バラク・オバマ
今目の前に在る、経済危機とは、経済の問題というよりも、近代国家の問題と、みなしたほうが、正しいだろう。世界経済そのものは、人がどうなろうと、資本の自己増殖を、つづけていくだろうが、そしてそれは、自然には、そうそう止まる物ではなく、だから時間が進む限り、とりあえず、続いていく他ないであろう。資本は、おのずと、自己増殖をつづけようと、志向するが、しかし近代国家とは、必ずしも、発展し続ける、とは、かぎらないのだ。というか、近代国家において、「発展」という目的が、妥当するのは、むしろ、例外的なことであったのだ。近代国家は、常に、「発達」するものではなく、いずれは、完成するものなのである。しかし近代国家が、完成する以前では、近代国家は、おのずと、「発展」を目的とするし、だからその「発展」のプロセスにおいては、(資本の自己増殖という)資本の「本能」と、近代国家のその「目的」が、合致しえる、ということなのである、だからそのプロセスにおいては、資本と国家の、一種の、蜜月関係が成立しえた、ということなのだ。しかしそれは、むしろ、例外的な、一時期にすぎなかったのである(二十世紀とは、そんな例外的な、一時期にすぎなかったのである)。いずれ、近代国家も、完成するのだ。そして完成した後には、完成に至るまでの、「発展」のプロセスとは、まったく違ったロジックが、近代国家の内部で、さまざまな次元で、組み立て直されねばならないのだ。今叫ばれている、シフトチェンジとは、まさに、この部分で言われている、チェンジなのである。つまり近代国家という装置が、完成した後において、この装置を、いかに使いつつ、わたしたちは、いかに生きていくべきなのか、と、そのための、一般了解が、いまだ、未成立であること、そのことが、今ある、わたしたちの、目の前の、危機なのである。だからいまこそ、力が漲らないようでは、話にならないのだ。なぜならわたしたちの、自由の成果が、近代国家が完成した、今こそ、試されているのだから。世界経済のバブルは、確かに、はじけたが、だから世界経済の、発達モデルは、もはや、通用しないが、しかし等身大の、世界経済は、残っているし、ましてや、文化や文明に至っては、近代国家の成立の過程で、さまざまな諸成果を、人類は、さまざまに、作り上げてきたのだ。そのすばらしい成果は、目の前に、みてのとおり、残っているのだ。百年前の、危機は(世界恐慌は)、たしかに、世界全体を、機能不全に、いたらしめたが、しかしあれは、近代国家の、立ち上げにおいての、まだまともな成果がなかった時期においての、近代国家の、初期不良であり、だからこそ、その後には、中央集権的な、国家の力が、その反動として、強まらざるをえなかったけれど、(発展初期なのだから、中央集権化には、必然性があったのだが)、しかし今回の危機は、近代国家/世界経済の、完成に伴う、「シフトチェンジ」に付随する危機であるのだから、(だからそういう意味では、たしかに、「未曽有」ではあるものの)、しかしその「危機」が、意味するところは、かつての危機と今回の危機では、まったく違っているのである、だから中央集権的な力を、今回の危機においては、強めようはないし、(近代国家は、完成したのだから、もはや、中央集権化には、必然性はなく)、むしろ、その逆が(脱中央集権化こそが)、もとめられているのである。そもそも「自由」という概念を、至上の価値としているにもかかわらず、一般的なイメージによって(「年収」とか「家柄」とか「社会的地位」などの、一般的なイメージによって)、「わたし」の価値を、みたうとすることに、そもそも、「わたし」たちの、激烈な、破綻があったのだ。しかし二十世紀の、自由主義は、その破綻を、成長経済というロジックと、中産階級という文化制度で、(国家の発展というかりそめの目的を使いつつ)、巧みにごまかし、ここまで、やってきたのである。しかしもはや、成長を原動力にできないのだから、「発展/目新しさ(流行)」を価値としつつ、それをエサにして、中産階級を大きくしていくという、いままでの方法は、もはや、うまくはいかなくなったのである。発展というかりそめの目的によっての、「中央集権制」は(心的実体としての、中央集権制は、つまり進取の精神という「道徳」は)、もはや、無条件には、良きこととして、成立しないのである。しかし自由を、大胆に、受け入れながらも、「イメージ」によって、わたしの価値を、満たそうとしていたことに、そもそも、かなり無理があったのである、だからその無理が、ここにきて、あからさまに、露呈しはじめた、というこなのである。