まなざしのきおく/いしはらよしろうからごとうまさる
戦争が始まろうとしている・まなざしの記憶/石原吉郎と後藤勝
アメリカ軍によるイラク攻撃が秒読み段階だとマスコミは連日伝えている。今朝の朝日新聞の船橋洋一のコラム-人間の痛みと苦しみへの想像力を戦争を伝えるメディアが奪っている。と2人の大学教授の話。
9.11のときにも感じたことだが、人の死が無名性のなかに埋もれていくことは絶対に許されてはいけない。ニューヨークで許されるべきない死(死とはだれにとっても不条理なものではあるが)に直面した人々に対して、メディアは豊富な情報量と、詳細な描写で、ひとりの具体的な人間の死を世界中の人々に伝えた。
一方、多国籍軍の爆撃を受け、許されるべきない死においこまれたアフガンの市民は30人死亡、40人死亡という単位でしか語られない死である。少なくとも日本にいるわたしたちには。そして、おそらくイラク攻撃が始まれば、多くの市民たちが、不条理な死の機会にさらされ、そのひとりひとりの死の無名に取り扱うメディアが、ますますわたしたちの「痛みと苦しみ」への想像力、共感する力を奪っていくだろう。
人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。
詩人石原吉郎は、自らが体験したシベリア抑留での無数の壮絶な体験のひとつから、この言葉を発している。ひとはその最期の瞬間まで、他者に対して自己存在の確認の希求している。そして、そのことがわたしたちを「ひと」として成り立たせている。
死は死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側からは、なんの意味もそれに付け加えることはできない。死はどのような意味もつけ加えることなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらくわたしたちにはなんのかかわりあいもないという発見は、私たちの生を必然的に頽廃させるだろう。しかしその頽廃のなかから、無数の死へ、無数の無名の死へ拡散することは、さらに大きな頽廃であると私は考えざるをえない。生においても、死においておいても、ついに単独であること。それが一切の発想の基点である。
ともに『望郷の海』のなかの「確認されない死のなかで」という文章からの引用である。石原は、人間性の剥奪の経験を繰り返した、多くの死に立ち会わざるを得なかったシベリア抑留体験から人間は死んではならないという確固たる信念を抱く。そしてそのことへの認識は、死を一般承認の場から、単独な一個の死体、一人の具体的な死者の名へ一挙に引き戻すときにはじめて成立するものであり、そのような認識なしに、どのような死について、生についての発言も成立しない、という生へのまなざしへの地平を劈いていく。
ぼくはこの石原の体験から立ち上るまなざしを、ひとりの写真家、後藤勝、マサさんの写真に見る。彼の写真を前にしたときの、具体的なまなざしの現われは、ぼくを沈黙という重みへと引き込んでいく。マサさんの写真には、「人間は死んではならない」という、彼自身のかなしみのまなざしを引き受けざるをえないそんな覚悟を持たなければ、彼の写真とそこに映る具体的なまなざしを、ぼくは直視することはできない。
無益な戦争が始まろうとしている。
世界中からかなしいいさかいが絶えることはない。
多くの無名の死として片付けられた、足元の人々の無名でないそのひと個人の死を、語り継いでいくまなざしを持つこと。つぐないがたい痛みを持ちここに生きているものとして、そのまなざしをいつも持っていたい。
戦争が始まっている、始まろうとしている今、平和な心のありかを自分のなかに感じていたい。そのこころが多くの死者たちの記憶を継いでいくもので、ぼくのできる限りの共振が、あなたのまなざしに届きたいと思うのだ。
I wish peace be with us.
- 2003/03/13更新
- 2003/03/13登録
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