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梅沢和木

 ラウシェンバーグの画面においては、上も下も、右も左もなく、つまり位置的なヒエラルキーが、まったく欠如していて、だから個々の記号は、まさに、情報そのものなのである。実は情報とは、とてもあたらしい概念で、それがいっいなんなのか、的確に説明するのが、たいへん難儀ですらあるのだ。ラウシェンバーグは、(そしてナム・ジュン・パイクも)情報とは、このようなものである、と、明解にしめことができた。なるほど、これが情報であるか、と、わたしたちも、その作品をとおして、なっとくすることができた。しかしそれでも、情報とは、いったいなんなのか、情報によって、なにがどうなるのか、というようなことについては、わたしたちは、まったく、考えることすらできていないのである。ラウシェンバーグにとっても、ナム・ジュン・パイクにとっても、情報とは、まったくあたらしいものとしての、大発見だったのだろう、しかし梅沢和木にとっては、あるいは金氏徹平にとっても、情報とは、発見ではなく、すでにあらかじめあたえられていた、自然環境そのものなのなのである。ことによったら、いわゆゆる自然よりも、情報環境のほうが、かれらにとっては、梅沢や金氏にとっては、はるかに、自然かもしれない。それほとまでに、かれらは、情報に、あらかじめ、精通してはいるのだ。しかし精通してはいるが、それがいったいなんなのか、彼らとて、新しい世代の梅沢や金氏とて、いま一つ、認識出来てはいないのである。それが認識されるのは、まさにこれからなのである。目の前に、大自然が在ったときに、しかもかれには、それなりの、近代的教養があったのならば、かれにとっては、まさに、目の前の、大自然は、あらたな発見のための、大いなる宝庫にもなり得よう、それと同様のことが、若手アーティストにとっての、情報についても、言い得るのである。彼らの目の前には、すでに、情報が、その性質の全貌をあらわにしつつ、ほとんど自然環境のように、存在していて、しかしその性質への認識は、まだまったく手つかずであり、しかもそのうえ、かれらには、現代美術的感覚を、すでに、十分に、研ぎ澄ましつつ、それを我が物としているのである。かれらにとって、情報という主題には、必然性がある、どころではなく、むしろ、「必然性しかない」、というべきほどなのだ。百円ショップに売っているような、あるいは、ホームセンターに売っているような、なんてことのない工業製品は、むろん、ふつうに観られたのならば、「道具」であろうし、もしくは、表象としてながめたならば「デザイン」であろうし、あるいは、物質的にながめられたのならば「素材」というこになろうが、しかし若手アーティスト金氏徹兵は、それらのものを/なんてことのない工業製品を、あくまでも、情報としてながめようとするのである。先の横浜での、金氏の大きな個展での試みは、まさにそのようなことだったのである。つまり情報とはみなされないはずの物すらも、金氏は、それを、情報とみなそうとしていたのである。マルセル・デュシャンは、かつて、工業製品に対しての、レディーメイドという見方を発明したが、そしてその見方は、ウィリアム・ケンドリッジが、のちに、明解にしたように、歴史性としての物への見方、ということになるのだが、(レデイーメイドという見方によって、現代的な歴史性こそが、みえてくる、ということを、ウィリアム・ケンドリッジは、自作によって、明解にしたのだが)、むろん、金氏による、物への接し方も、レディーメイドというデュシャンによる方法あってこそではあるものの、しかしレデイーメイドという見方と金氏の見方は、ややズレたものではあるのだ。つまりレデイーメイドという既成の方法を応用しつつ、工業製品を情報としてみる、という新たな物への見方を、金氏は、あらためて、この現在において、発明した、ということなのである。情報によって、どのような力が、どのような場が、そしてどのような体験が、可能となるのか、そのことを正確に実験すること、それが、金氏による、先の横浜での大きな個展での、コンセプトだったのである。実はわたしは、梅沢和木の作品を、実物としては、観てないのだが、(その作品について語るためには、絶対に、実物を観てから語るべきなのだが、しかしそんな「絶対の禁」をあえて破って、ここで、わたしは、梅沢作品について、語ろうとしているのだが)、金氏が、レデイーメイドという方法をとおして、それを情報として観る見方を、発明したように、それと対応するように、梅沢は、情報という考え方を(考え方としての情報を)、ペインティングという正当な方法によって、反復しようとしているのではないだろうか、と、わたしは、みているのである(ウェブでその作品画像を観た限りではわたしにはそのように思われるのである)。