カミヤ・ミエコ
神谷美恵子
ハンセン病療養所に通って治療に当たった精神科医。戦後、語学の才能を頼まれて、GHQと文部省の通訳・翻訳を引き受けていたこともある。ハンセン病と精神科に関わってきた人らしい、深い洞察によって書かれた「生きがいについて」が代表的著作。
日本政府は公害病患者などに極めて冷淡だが、長い間「らい予防法」を廃止しなかったのはそれ以上に犯罪的だ。ハンセン病(らい病)が薬で治療できる現在、その病名を遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」で始めて知ったと言う人もいる。しかし明治時代にはよく知られた病気で、それを業病と考える迷信も残っていた。「らい予防法」の元の法律が作られたのはそんな時代だ。患者は強制的に隔離され、遺伝を恐れて断種・中絶が行われた。しかも、1943年に特効薬が開発されていたにもかかわらず、日本は国際会議の勧告にも従わず強制隔離政策をやめなかった。法律が廃止されたのは1996年のこと。
神谷美恵子が見たのは、ハンセン病の療養所に閉じ込められて、生きる目的をなくした患者たちだった。彼女は19歳のとき、賛美歌のオルガン伴奏をするつもりで療養所に行って衝撃を受け、医師になってハンセン病患者に奉仕しようと心に決めた。しかし一旦はこの進路を諦めなければならなかった。すぐに彼女が結核で入院してしまったこと、父の反対、文系から理系に転向する困難さなどが理由だった。彼女の内面的な理由が大きいと考える人もいる。殉教に憧れる熱心な信者のような、不純な虚栄心に彼女自身が気付いていて、それを嫌悪したからだという。
本当の性格は引っ込み思案で派手なことが嫌いだったとしても、他人から見える彼女は違う。裕福な家庭に生まれ、頭脳は明晰、容姿にも恵まれていた。結婚前は常にモテモテだったらしい。そういう矛盾に苦しんだ経験も心に関する思索の土壌になったのだろう。友人が心の病気になったことから精神医学に関心を持ち、精神科医の道を歩み始める。精神科なら地味だし、ちやほやされることもない。しかし療養所に通い始めるのは43歳から。ずいぶん遠回りだったが、ようやく最初の目標にたどり着いた。
神谷美恵子の両親を結びつけたのは新渡戸稲造だ。仲人もやっている。新渡戸の影響を受けた家庭に生まれ育ったことは彼女の人格にも関係しているはずだ。新渡戸から「武士道」のフランス語版を贈られたとき、その本には「悪い所を直して下さい」と書いてあった。彼女はまだ13歳だったが、フランス語がよくできたからだ。このエピソードの中に、相手が子供でも人間として対等に接する、そんな教育理念を見ることができるかもしれない。
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