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「磯崎新の<都庁>」 平松剛著

 わたしにとって磯崎新は、それこそジャン・リュック・ゴダールやジル・ドゥルーズに匹敵するほどに、あるいはそれ以上に、圧倒的な影響を受けた人物であり、しかもわたしが、建築学科の学生だったころこそが、磯崎の、まさに、全盛期でもあったのだ、だからそれこそ、ほとんどスーパースターのように、あの頃、わたしは、磯崎に、憧れ続けていたほどだったのだ。そんなわたしからみても、磯崎の都庁落選案は、特別なプランだったのだ。ある時、六本木ヒルズが完成した際に、ある若手建築家が、六本木ヒルズのことを、まるで遺跡のようだ、と、発言し、物議を醸したことがあったのだ。つまり例え、それが、あたらしい建物であったとしても、出来たての建物であったとしても、そのコンセプトが、古くさかったならば、それは、もはや、生まれながらにして、遺跡でしかないではないか、という意味で、彼は、六本木ヒルズについて、まるで遺跡だ、と、発言したようなのだ。そしてわたしも(彼とほぼ、同世代のわたしも)、かれの発言に、素直に、同意したものだった。わたしたちが学生だったころに、まさに、夢想していたような、コンセプトの集積が、六本木ヒルズであったし、だからそれは、一周遅れの、新しさにすぎなかったし、しかもまた、その出来栄えは、みじめなほどに、考えが浅く、その底の浅さは、耐えがたいものでしかなかったのだ。というのも、われわれとしては、磯崎新の新東京都庁案という、すさまじいお手本を、すでに、目の当たりにしてしまっているのであり、だから似たようなコンセプトとして、いまさら、「六本木ヒルズ」をみせられても、「そりゃあねえだろ」、ということに、なる他ないのだ。わたしたちには、やはりあれは、遺跡にしか見えないのだ。東京という、建築家にとっては、それこそ鬼門のような都市で、そのあまりに過剰な、物と人とお金の動きのなかで、一個の建築など、あまりにも、東京では、存在が希薄である他ないのだ。というか、存在が希薄であるどころか、いずれ壊されることを前提に、あらゆる建物は建てられているほどなのだ。だから建築家たちは、東京に魅了されながらも、しかし同時に、東京という都市に、憎しみを、いだくほかないのだ。東京は、輝かしい成功の場所、というよりも、闘うべき相手、と、なる他ないのだ(心ある建築家にとっては)。そのような東京と、対峙した際に、東京という過剰な都市の中に、小さな都市を埋め込む、という建築イメージは、どんな馬鹿な学生でも、ついつい空想してしまいがちな、イメージであったのだ(つまり東京と闘う闘い方としては、小都市を埋め込む、という建築イメージは、まず最初に、誰の頭にも、浮かび上がりがちなものなのだ)、だからさまざまに、その手のイメージを、学生たちは、描きはするのだが、しかしむろん、そうそう良きイメージを、学生ごときが、描けるわけもなく、だから学生たちは、必死に、そのようなイメージを、描きながらも、いつも不満足を感じる他ないのだ、ところがそんな最中に、唐突に、あの頃、現れたのが、磯崎新の、新都庁案だったのだ。難しい・分かりにくい・取っつきにくいというイメージを、あの当時から、いだかれていた、磯崎新ではあったが、しかしあの当時の、どんな馬鹿な学生でも、新都庁案の、あの斬新さばかりは、すぐに、納得出来たのではないだろうか。だれもが息をのんだのではないだろうか。そしてわたし個人としては、茫然自失し、あっけにとられ、すっかり魅了されてしまっていたほどなのだ。わたしが磯崎に本格的に「惚れた」のは、たしか、新都庁案が、きっかけだったと思う(はっきりしないけれど)。しかもこの都庁案が落選し、「あんなモノ」が通ってしまうのだから、わたしとしては、世の不条理さに、本気で、ジタンダを踏んだのも、この事件が、最初ではなかったか、と、今では思われるのだ(これもまたはっきりしないけれど)。そんな新都庁案をめぐっての一冊の書物が、<磯崎新の「都庁」>。 しかしそうは言うものの、この本は、なにもマニアックに、かつアカデミックに、磯崎の新都庁案の凄さを、こわもてに、語るのではないのだ。むしろ、新都庁コンペという事件を取っかかりにしながら、磯崎新をめぐって、(ひとりの興味深い建築家めぐって)、建築をほとんど知らない人にこそ向けて、さまざまな建築的事柄が、語られていく、そんな、書物なのだ。都庁コンペの経緯や、磯崎事務所のエピソード、磯崎の人となり、その生い立ち、そして磯崎新の建築論などなどが、それらさまざまな内容が、なかなか分かりやすく、というかむしろ面白おかしく、素人さんにこそ向けられつつ、この本では、語られているのだ。なかなかたのしい本になっている。磯崎アトリエ出身の、建築家青木淳は、いまでは、ちょっとした、売れっ子建築家だが、ところがこの本では、ほとんどおとぼけキャラのように描かれている。しかし無論、それは、青木淳が、ほんとうに、おとぼけキャラである、ということではなく(ということではないとおもうのだが)、おそらくは青木淳自身が、みずからのエピソードを、そうとう面白可笑しく、作者に、語って上げた、ということなのだろう、しかしこの本で、あえて、強調されている、青木淳の、磯崎新に対しての、そのオロオロぶりは、磯崎新というひとの、独特のオーラを/独特の偉さを、結果として、表現する、という仕掛けと、なってはいるのだ。

