コピペで綴る唯識論入門
現象学+構造主義=唯識論(全てはコト)などとテキトーなことを書いたときから、唯識論がずうっと気になっていた。
そんな時にたまたま「唯識の心理学」岡野守也を図書館の書棚で見つけて(久しぶりの)読書。唯識論入門を書ける気分になってしもうた。ただし、いま流行のコピペ(ちゃんと出所へのリンクはつけるぞ)利用して、書く労力を節約しようというケチな試みである。
さて、まず最初に、唯識論のエッセンス・キャッチ・コピー<八識 三性 四智 五位>を掲示しておこう。以下、このキャッチに従って展開する。
1.八識:心の三層構造
唯識論は心を次の三層構造として捉える。
①意識と五感(六識)
②マナ識
③アラヤ識
仏教は元来、六つの識をあげる。まずは眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(臭覚)・舌識(味覚)・身識(触覚)の五感のは働き(前五識)である。つづいて第六識意識は、推理・判断などことばを用いた思考作用あり、感情・意志なども含めたいわゆる「心」の働きである。しかし唯識は、さらにその深層に働く第七識の「マナ識」と第八識の「アーラヤ識」とを発見した。マナ識は潜在的な自己我執着心であり、アーラヤ識は、さらにその深層にあって以上のすべての識を生み出す根源的な識である。
唯識論の面白いところは通常一般的に云われる心(顕在心:①)の下に無意識の心(潜在心)を二層(②、③)用意したことにある。
末那識は、マナ識と表現される事がありますが、マナはサンスクリット語の"思量する"と言う意味の『マナス』が語源となっているそうで、何を思量するかと言えば、自分の得になること、自分を大切に思い量る心が末那識・マナ識です。無意識のうちに自分に執着していると言う喩えとして、集合写真を貰った時の行動がよく話されます。集合写真を貰ったら、誰でも先ずは自分がどう写っているかを確認します。これは、学校のクラス写真でも、家族写真でも、或いは恋人とのツーショットでも同じでしょう。これは、無意識のうちに末那識の働きが行動に表れている端的な例ですが、私達の総ての行動に同じ様に末那識が働いていると考えるのが唯識です。阿頼耶識も、アラヤ識と表現される事がありますが、アラヤは同じくサンスクリット語の"蔵"とか"蓄える"と言う意味の『アーラヤ』が語源だそうです。参考までに、有名なヒマラヤは雪と言う意味の「ヒマ」と「アーラヤ」が結び付いた名詞で、雪の蔵、と言う意味で『ヒマラヤ』と名付けられたようです。阿頼耶識が何を蓄えているかと言いますと、身口意(しんくい)と言う私達が経験した総ての事を記録して蓄えていると考えます。過去の記録と言いますと、私達がこの世に生まれる前、現代人に解り易く言うならば、DNAの遺伝子に情報として生命が生まれた30億年前からの記録も含めて、蓄えていると、唯識は考えます。従いまして、本能もそうですし、生まれつきの性格、素質も含むと考えます。現代では、DNAは30億文字分の情報を記録出来る、2メートルの長い紐(細さは、2ナノメーター)と言われていますから、阿頼耶識はDNAとか遺伝子に深く関係していると考えてもよいと思いますが、DNAも遺伝子の存在も分からなかった二千年前に、よくも想像したものと思わずにはいられません。
ということで、唯識が想定している心の三層構造を端的に表現すると、
①普通云われている心(六識)
②個人的無意識(潜在的自我)
③いのち(ホメオスタシスなど歴史的に蓄積された生命情報)
ということになろう。
2.三性:ものの見え方の三つの性質(世界の三様のあり方)
以上の八識のうち問題になるのはマナ識<個人的無意識(潜在的自我)>である。
唯識はこのマナ識が諸悪、煩悩の根源と見る。すなわち、もともと自然は一であるのに対し、自我にこだわるマナ識と言語とが相まって「言葉で語られ執着された存在」(遍計所執性:へんげしょしゅうしょう )を作出し煩悩を生み出すとする。
唯識派の功績は深層心を発見しただけではありません。もう一つの功績は、すべての存在を一度心の中に還元し、いまいったように「一体なにか」という追求心でもって、言葉に対応するものが本当に有るのか無いのかと静かにかつ鋭く観察し、そして存在は遍計所執性と依他起性と円成実性と呼ばれる三種のありように分類されるという三性説を打ち立てたことです。例えば深い眠りから目覚めるとき、自分で目覚めようと思って目覚めたのではありません。そしてそのときなにかが見えますが、それは自分が見ようと思って見るのではありません。見ざるをえない、すなわち自分ではない「なに」かによって「目覚めさせられた」「見せられた」というのが事実です。このように目覚めた瞬間の存在は、そして見るという心は自分とはなにか他の力によって生じたのです。このような他の力によって生じた存在に唯識派は依他起性と命名しました。この目覚めた瞬間の存在にはまだ名前がありません。だからそれは「の存在」と呼ぶことができるでしょう。その生の存在に対して次ぎに、例えば「自分は今日はなになにをしなければいけない」と考え、そこに「自分」というもの、今日という「時間」、なになにという「事柄」などを設定しその生の存在をいわば言葉で加工し、ときには「ああ、今日はそれをしなければならない、嫌だ」と悩むこともあるでしょう。このように「言葉で語られた存在」、しかも「執着された存在」、それが遍計所執性といわれるものです。最後の円成実性とは「完成された真実のありてあるままの存在」とでもいうべき存在です。