自由主義の、そもそもの条件としてある、ニヒリズムが(意味も目的もないというニヒリズムが)、あからさまに、ここにき、露呈してきた、というだけのことなのである。たしかに「三冠王」を獲った、名打者においては、その過去の「栄光」は、名誉であろう。しかし今この打席で、(彼がかつて三冠王を獲ったからといって)三振しても良い、というわけではないのだ。あくまでも、過去の栄光は過去の栄光として(当然)カッコにくくりつつ、三冠王たるかれも、この打席に、彼のすべてを、集中するはずなのである。つまり「三冠王」とは、かれに与えられた、「イメージ」に過ぎず、たしかにそれは、かれにとって、心地よい「イメージ」であろうが(拠り所にもするであろう)、そしてもちろん、実体のある「イメージ」でもあろうが(嘘偽りのない名誉であろうが)、しかし彼の存在とは、まさに、いまこの打席で、彼が向き合っている、次の一球との、関わりであって、だから今ここでのその存在の真剣さからみれば、「三冠王」という過去の栄光など(「イメージ」など)、なんの役にも立たたないのである。つまりスポーツ選手とは、たとえ、偉大な名打者であろうとも、つねに、なんら誤魔化しなく、自由を、ひとつの絶対的な挑戦として、強いられているのである。過去は、確かに残るが、しかも正しく残るが、しかし未来は、常にやってくるのである、だから三冠王たる彼とて、あらたなる今において、ふたたび、ゼロから、自由という挑戦を、はじめることになるのである。スポーツ選手のように、常に、過酷な自由に、試されつつ、そしてそのなかで、その自由という挑戦と、誤魔化しなく、向き合う、その在り方を、ニーチェは、高貴さ、とよんだのである。「イメージ」をもって、みずからのアイデンティティーとみなすことは、誰にあっても、避けがたいことではあろう(それを捨て去ることはできない)、しかし自由をこそ、わたしであるための、最低条件と、みなしているのだから、そのアイデンティティーは、今ここの現場においては、常に、カッコにくくられねばならないのだ(くくる他ないのだ)、だから簡単に言ってしまえば、アイデンティティーとは、不可避ではあるけれど、しかし絶対に不可能でもあり、つまりアイデンティティーに、自足しすぎて、「勝った」と思い込みはじめたその者は、まさに、そのとき、「負け」はじめているのである、つまりイメージ的に、たしかに、彼は、「勝ち」にみえたとしても、しかし自由の現場においては、(イメージに自足しすぎはじめたそのとき)、その者は、まさに、負けはじめているのである。高貴さから逃れることは、自由を肯定する以上、絶対に、誰にもできないことなのである。自由を受け入れ、わたしであろうとする、あらゆる者たちにあっては、高貴であることとは、絶対に避けがたい、倫理なのである。そしてバラク・オバマが、「yes we can」、と、肯定する、わたしたちにできるそれとは、まさに、高貴であることにほかならないのだ。バラク・オバマは、高貴であるべきだという倫理をとき、また、実際、われわれは、常に、高貴でありえたのだ、と、人々にむけて、あらためて、喚起しようとするのである。
バラク・オバマは、勝利演説で、以下のように語った
<今回の選挙では、何世代にもわたって語り継がれるだろう初めての出来事や物語がたくさんあった。しかし今夜、私の頭に浮かんでいるのは、アトランタで投票したある女性のことだ。彼女は、ある一つのことを除いて、自分たちの声を届けようと投票所で並んだほかの数百万の人々と変わらない。彼女--アン・ニクソン・クーパーさんは106歳だ。
彼女は奴隷制度時代のわずか一世代後に生まれた。道に車はなく、空に飛行機はない時代。彼女のような人が二つの理由で投票することができなかった時代。その理由は、女性であるということと、肌の色だった。
そして今夜私は、米国の1世紀の間に彼女が見てきたすべてのことに思いをはせる。その心痛と希望、戦いと進展、「我々にはできない」と言われていた時代、そして米国の信念を断行した人々のこと。そう、「我々にはできる」ということを。
女性が声を上げられず、希望が打ち砕かれた時代を彼女は生き抜き、女性が立ち上がって声を上げ、投票によって自分たちの声を届けようとする姿を見た。そう、我々にはできる。
彼女は(1930年代に米国を襲った)砂嵐や、大恐慌(1929~)で国中が絶望した時にも、ニューディール政策で新たな雇用や新たな共通の目標を作り出し、国が恐怖に打ち勝つ姿を見てきた。そう、我々にはできる。