<その後もさらにトラブルは続いた。建具のとびらを開こうと夫人が取っ手を引っ張ったときのこと、建具本体がぱたっと倒れてしまった。
「青木さんを呼んで!!!」
磯崎親分は当初、「俺は施主じゃないからねえ」と知らぬ顔を決め込んでいた。施主は愛しくもありまた恐ろしくもある妻なのだ。けれどもこんなことが何度もくりかえされた後のある日、とうとう「青木ちょっと来い」と親分に呼び出された。
「おまえ、結局、これ、どうなっているんだ?」
しょんぼり青木は報告する。
「そうか」
と親分は返事をしたきりだった。
「あのとき、もうほんとうに磯崎さんは内心怒ってたんだとおもうなあ、そのあとずっと口聞いてくれなくなってしまって」
 刑はどう荒れ、親分から担当を命じられた以上、責任は青木淳にある。その後、仕事もあまりあたえられなくなり、なんだかアトリエで干されてしまったような形になった。>
<このアトリエでは親分からクビを言い渡されることはまずない。仕事をこなせない者は、自分でそれに気付き、自分から辞める旨を申し出なければならない。
「たしかになあ、事務所言っても暇だしなあ、とかって、そう思ってたのね。だから、なんか、ますます磯崎さん、恐いわけね」
青木淳が肩身の狭い思いを抱えているなかで、1985年11月、始まったのが、新都庁舎コンペだった。
 青木淳は辞めなかった。
 そして不思議なことに、コンペのコアスタッフに加えられたのである。>

 この本では、磯崎新は、アトリエ内での、関係のなかでは、一貫して、「親分」という名称によって、作者に、書かれているのである。それはなかなか的確かもしれない。

<ニューヨークのディスコ・パラディアムも、磯崎親分があっさり仕事を引き受けてしまったわけだけど、この施主、スティーブ・ルベルにイオン・シュレーガーの二人組がまたやっかいな相手で、渡辺は手こずることとなった。設計がとうに終わり工事が進んでいるのに、ちっとも設計料を払おうとしないのである。会うたびに渡辺は話を持ちかけるのだが、スルリとかわされてしまう>
<今回渡辺がロサンゼルスへ飛ぶのもプロジェクト・マネージャーのほうの仕事である。ただし、海外出張へ出かけたきり、なかなか日本へ帰って来ない磯崎親分とちょうどMOCAの現場で落ち合う予定だから、そのついでに都庁コンペのボリューム・スタディの途中経過も報告することになった。
 コアスタッフたちは仕事の手を休めて下馬評に忙しい。はたして、超高層一棟案、超高層二棟案、低層案の三種類のうち、磯崎親分はどれを選択するだろうか。いつものようにお茶をのみながらワイワイ井戸端会議をやるのである>

