ミシェル・フーコー
ミシェル・フーコー
フーコーは既成のの道徳観念に縛られることなくかつのそれらにとらわれない自由な人間像を模索してきた。同時代的にはレヴィ=ストロースが、西洋中心主義の概念に外部の空間性を提示し、ヨーロッパに対する近代批判を行い、フーコーはヨーロッパ近代の巧みに隠蔽されてきた権力の構造を明らかにし、権力によらない「主体化」の可能性を見出す方向に進んだ。
権力は構造的形態を常にとり、構造とはすなわちシステムである。例えば、ヴァレラなどの生物学の立場から提唱されているオートポエシスシステム論は、システムに対する分析を行っている。構成要素がはじめに存在するのではなく、システムの作動によって構成要素が産出され、今度は産出された構成要素同士の関係によってシステムが再生産されるという循環関係を何よりも強調する。そして、システムは自己を産出する不断の過程であり、しかも、そこで産出されたシステム内・外を分ける境界線は産出過程の結果から生じたものである。よってシステム作動自体に即せば、そもそも「内部も外部もない」といえるだろう。
フーコーを含めた構造主義は、関係性よりも事物の要素に重きを置いた近代ヨーロッパの二元論を批判し、すべての存在には構造が先立つという主張をした。すなわち、ソシュール以降構造主義と呼ばれる人々は、個々の要素よりも差異化を可能にする関係や体系が先にあるとし、その網の目を通してはじめて事物が人間にとって出現すると考えた。
フーコーは、監獄、精神病院、国家そして歴史という、「権力」の構造の分析を通して、権力の働きようを暴き出し、人がいかにそれらのものに規格化されてきたかを明らかにした。それらの個別テーマを通して彼は、社会的実践の変化による関係の変質を、近代ヨーロッパの人間科学成立の歴史にさぐり、そこに働いた諸関係の構造を明らかにしていったのだった。そして彼は、その学問を「知の考古学」と呼び、関係の構図をエピステーメーと呼んだ。
近代のエピステーメーの特色とはフーコーによれば、言語の体系と物の体系を分け、言説実践のシステムを知の基盤にしたことにある。近代以降世界は単なる意識とも客観的実在とも異なる言説システムにおいて姿を現わす(想像の共同体)。この時人間が主体的に言葉を語るのではなく、反対に人間がシステムとしての言葉によって語らせられていることに注目した。すなわち知の実践として言葉を操る時、人間は言説内に働く権力の視線を自己の中に受け入れざるをえないのである。
その後フーコーは権力関係の外で思考する方法を探り、権力によらない「主体化」とその上で社会的の公認される知の可能性を考えていった。そして、その著書「性の歴史」の3部作において、権力の要請により性的規範にしたがい主体化するよう強制されている現代人への批判を、ギリシア時代のセクシャリティーの研究を通して、その可能性を見ていった。それは、自己を厳しく統御、練成する美学的倫理的な主体様式を持った古代ギリシア人を参考にし、性的体験が本来持つ、身体的アナーキーによる創造により、我々の生存を知と権力の一義的な規範から解き放ち、多様化することでもあった。これらのことが「我々は自分自身を芸術作品として創造しなければならない」という彼自身の言葉に込められていると考えられるだろう。性的身体はその可能性を我々に示しているといえる。
さて、フーコーの思索の足取りを振り返ってわかるように、フーコーは一つ重要な問いかけを我々に残したまま逝ってしまった。その問いとは、「あらゆる権力からの統合を拒否して、新しい主体をどのように作り上げることができるのか」という点である。
あらゆる権力から自由である主体の「自己責任」についてはフーコーが晩年試みたように、古代ギリシアの「自己への配慮」という概念の観点から回答できるとしても、「自己決定」についての問題がなお残る。自己決定は自分自身の身体の自律と管理の権利を指すが、それらは背後の歴史的構造、共同関係を拒否したところに成り立つのだろうか。なによりもマリア=ミースの「主体の自己決定とは、自分より下位にいる他者を支配し他者を操ることによって生み出されているのだ」という批判が、主体の自由の問題に大きな問いかけを投げかけている。
マリア=ミースの指摘した類のエピステーメーを解明してきたフーコーが、その構造の外側に立つことの有効性、可能性を「権力から自由な主体の自己決定」において、改めて彼女に指摘されているのだ。すなわち、世界の構造的現われかたを否定できないのならば、権力から自由となった主体が持つ構造とはどのようなものであるのかということとなる。そして、マリア=ミースの指摘を否定する構造を考えるのならば、それは、いかにして権力を排除し、他者を許容しうるものとして築いて行くことが可能なのかという重要な問いを含んでいるといえるのではないだろうか。
フーコーの提出した権力から自由な主体、自己とは、ある意味ニーチェ的な強い自己である。それは、性的身体による権力からの開放を、ギリシア的な自己統御に基礎づけたところに見られる。しかし、我々の世界を生態的構造も含めて見てみると、そこには共生の原理が働いていることがわかる。このことは生態学的見地からも競争一辺倒なシステムよりも協力関係が有効に働くシステムのほうがより有効に機能することが証明されている。権力によらない「主体化」の構造を見ていくとき、「自己決定」の指摘からもわかるように共生の問題は避けて通ることはできないだろう。共生の問題としての権力という視点から、フーコーを捉えなおすことが必要なのではないだろうか。
- 2003/08/25更新
- 2003/03/11登録
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