った。

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BS2で09年6月14日午後1時から6時の枠内で
再放送することが決まったようです。昨年1年間のテレビ界のドキュメントで受賞した作品を一挙放映、という企画のようです。見逃された方は、どうぞご覧ください。
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特集は、第二次大戦中にポーランドの将校が大虐殺された、いわゆる「カチンの森」事件を描いた、映画「カチン」の試写会の場面から始まった。この事件、旧ソ連の犯行にもかかわらず、ソ連はその真相をゴルバチョフが認めるまでの長い間封印し、ポーランドではそれに触れることがタブーだった。民主化されてなんと20年近く経った今、やっと完成した。その会場でワイダは「私はこの映画を両親に捧げる。私は運命として人生の最後にカチンを撮った」と発言した。

ワイダの父親も将校として、この事件の犠牲になっていた。
1939年9月1日、ドイツ軍とドイツと同盟したスロヴァキアの軍部隊が、さらに9月17日にソ連軍がポーランド領内に武力侵攻した。ドイツのポーランド侵攻作戦はソ連外相モロトフとドイツ外相リッベントロップの独ソ不可侵条約調印の一週間後のこと。ワイダが13歳の時、これが父親との別れになる。1943年、ソ連に侵攻したドイツ軍はカティン近くの森で溝に4,000人以上のポーランド軍将校・警察官・公務員・元地主等の遺体が埋められているのを発見する。ドイツは、「ソ連が彼らを裁判無しで虐殺した」として非難。一方、ソ連及び赤軍はドイツの主張に「1941年に侵略してきたドイツ軍によって戦争捕虜のポーランド人たちは捕らえられ、殺害された」と反論・主張した。
事件の真相は、冷戦の波のまにまに隠される。失地回復したソ連は1944年にカティンの森を再調査し、死体を再び掘り起こした。1946年、ニュルンベルク裁判においてソ連の検察官はカティンの森での虐殺についてドイツを告発した。彼は「もっとも重要な戦争犯罪の内の一つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である。」と述べている。アメリカとイギリスがこの告発を支持しなかったので、カティンの森事件についてはニュルンベルク裁判では一言も述べられていない。この事件の責任が誰にあるのかについては西側でも東側においても議論が続けられたが、ポーランド統一労働者党の幹部たちはこの事件についてソビエト連邦に遠慮してか真相を究明しようとはしなかった。この状態は1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで継続した。

カチンの森事件の流れは、そのようなことなのだが、ドキュメンタリーのフィルムの中でワイダが語ったのは、そんな「歴史」ではない、もっと生な話だった。終戦前後の調査の中で、犠牲になった人たちの名前が何度にも渡って、発表されている。ちょっと違うかもしれないが「尋ね人」のカチン版。名前がない方が良い「尋ね人」だ。ワイダの母親と、父親の母、つまりワイダの祖母が、発表のあるたびに、そこに父親の名前がありはしないか、と不安の中、走り回り、そこに名前のないことで、そのつど胸を撫で下ろしていた。ワイダは、その母たちの姿を見て、カチンの森の被害者の親族の心情を身近に見ていた、と。「これを映画にするのだ」。

ワイダは終戦後、美術を志してクラクフの大学に進むが、進路を替えウッチ映画大学に進学。映画作りの道へはいっていく。ウィキペディアは次のように記す。「1954年、『世代』にて映画監督デビュー。1956年の『地下水道』がカンヌ国際映画祭審査員特別賞に輝いた。1958年の『灰とダイヤモンド』は、反ソ化したレジスタンスを描いており、象徴的表現を多用した鮮やかな描写は西側でも高い評価を受け、ヴェネチア国際映画祭批評家連盟賞を受賞した。これら三作品は、ワルシャワ蜂起時のレジスタンスや、戦後共産化したポーランド社会におけるその末路を描いており、『抵抗三部作』として知られている。」

検閲を受けてでしか、映画制作ができない中で、民族の「記憶」を、それも現在の視聴者に、どのように伝えるか――。そんな重いテーマに向かい合って、アンジェイ・ワイダの作品が出来上がってきたことが、2時間近い特集の中で理解ができた。検閲を、いかにかいくぐって、観客にその時代と民族の「記憶」を感じさせることができるのか、だ。