爆弾が我々の湾に落ち、専制政治が世界を脅かしたが、ある世代が立ち上がり、民主主義が守られるのを彼女は目撃した。そう、我々にはできる。
(黒人解放の契機となったアラバマ州)モントゴメリのバス(ボイコット運動)も、(警察がデモ隊を消火ホースによる散水で抑圧しようとした同州)バーミングハムのホースも、(参政権を求める黒人が州警察などに暴行を受けた同州)セルマの橋も、彼女は知っている。アトランタから来た(キング)牧師の「我々は勝利する」という言葉も彼女は聞いた。そう、我々にはできる
人類が月に到達し、ベルリンの壁が崩壊し、世界は我々の科学と想像力によって結ばれた。そして今年、この選挙で、彼女は(電子投票機の)画面に指が届き、1票を投じた。なぜなら106年後の米国で、一番良い時と一番悪い時を通じ、米国は変われると知っているからだ。そう、我々にはできる。
アメリカよ、私たちはここまで来た。多くのものを見てきた。しかし、やるべきことはまだたくさんある。だから今夜、自分たちに問いかけよう。我々の子どもたちが来世紀を見、私の娘たちがアン・ニクソン・クーパーさんのように長生き出来たら、彼女らはどんな変革を見るだろうか。我々は、どんな進歩を遂げているだろうか。
今は、その問いに答える機会だ。これは私たちの瞬間だ。>
すばらしい「発展」のために貢献した、かつての「わたしたち」に、感謝の念を捧げよう、ということでは、まったくなく、かつての「わたし」たちは、実に見事に、高貴でありえたのであり、それを証拠に、いまのわたしたちの、諸成果があるのであり、そして現在のわたしちも、すでに充分に、高貴でありえているのだ、百六歳の、アン・ニクソン・クーパーさんと、同様に。
この演説で、卓越しているのは、いうまでもなく、アン・ニクソン・クーパーというひとつの名前であり、このひとつの名前が含まれることによって、「一般」にむけて、「一般的」に語られがちな、政治的演説を、「一般」を超えた、「あなた」にむけて語られた、歴史的な言葉に、かえているのである。政治家が、ましてや次期大統領が、「アメリカ」の歴史を語れば、それはおのずと、一般的なアメリカ史になってしまいかねないが、しかしアメリカとは、自由を至上の価値としているのであり、そして自由とは、個々に高貴であることを強いている限りにおいて、真に自由といえるのであり、しかしだとするならば、アメリカ史一般など、語義矛盾にほかならず、だからあくまでも、生きたアメリカ史を、今ここにあるアメリカ史を、視界に浮上させるためには、ひとつの名前が、有名ではない(ヒーローでもヒロインでもない)ひとつの名前が、しかし確実に高貴な名前が、どうしても、必要だったのである。百六歳の、黒人女性、アン・ニクソン・クーパーという名こそが、バラク・オバマが、創造し発見しようとしている、彼オリジナルの「アメリカ史」を、オバマのアメリカ史を、生きた形で浮上させる、最高の名前だったのであろう。オバマは、みずからのアメリカ史を、発見し創造し(ブッシュなど、アメリカ史には、最早、存在しないかのような、オバマ独自の、アメリカ史を、発見し創造し)、それを生々しいものとして、今そのものとして、視界に浮かび上がらせ、そしてそれを、未来にむけて、作動させようとしている。だからオバマはこういう。
「今は、その問いに答える機会だ。これはわたしたちの瞬間だ」、
歴史と今を、政治を介して、一致させようという、あまりにも高尚な、オバマのスタンスが、アン・ニクソン・クーパーというひとつの高貴な名前に、現れている。歴史の転換点にあるからこそ、このような高尚なスタンスは、有効に効くであろう、と、わたしは思っている。
高貴であることから、逃げようとしたあげく、しかしにもかかわらず、「自分は自由」だと、思い込もうとした結果、人々は、その実体のない、「自由なわたし」という幻想に、捕らわれてしまい、しかしそれは、実体がないが故に、不安感ばかりを、なにかと、わたしたちに与え、そのあげく、その不安が、まるで引き寄せたかのように、「テロ」という概念が、わたしたちには、誇大なものとして、生々しいものとして、あのときには、感じられ(イラクもアフガンも、アルカイダも、まったくなにひとつ、解決していないにもかかわらず、「テロ」への不安が、もはやまったくみえなくなってしまったのは、いったいなぜか。というか、そもそも、あの不安感の、源泉は、どこだったのか。