テレビやネットなどの、さまざまなメディア上の、無数の画像は、とうぜん、等しく、情報と呼ばれるべきではあるのだが、しかし情報として在るはずの、メディア上の、無数の画像は、しかしそれが、個人によって、具体的に、体験されるときには、すでに「イメージ」として感受されたり、あるいは「知識」として使用されたり、もしくは「作品」として批判されたりしてしまうのである。情報は、たしかに、メディア上に、あふれかえってはいる、しかしわたしたちは、それらを、純然と、情報として、体験してはなく、情報ではないなにかのために情報をただ利用しているだけなのである、とするならば、それら諸々の体験を、可能にしてくれる、その母体であるところの、これら情報とは/情報そのものとは、いったいどのようなものなのだろう。梅沢は、情報による、さまざまな体験を、当然のごとく、ほとんど自然環境のように生きている、新しい世代の者として、その情報体験の側を入り口としつつ、内的ではない内面を緻密に分析するように、ペインティングという方法によって、(情報体験から)情報という考え方のほうへと、なんとか、行き着こうとしているように、わたしには、見受けられるのである。情報は、(ことに性欲において、顕著であろうが)、たしかに、さまざまな人間的体験を、可能としてはくれている、しかしそれら、情報飽和のなかで体験され、結果として、作り上げられた、あらたな人間形態は、かつての人間形態とは、やはり、なにかが、決定的に異なっているはずなのだ、しかしその違いについて、ほとんど、まともに認識された試しはないのだ。容易な良し悪しで、既成の道徳的判断で、この違いを、わかった気になることだけは、最低限、慎むべきだろう。もしも違いを、なにか決定的に異なってしまった人間形態の違いを、認識しようとしたのならば、せめて、最低限、あらたな人間形態においての、あらたな可能性の追求とともに、それは、認識されねばならないのだ。なぜなら、かつての人間形態だけを前提に、あらたなものを、論じようとしたのならば、結局は、かつての人間形態の、古き良き美徳についての、ノスタルジックなプレゼンにしかなりようがないのだ。今までになかった、あらたな可能性は、それ自体に身をゆだねることによってのみ、見出されるのであり、そして新たな可能性が、見出されてこそ、かつての人間形態の、その必然性も、逆に、あらためて、位置づけられる、ということになるのである。そのような順序で、考えられるべきなのである。梅沢の最大の魅力は、新たな人間形態の、その可能性を、そのあらたな人間形態にみずから身をゆだねつつ、なんとか、見出そうとする、やけに生真面目な、意志の強さにおいてなのである。それを若さ、と言っても、たしかに間違いではない。しかしそれ以上に、彼のその在り方は、まさに必然性そのものであり、そして具体的な、彼のその方法と作品内実は、緻密にして正確無比なのであり、つまりその必然性・緻密さ・正確無比さは、とうてい、若さ=粗さという容易なイメージと、折り合いのつくものではないのである。(若い)女の子(アーティスト)たちは、たいへん粗っぽい大風呂敷を、広げつつ、超剛速球を、投げ込みがちだし、するとメディア体験/メディア内面を、ただ垂れ流そうとしているだけの(もてない)男の子たちが、ときに、あわれにみえかねないが、しかし梅沢は(そして金氏も)、そんなメディア内面に閉じこもることなく、そこを緻密に突き抜け、情報存在論ともいうべきあらたな地平へ、達しようとしているのであり、そしてその試みは、よほどクレバーで繊細でないと不可能なことなのであり、しかもなかなかどうして、彼らのその試みは、上手くいっているのだから、そう考えると、剛速球女子とクールクレバー男子との、この取り合わせは、なかなかいい線いってるのではない、と、わたしなど、ついつい、おもってもしまうのである、しかしそれは、ちょっと、ほめ過ぎだろうか。というか、そもそも、実作みもしないで、偉そうなこと言って、良いんでしょうか、わたしは。どうもすいません。

梅沢和木

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投稿者:
room9

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