本当に人間は一人一宇宙です。ふつう私たちは同じ空間に一緒に住んでいると思っていますが、これも大きな思い間違いです。静かに考えてみると、私たち一人一人は「“自分”という牢獄に閉じ込められた囚人のようなもの」です。だれ一人この自分という存在、心の世界、宇宙の外に抜け出した人はいません。そして一人一宇宙の世界の中で、あれを考えこれを思って苦しみ悩み、ときには罪悪をも犯してしまいます。この悩み苦しむ心の中からすべての汚れ、執着、煩悩、恐怖などを取り除き、あたかもすべての塵を払拭した清浄な大きな鏡のようになった心、それが円成実性といわれます。このように唯識思想は存在を三種に分け、そしてすべての存在を心に還元して、まずは「言葉で語られ執着された存在」(遍計所執性)から脱却して「生の存在」(依他起性)に返り行き、その生の存在から汚れを次第に払拭して最後に「あるがままにある存在」(円成実性)に辿り着くことを目的とする実践的な教理であります。
もともと存在は一(アラヤ識:蔵)。ところが、依他起性(えたきしょう)によりたまたま生じた自己がマナ識(思量)と言語(概念)によって「“自分”という牢獄に閉じ込められた囚人のようなもの」自己自身(遍計所執性)を形成する。この牢獄から解放されて「あるがままにある存在」(円成実性:えんじょうじっしょう )に到達するべしと唯識は主張するのである。
3.四智:八識が転換して四智を得る事が覚り。「転識得智(てんじきとくち)」
このように、遍計所執性(囚人)が円成実性(あるがままにある存在)に転換する際には八識も四智に転換する。これを転識得智(てんじきとくち)という。
意識 →妙観察智(みょうかんざっち)(阿弥陀如来の智恵)
その時その場にふさわしい事を成し遂げる智慧
前五識 →成所作智(じょうそさち)(不空成就如来の智恵)
全ては一体であるが、現れの上で仮に分かれているということを観察・洞察できる智慧
マナ識 →平等性智(びょうどうしょうち)(宝生如来の智恵)
皆が等しく一体で自分と他人を区別しない心
アラヤ識→大円鏡智(だいえんきょうち)(阿如来の智恵)
全てが一体である宇宙のあるがままを感じる心
「平等性智」と「大円鏡智」の二つは、<意識>の海の「全体」としての働きをいっている。それに対して、「妙観察智」と「定所作智」の二つは、<意識>の海が「個」において作用する働きに注目している。
すなわち、潜在心(マナ識、アラヤ識)は「宇宙のあるがままを感じ、自他を区別しない心」に転換し、顕在心は個々の状況に応じて見るべきものを見、観察・洞察する智慧とその時その場にふさわしい事を成し遂げる智慧を身に着けるということである。
おいおい、そんなことができるのかなとどは思わないこと。
4.五位:凡夫→菩薩→仏という成長の段階
「わかる唯識」を読んだ。今後の復習のため、内容をまとめておく。から五位のステップを拝借する。
資糧位 しりょうい 修行の旅の資金や食料を準備する段階
加行位 けぎょうい 実際の修行を加えていく段階
通達位 つうだつい 覚りの第一歩に到達した段階
修習位 しゅじゅうい いっそう修行し習って身につけていく段階
究竟位 くきょうい 究極の段階
仏に到達するためには、理論だけではなく修行が必要なのは当然、しかし、修行に俺の寿命内でたどりつくかどうか甚だ疑問なので、ここは言葉を羅列するのみに留めて置くのがいまのところ、妥当だろう。
以上、コピペで綴りはしたが、結構、時間を要したし長文になってしまった。。しかし、<八識 三性 四智 五位>をしっかりと心に刻み込むことができたのは収穫である。最後に、唯識のエッセンスを端的に表現した文章に出会ったのでコピペする。諸法無我人人唯識諸行無常。
仏教の考え方の基礎は、この世界の全存在は縁起、つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える(諸法無我)。唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考えるのである。一人一人の人間は、それぞれの深層心である阿頼耶識の生み出した世界を認識している(人人唯識)。他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(倶有の種子)が存在するからであると唯識では考える。このような識の転変は無常であり、一瞬のうちに生滅を繰り返すものであり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく(諸行無常)。
5.結論(唯識は心の非実体化モデルである)
心の自然的社会的還元(心の場所化と呼ぼう)が現代哲学の目指すべき方向と非学ながら不遜にも考えているのだが、唯識をそこに位置づけると心の場所化(非実体化)モデルということになるだろう。かくして、俺は唯識モデル構成主義的唯物論者である。人間は確実にいつか死ぬ、死んだらタダのゴミ(唯物)は生きている間は唯識→四智なのだから。
- 商品名: 唯識の心理学
- 価格: ¥2,310
- 著者: 岡野 守也
- 出版社: 青土社
- 発売日: 2005-04
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- 2008/09/24更新
- 2008/09/24登録
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