特集陳列 平安・鎌倉彫刻の宝庫
六波羅蜜寺の仏像
東京国立博物館の本館で特集陳列されている(9月21日まで)。
六波羅蜜寺は京都は五条に近い場所にある。平安時代に、街を遊行して念仏を弘めた空也上人が天暦5年(951)に開いた西光寺が起源で、貞元2年(977)天台別院となり六波羅蜜寺と改称したのだという。空也上人の当時、あたりは鳥辺野という葬送の地だったが、平安時代後期には平清盛が付近に邸宅を構えたのだとか。今回の陳列では、創建期に空也が造営した四天王像のうちの持国天立像をはじめ、清盛像と伝えられている僧形坐像、運慶作の地蔵菩薩坐像、長快作の弘法大師坐像などの重要文化財が、ぞろりと東京へお出ましになっている。また、平成館で開かれている「対決――巨匠たちの日本美術」でも「対決」している運慶・湛慶の父と子、それぞれの個性的な相貌を表現した像も出展されている。
一方で、今回の陳列で、「これがない」というのは、教科書などでも見かける空也上人立像。右手に撞木、左手に鹿の杖をつき、念仏を唱える口から6体の阿弥陀が現れた、という伝承のままの写実彫刻といわれるもの。運慶の四男康勝の作だという鎌倉時代の重文だ。
これらの他に、興味深かったのは、閻魔さまに関わる像。鎌倉時代の閻魔王坐像は鎌倉期の作で重文だが、この閻魔王と一緒にいたと思われる、江戸時代の作である「司命坐像」「司録坐像」と「奪衣婆坐像」の閻魔堂トリオだ。司命、司録は閻魔の庁で、三途の川を渡る人の生前の罪を読み上げたり、罪を記録する役職らしい。一番不思議だったのが、奪衣婆だった。康猶という彫刻師が「亡くなった愛娘を弔うために作った」との説明こそあるが、若い娘の回向のためとするには、坐像の乳房は干からびたて垂れ下がり、しわくちゃ。デフォルメされた像なのだろうが、それがどのような「婆」なのかが分からなかったからだ。
帰って調べてみると、「奪衣婆は中世地蔵十王像の普及とともに信仰され、近世には閻魔王とともに墓の入り口などに安置され、亡者が三途の川を渡ると大木の下に奪衣婆がおり亡者の衣を剥ぎ取り木にかけ、亡者の生前の罪の重さを測るという。あらかじめ奪衣婆に裁きの軽減のために祈ったものとみられる。」(群馬県みどり市文化財のHP)。江戸時代には、閻魔信仰は広がりがあったらしく、関東では内藤新宿の太宗寺にある脱衣婆像は有名で、「奪衣婆」が、衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづかのばあさん」と呼ばれ信仰された、のだという。http://www.geocities.jp/...
空也上人は、醍醐天皇の第二皇子光勝が仏門に入っての呼び名。銀座に「もなか」の老舗の空也があるが、六波羅蜜寺の空也とは、関係がないようだ。
- 2008/08/11更新
- 2008/08/11登録
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