番組では、「灰とダイヤモンド」、「大理石の男」など数多い映画でポーランドの激動する戦後を、当局の検閲を潜り抜けながら懸命に映画を撮りつづけたワイダの証言を軸に、クラコフのワイダ・アーカイブに秘蔵されていた「検閲議事録」、「手帳」、「絵コンテ」などの未公開資料が紹介された。

「カチン」が撮られ、公開されたいま、改めてワイダの作品を振り返ってみると、ワイダの視点と手法は一貫しているように見える。例えば1977年の作品、「大理石の男」は映画学校の生徒アフニェシカが、1950年代の労働英雄の姿をテーマに卒業映画を作ろうとしていて、博物館の倉庫でかつての労働英雄ビクルートの彫像を発見、ビクルートの当時の状況やその後を知ろうと関係者への聞き込みを行うことで物語が展開する。関係者から取材をしたビクルートの話は、労働者の彫像として振りまわされた悲劇や、ビクルートが同僚をかばったがために刑務所へ送られ、妻とも別れさせられたという事実だった。しかし、アフシェニカが1950年代の状況を探ることで政府からにらまれることを忌避する上司は、ビクルート本人を見つけられなかったことを理由に撮影自体の中止を命じる。アフシェニカはそのことで失望するも父親の、カメラがなくても本人を見つけるべきだとの言葉に打たれ、ビクルートの息子に会う。息子は父親が死んだことを告げ、諦めるよう伝えた。しかし、アフシェニカは息子を説得し、息子とともにワルシャワの放送局に向かうのだった。(この項、ウィキペディア)

ワイダ自身が明らかにした「カチン」の事件についての取材、映像化への道のりは、この大理石の男のストーリーと酷似している。ワイダの父親の消息についての、情報が寄せられ、カチンで殺されたことへの確信を深めていく。

どのように「記憶」を観客に訴えていくのか、についての話では、「地下水道」のラストシーンについて、米国の記者が「あれは状況についての暗喩か」と問う。少なくとも、質問した記者には、それが「事実を伝える記憶」であることが、理解できなかった。つまり、「地下水道」では、ワルシャワの蜂起が悲劇的な終末を迎える、その時に、水道の出口から河を隔てた対岸には、蜂起軍を応援すべくいるはずだったソ連軍が、蜂起軍のみならずポーランドの国民の希望を裏切る形で、状況を見送っていた。やがて自分たちが征服者として入っていくに当たって、自分たちにとっても面倒な反抗者を見殺しにする形で、始末されるのを見過ごしているような。

それにしても、ちょっと調べ始めると、もう一枚、さらに一枚と、歴史と言われる事実の裏に、さらにそれを動かしていた歴史が垣間見えるようで、何と暗く、重いポーランドという国の歴史なのだろう、と思ってしまう。

特集とは逸れる部分はあるが、そんな歴史の中で、グダニスクを起点とした労働者の組織「連帯」が、一瞬の希望の光を与えた。私個人の記憶としては、その「連帯」の中心にいたワレサが日本にやって来た時のことを思い出す。一行は東京から関西への旅をしていた。京都に入ったその朝、ポーランド出身のローマ法王が狙撃された。結果から言えば、命には別状がなく、その後もパパがポーランドや連帯の活動と絡んでいくのだが、狙撃の一報を聞いたワレサ一行が河原町三条の教会に急ぎ、法王の無事を祈っていた姿は、その緊張と不安を膨らませた表情と共に、記憶に残っている。

その「連帯」にも、栄光と反動の波が寄せては返した。1988年の年を過ぎ、社会主義の陣営が崩壊して、初めてワイダにも「カチン」が返って来た。

どうも、まだ未整理な思いがあるが、特集としては非常に刺激的で、興味深いものであった。

祖国ポーランド

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chagale画像 投稿者:
chagale
  • 2009/07/14更新
  • 2008/07/16登録
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