 この頃は、まさに磯崎が世界的にスケールアップしていく時期であり、だからそのへんのエピソードも、ちらちらあって、興味の在るひと(例えばわたしとか)にはなかなか面白い(面白かった)。そしてまた、磯崎の、結構きっちりした建築観も、この本には、かなり分かりやすく書かれているところも、なかなか親切だ。

<「東大寺南大門は、わたしが文句なしで感動するただひとつの日本の建築だ。イセにも、カツラにもみられない、構築力が漲っている」
 東大寺といえば普通は大仏殿、あの巨大な銅製の大仏を収める世界最大の木造建築を思い浮かべるだろう、南大門はその大仏殿から三百メートルほど南にドカンと突っ立ているたんなる門にすぎない。しかし磯崎はいう「わたしは大仏殿にはまったく動じないのに、半分の高さしかないこの南大門だけは圧倒され続けた」>
<平安時代までの日本の建築は総じて「和様」とよばれている。飛鳥・奈良時代に中国や朝鮮など大陸から輸入された剛直な様式が日本人の繊細な感性に合うようにしだいにおとなしく変化していったものだ。その典型例が10円玉の絵柄にも使われ宇治平等院鳳凰堂で、優美で華麗な造形に落ち着いたのである。しかし平安から鎌倉へ、つまり帰属から武士の時代へのちょうど変わり目である革命期に重源が築造した東大寺の建物は、そんな感性からかけ離れた、じつに無骨なものだった。
 学生時代の磯崎には、いったいどうしてこんな空前絶後の破天荒な建築が生み出されたのか、よく分からなかった。しかしこれもまた実は無残極まる焼け跡にたち上げられた物だったのである。>