それは結局は、わたしたちの、思い上がりの、裏面にすぎなかったのではないだろうか。経済危機は、わたしたちの、思い上がりを、ものの見事に、打ち砕いた。そういう意味では、わたしは、この危機を歓迎しよう)、そしてその結果、不安に駆られたわれわれは、実体のない悪者を、さも、実体的なものであるかのように、おもいこみ、自ら進んで、自由の名において(自由を守るという大義名分において)、自由なひとりの者として(自由の権利を、すでに、充分に、行使しえる者として)、破滅的な選択を、さも当然のごとく、あのとき、選択してしまったのである。アメリカはブッシュを選び、そしてブッシュと仲良しの小泉を、日本人は、あのとき、熱狂して、好んだのだ。だからいまさら、ブッシュや小泉を、馬鹿にするのは、まったくのお門違いなのだ。なぜならブッシュや小泉は、馬鹿かもしれないが、少なくてとも悪人ではなく、そして馬鹿な彼らを、好んで選んだのは、馬鹿なわれわれであり、だから恥ずかしく思い、みじめに思うべきなのは、われわれ自身に対してなのである。ブッシュが、フセインから守るべきだと主張した「自由」と、アン・ニクソン・クーパーという名が体現する「自由」と、このふたつの自由が、どれほどへだたっものか、お分かりだろうか。高貴さから逃れようとしたあげく、ただ後進国を、見下すことにおいて、みずかに、優越感を感じていた、その優越感としての「自由」が、ブッシュの自由だとするならば、アン・ニクソン・クーパーさんの自由とは、自由という過酷な挑戦を、常に、身体ひとつで、引き受け続けた、まさに高貴さそのものとしての、自由なのである。ブッシユのアメリカと、オバマのアメリカと、まったく別のアメリカのように感じられる。そうなのだ、実は、変わるべきなのは、変わらねばならないのは、「国民」の側なのだ。国の制度は、革命的にかえねばならないほどには、もはや欠点はなく、むしろ、国民さえ変われば、いくらでもよくなるはずの、充分な制度は、すでにアメリカにも日本にも、備わっているはずである、だからもしも、革命的変革が、必要だとするならば、それは、国民の側の、その精神の問題なのだ。だからこそ、まずはオバマが、言葉を変えたのである。演説の上手さを、たんなる口のうまさと、みなしてはいけない。あきらかに、決定的に、言葉の質が、そして思想の質が、違っているのだ。たしかに演説なので、アメリカ、ないしは世界にむけて、語っているので、説明過剰や、綺麗すぎる内容も、ないわけではないが、しかしアン・ニクソン・クーパーという名の使いかたからもわかるとおり、彼が、自由の概念を、決定的に変えようとしていることは、明らかであり、だからそれこそ、オバマが肯定するその自由とは、かつてならば、アーティストや作家などが、特権的に、からだひひとつで、肯定していた、過激な自由であり、だからそれは、政治家や企業家にとっては、いささかヤバい自由であり、だからそのような、ヤバい自由は、その存在こそ、常に、認められてはいたものの、しかしあくまでも、マイナーなものに、とどまりつづけていたのである(政治や社会と、別次元の、アーティスティックなものに、とどまっていたのである)、しかしバラク・オバマは、次期大統領という、きわめてメジャーな立場で、なんの躊躇もなく、正々堂々と、そのいささかヤバい自由を、(アン・ニクソン・クーパーという高貴な名によって)すべての人にとって大事な倫理として、肯定して見せたのである。そしてそのオバマに、全米が、そして全世界が、感動したのである。バラク・オバマ、すでに、どえらいことしでかした、と、わたしは思っている。つまりまずは言葉が変わったのだ、言葉が変わらなければ、どうにもならないのだ、あるいは、逆に言うなら、これだけ自由が深化したのだから、言葉が変われば、さまざまに、変わってしまうものなのだ。だから現在、ただ危機をあおっているだけの、評論家やメディアの言葉が、どれほど酷いものなのかは、いうまでもないだろう。なぜなら彼らの言葉こそが、まずは、変えられねばならない、もっともしぶとい、規制の制度にほかならないのだから。まずは言葉を変えねばならないのだ。
「今は、その問いに答える機会だ。これはわたしたちの瞬間だ」
そんな瞬間が、いったいいつになったら、日本にやってくるのだろう。
偉大なバラク・オバマのように、とても偉大な、スライ・ストーンの、偉大な一曲。
まるで奇跡のように、すばらしい一年になることを祈りつつ。
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