第五部
奥の細道・平成風狂句(完結)
那谷寺
小松より山中温泉に向う道の左側に観音堂が在った。
花山法皇が西国三十三ヶ所の巡礼を終え、その記念にこの地に大慈大悲の像を安置されたのが由来と云う。
(42) 石山の 石より白し 秋の風 芭蕉
曝されて 近江にさそう 岩の堂 涙腺子
那谷寺は西国三十三ヶ所の初めと終りである那智・谷汲の二つの霊場から採った名だが、その石山は近江・石山のそれよりも白く、霊験新たかに感じられる。
山中(温泉)
(43) 山中や 菊はたをらぬ 湯の匂 芭蕉
菊の香も 斯くやと思え 山の郷 涙腺子
古の昔、菊慈童が中国・(れきけん)山中で大菊から搾り採った甘水を飲んで八百歳まで生きたと言う桃源郷を思わせるほど、この山中の湯はかぐわしい香がすることだった。
此処まで何とか無事に辿り着いたのだが、曾良がこの地で腹を病み、治療の為に伊勢・長島の縁故を頼って先発つと言う。
行々て たふれ伏すとも 萩の原 曾良
共に来て 雲間を分かつ 秋のそら 涙腺子
ここまで来た以上、たとえ野辺に行き倒れても本望だと曾良は云うが、果たしてどうか。もともと神官であった彼には幕府より依頼された任務もあり、時を急ぐ必要があったのだろう。
(44) 今日よりや 書付消さん 笠の露 芭蕉
遍路にも 明日の行方か 伊勢参り 涙腺子
深川を出る際に『乾坤無住 同行二人』と笠の裏にしたためたが、溢れる泪でそれを消す時が来た。
大聖寺
終宵(よもすがら) 秋風聞くや 裏の山 曾良
ただ一夜 秋風凍みて 宵の鐘 涙腺子
聞けば曾良も昨日はこの寺に泊まったらしく、一人寝の侘しさを書き残している。
(45) 庭掃いて 出でばや寺に 散る柳 芭蕉
鐘板に 読経も止みし 濡れ草鞋 涙腺子
加賀より今日は越前まで足を運ぼうと、朝早く寺を発つ。
朝露に濡れた草鞋を結ぼうとすれば、遠くで食事の合図となる鐘板が打たれ、それが木霊して柳の葉も散るかのようだ。
汐越の松
吉崎の入江に舟を浮かべ、汐越の松を尋ねる。
『終宵 嵐に波を はこばせて 月をたれたる 汐越の松』と詠みし蓮如上人の一首だけで、もう何も語る必要はあるまい。
丸岡
金沢からこの地まで、吾らを慕って後追いをして来た北枝なる男は、時折俳趣に富んだ景観を詠んでは才能の一端を窺わせていたが、その付かず離れずの旅も此処で終りとなる。
(46) 物書いて 扇引きさく 余波(なごり)かな 芭蕉
秋深し 其は破られぬ 窓の枝 涙腺子
永平寺
五十町ほど山に入って永平寺に参拝する。道元禅師入宋当時、師と仰いだ如浄禅師が中国は越の人であったことから、この越前の地に赴いたと言う逸話を聞くと、さも有りなんと思われる。
福井
福井には等栽と言う隠士が居て、その昔江戸の芭蕉宅を訪れて来た。今となってはさぞかし老いているだろうと家を尋ねれば、女房と思わしき女に案内されて庵に向う。
敦賀
鶯の関を越えて湯尾峠から敦賀に向う。宿の主は酒を勧め、その酔いも手伝って夜の『気比明神』を訪れれば、仲哀天皇を祀る社殿は月明りに照らされて神々しく輝いている。
(47) 月清し 遊行のもてる 砂の上 芭蕉
洗われて 心も涼し 気比の月 涙腺子
代々、遊行上人が運び込んだと伝えられる神前の白砂。それは悪龍が棲む泥沼を干上がらせる為に、遊行二世の他阿上人がみずから草を刈って干拓した『遊行の砂持』に由来するが、名月であるはずの十五夜は雨となって、今は盛砂を浄めている。
(48) 名月や 北国日和 定なき 芭蕉
この宵を 遊行の雨に ゆだねたり 涙腺子
種の浜
翌十六日。雨が止み空が晴れたので、真赭(ますお)の小貝を拾って遊ぼうと種(いろ)の浜の舟を出す。
(49) 寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋 芭蕉
舟人が 色とりどりに 秋の酒 涙腺子
(50) 浪の間や 小貝にまじる 萩の塵 芭蕉
脱ぎ捨てて 寄せる波間の 骸かな 涙腺子
海辺に咲く萩が散って、打ち寄せられた貝殻を飾っている。
間もなく吾もまた草鞋を脱ぎ捨て、波間に漂う貝となるだろう。
大垣
馬に助けられてようよう美濃の国へと入る。一足先に伊勢に向った曾良も出迎えて、門人多数の歓待に遇う。
如行の家に滞在すれば皆吾が身体を労ってくれるのだが、旅の疲れもまだ抜けぬうちに、それでも九月六日には伊勢遷宮に参拝しようと思い立って、また舟に乗ろうと思うのだった。
(51) 蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ 芭蕉
五十鈴なる 川に禊ぎと 二つ岩 涙腺子
既に秋も深い。吾を迎えてくれた人々と、これからまた旅に赴こうとする人。二つに道は別れても、互いに交わした俳諧の契りは夫婦の絆のように固く、今は離れてもまた春の出会いを楽しみにしようではないか。
○
これにて完結。
写真は『永平寺・仏殿』
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コメント (6)
最新コメント5件
2002/12/22
涙腺子 通読していただいた『まきろん・まき』様に感謝(疲労困憊&笑)。
涙腺子 曾良は神官の出で、幕府公認の隠密でもありました。彼の任務は、当時幕府直轄地であった日光を担当する奉行と伊達藩との間に諍いがあり、その情報を得るための旅でもあったのです。それ故、二人の旅費は仙台までは官費で賄われており、その後は尾花沢の鈴木清風などのスポンサーを頼って旅を続けたと思われます。
本来なら象潟から秋田・青森へ抜けるつもりが路銀に事欠き、やむなく芭蕉は道を引き返したのですが、その際にも芭蕉と報告を急ぐ曾良の間で激しい口論があったと言われております。
涙腺子 本文では腹を病んで先に旅立ったと言われる曾良ですが、伊勢の知人を訪れて病を癒したという史実は実証されておらず、おそらく幕府への報告を済ませると、すぐに大垣に向って芭蕉を出迎えたのでしょう。
SSMG をを。お疲れ様で御座居ました。ぱちぱちぱちー(またそれかい
涙腺子 鵬程万里・粒粒辛苦。蓬頭垢面・冷汗三斗。浅学非才・悲憤慷慨(多謝)。
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