 しかしいまさら東京オリンピックなど、都市論的にも、国家論的にも、ナンセンスでしかないだろう。そもそも石原都知事は、「無駄な高速道路」の建設には、一貫して、反対しているのだ(わたしも、都知事の、その意見には、賛成だ)、したがって、だとするのなら、東京中心の開発は、自粛するのが、政治的筋であるはずなのだ(道路はつくらないけれど、しかし開発は東京中心というままでは、それこそ、アメリカが、核拡散には、めくじら立てるが、しかし自らの核削減には、じつに不熱心という、いかにもご都合主義的な、アメリカの、核論理と、同様に、いかにも一方的な、道路論と、それはなりかねないのだ、つまりアメリカの核論理が、結局は、核の独占しか、意味しないのと同様に、石原都知事の、道路論は、東京中心の開発を、自粛しない限り、東京中心主義への、居直りを、結局は、意味してしまいかねないのだ)、ところがわざわざ、東京オリンピックなどを、突発的にたちあげ、その結果、計画的に、それなりに進められていた、福岡オリンピックを(地方の挑戦を)、あえて、つぶしてしまうのだから、石原都知事の、政治的スタンスの、支離滅裂ぶりは、明らかなのだ。東京オリンピックの、石原/安藤コンビに、つぶされた、福岡オリンピックの、総合プロデューサーは、実は、磯崎新なのだ。すでに明らかなように、新都庁コンペでは、磯崎新は、鈴木都知事/丹下健三コンビに、「虐殺」され、あげく、あのような、なんら意味のない、都庁が、できてしまったのだ(今さら、権力の象徴というのも、威圧的というよりも、ひたすら分裂的/独りよがりに過ぎず、そういう意味では、権力の象徴としてすら、ほとんど、あれは、お寒いほどに、無意味でしかないのだ)。あんなものを、結局は、あのコンペによって、実現してしまい、そしてその犠牲になったのが、あのすばらしい、磯崎のプランだと思うと、その理不尽さは、計り知れないものではあるのだ。しかし実は、その十数年ほど後には、磯崎は、ふたたび、東京に(今度は、石原・安藤コンビに)、オリンピックをめぐって、またしても、「虐殺」されることとなるのだ。北京オリンピックにおいての、その中国の行政や政府の、さまざまなずさんさ/さまざまな酷さなどよりも、わたしとしては、極めて深刻に、それを受け止め、これはヤバいと、北京オリンピックにおいて、心底思ってしまったのは(わたし自身は、「親中派」ではあるが、しかしそのわたしをもってしても、これはヤバいと、思ってしまったのは)あの北京オリンピック開会式の、見事な「成功」ぶりなのだ。つまり中国政府の、ファシズムの力によって、商業主義とハイテクノロジーと全体主義を、実に、ハイレベルに、融合させた、あの「見事な」、エンターテイメント/北京オリンピック開会式は、最終的には、よりによって、「子供たちの笑顔」「世界の理想」というような、まったく無意味な、独善的肯定性を、ド派手に、たちあげ、しかもその見事な、エンターテイメントとしての、成功ぶりをもって、各国首脳が、手をたたき、中国の、国際デビューに、お墨付きを、あたえてしまった、という事態が、あのとき、世界的に、生じてしまったのだ。したがってこの事態は、北京オリンピックという輝かしい舞台の、その陰に隠れた、大矛盾を(「子供たちの笑顔」どころではない、中国の、生々しい、大矛盾を)皆で忘れたふりをすることが、それなりに「正しい」と(現実的であると)、国際的に、みなしてしまった、ということになってしまうのだ(実際、北京オリンピックによって、チベット問題は、むしろ、ぶっとんでしまった)。むろんたしかに、中国国内の、大矛盾が、北京オリンピックごときで、あの開会式程度で、まったく、見えなくなる、ということは、在り得ないだろう、それは今後も、世界的問題であり続けるだろう、しかしその大矛盾を、それこそわれわれのご都合主義において(中国は大国だし、経済的にも重要であるし、という、われわれの、ご都合主義において)、皆で、すすんで、それを忘れたふりをすることにともなう、良心の呵責が、あの開会式の、成功によって、希薄になってしまったのならば、そのような大衆的メディア的雰囲気が、強くなってしまったならば、そのことが、政治的に、きわめて危険であることは、いうまでもないだろう。つまりあの政治色のきわめて薄い、エンターテイメントにおいて、戦略的に、あからさまに、意図されていたこととは、まさに、その「政治の消去」にほかならないのだ。つまり政治的に問題多い大国という、一般的なイメージを、世界的なメディアレベルで、払拭することが、あの政治色の希薄な、独善的な/大げさな、あのエンターテイメント/開会式の、政治的意図だったのだ。政治の消去こそが政治的に意図されていたのだ。しかもその政治的意図に、多大な力を与えてしまったのが、そしてもののみごとに、その意図を、成功に、導いてしまったのが、ハイテクであり・エンターテイメントであり・商業主義であり・あるいはアートの諸成果であり、そして無論、マスメディアでもあったのだ、したがって、まさにこのことは、われわれの、自由主義の、さまざまな諸成果が、もののみこどに、ひっくり返され、使われている、というこなのだ。つまり自由の抑圧を、見えにくくさせるための道具として、自由主義の諸成果が、ここでは、あからさまに、使われている、ということなのだ(「子供たちの笑顔」というのも、いかにもわれわれが、のんきに、好んでいるところの、ペラペラな、白痴的な、メディアイメージでしかないのだ)、しかしだとするならば、あの開会式は、ヒトラーの、かつてのオリンピックの、狡猾な、かつ洗練された、パロディーであるとしか、言うほかないのだ。ヒトラー無き時代においての大衆の純然たる堕落。もしくは純粋なるファシズム/ソフトケイトされた超ファシズム。あるいは自由主義のアイロニカルな自滅。わたしとしては、そのようなこととして、あれはヤバいと、危惧しないでは、いられなかったのだ。そしてそんな北京オリンピックからの招待を、かの石原慎太郎都知事様は、受け入れたのだ。東京オリンピック実現のためにこそ。総合プロデューサー磯崎新が、構想した、福岡オリンピックは、北京/あるいは石原が、妄想するような、二十世紀型オリンピックとは、一線を画すものなのである。おそらくは、北京を、ライバル視しているのであろう、「石原オリンピック」が、八年後に、東京で、開催されたとしても、もはや、まったく、意味不明なものにしか、それはならないだろう。なぜならそこにはなんら必然性はないのだから。それはそれは、古い日本の、どす黒い夢にしか、すぎないのだから。しかしもしも、福岡オリンピックが、八年後に、実現していたのならば、北京オリンピックが、集大成したところの、二十世紀型オリンピックへの、直接的な批判と、それは、なりえたかもしれないのだ、そんな可能性は、福岡オリンピックには、充分に、あったはずなのだ(福岡オリンピック構想概要その一、その二)。そしてそのことにおいて、日本は、二十世紀においての、近代国家の生成という、かつての歴史的歩みから、一歩、抜きんでた、ということにも、なりえたかもしれないのだ。中国の現在の好調は、しかし未来の、いずれやってくる、近代国家の限界に伴う、停滞の可能性を、すでにかかえこんだ、初期的/中期的好調であり、しかし日本の、現在の停滞とは、近代国家の歴史においての、その末期に至った上での、あらたなビジョンが望まれているところにおいての、そのための、停滞なのだ(だからあらたなビジョンが、うまれなければ、ほんとうに、日本は、沈没しかねず)、ところが、北京に、自意識過剰な、都知事様が、突発的に、思いついてしまった、東京オリンピックという、どす黒い/古い夢とは、所詮は、二十世紀型オリンピックの、間抜けな、パロディーでしかないであろう(安藤忠雄!)、しかもそのうえ、そこには、必然性が、ないのだから、その分、ことによったら、北京よりも、みじめなものに、「東京オリンピック」は、なりかねないのだ。ところがその程度のものによって、福岡という、あらたなビジョンこそが、(少なくとも新たなビジョンになりえる、可能性があった、アイデアが)つぶされてしまったのだ。そしてそれは、前記したように、都庁コンペにおいても、まったく、同じことだったのだ。東京とは、どのような都市なのか、そしてどのような都市としてあるべきなのか、そのための、もっとも優れた、具体的イメージが、磯崎新の、新都庁案だったのだ、ところがそれも、おじいさんたちの(鈴木と丹下という、大阪万博コンビの、おじいさんたちの)古い夢によって(都庁と都市博で、「あの夢をもう一度」、という古い夢で)、虐殺されてしまったのだ。磯崎新は東京によって二度殺されたのだ。そしてそのことが、時代を、いかに停滞させたか、計り知れないほどなのだ。しかしその失政に、気づいている者が、どれほどいるだろうか。それが、失政であった、ということすら、実際には、自覚されてはいないのではないだろうか。しかしだとするならば、それでは、ほんとうに、お先真っ暗、というほかないのだ。


<やがて戦後民主主義を反映して、高校には生徒の自治委員会が造られた。磯崎は高校二年生の後期から会長を務め、その後を赤瀬川準彦(後の作家赤瀬川準)が受け継いだ。
 自治会は、校内からの暴力追放、あるいは長髪許可キャンペーンなどに取り組んだ。>
<しかし、当然、学校側としては、面白くない。段々自治委員会は反乱分子として睨まれることになった。
 事件が起きたのは、秋、文化祭の終わった夜である。
 その日、磯崎や赤瀬川たちイタズラ好きの有志のメンバーは創作演劇を上映した。それは、「修善寺物語」を演目に選んだ演劇部の正当に対する異端を意識した芝居で、若い男女のロマンチックな恋愛を悪魔の親玉とそのいたずら子分がぶち壊し、あわれ二人は、あの世でしか結ばれない、という筋立ての物語。台本は赤瀬川準彦と友人田原茂行の共作で、磯崎が一応演出を務めた。磯崎は当時「谷崎潤一郎が面白い」と初期の悪魔主義の作品にこっており、みんなにも勧めて回っていたから、そんなことも影響して悪魔の話になったのかもしれなかった。
 その夜、自治委員会のメンバー七、八人がひそかに長浜神社の境内に集まった。高校生活最後の文化祭の成功を祝うためだった。気分は最高潮。ひとりが用意した酒をみんなで回し飲み。実際に口に含んだのはほんの少量だったけれど、なれないもので全員たちまち真っ赤になった。やがて肩を組み「インターナショナル」の合唱が始まった。
 と、その時である。突然、高校の風紀取り締まりの担当教師が姿をあらわした。日頃自治委員会を目の敵にしている人物だった。
「一人ずつおれの前で息を吐きだせ」
現場を押さえられてしまったわけである
「あろうことか、神社で酒気を帯び、左翼の歌を放歌高吟したていた」
ありにも見事な登場のタイミングから察するに、どうやら密告者がいたらしいのだが、もはや後の祭りである。翌日、磯崎たちは、校長から登校禁止、謹慎一週間の罰を言い渡された。謹慎中に磯崎は、こんどこそ本格的に酒をあおったのだった。>

 本質的には、古典主義的であり、しかもアカデミックですらある、「取っつきにくい」、磯崎新ではあるが、しかし磯崎の、ラディカルな構えにも、まったく嘘はないのだ、むしろ、それも、磯崎の素質と矛盾することのない、まったくの本質なのだ。神無き時代の建築においての、<建築の無根拠性>とは、即「建築の危機」を意味する他なく、だから、多かれ少なかれ、神無き時代を生きる建築家は、闘争的に、ならざるをえない、ということを、明解に、自覚しているのは、いまだに、磯崎新だけではないだろうか(実は、ああ見えて、黒川紀章にも、そのような危機への自覚が、ないわけではなかったのだ。たしかに失敗作の多い、黒川ではあるが、しかしそう簡単には、きって捨てれない、強靱さが、黒川には、ないわけではないのだ。最近の、ひたすら上手な、若手の、頼りなさとくらべると、黒川には、なにかしらの必然性が、そしてその必然性からくる強靱さが、感じられはするのだ。無根拠故のメディア戦略、という自覚は、黒川にはあったであろうと、おもわれるのだ)。ほどほどに器用で、それなりに優秀な、最近の若手建築家たちに、決定的にかけているのは、「建築の危機」という、その危機への不可避性への、歴史意識の、希薄さなのだ。彼らはあまりにも、楽観的にすぎるのだ。若手建築家たちは、それこそ、売れっ子デザイナーという、スターシステムを、あまりにも容易に、受け入れすぎていて、だからそれこそ新しいイメージを作り上げ、「売れっ子」になれれば、それで充分、というような、あまりにも、「いい子」な、建築家ばかりが、目についてしまうのだ。神無きこの時代に、しかも国家すら、表象の対象にならない、この時代に、はたしてなぜ、建築なんていうものが、可能なのか/ありえるものなのか、そのことについての、歴史意識/危機感が、彼らには、あまりにも、希薄に過ぎるのだ。したがってそのような現状にあっては、あいかわらず、磯崎が(そしてフランク・ゲーリーが)、そのラディカルさにおいては、いまだに、抜きんでている、というほかないのだ。とても残念なことではあるがそれが現実ではあるのだ。

「磯崎新の<都庁>」 平松剛著

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room9

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