ミツバチノササヤキ
ミツバチのささやき
1.映画「ミツバチのささやき」について
映画「ミツバチのささやき」(ビクトル・エリセ監督、1973年)は、その内に様々なテーマを孕んだ名作であるが、物語の大筋としては、幼い子どもが死を認識できるようになるまでの過程が描かれている。
主人公の少女アナは冒頭で「フランケンシュタイン」の映画を見て、「どうして怪物は少女を殺し、その後で自分も殺されるの?」と姉のイサベルに問う。イサベルは「映画の中の出来事は全部ウソ」であり、あの怪物は本当は村の外れに住んでいる精霊で、会いたい時は目をつぶって「ソイ・アナ(私はアナです)」と唱えればいつでも会える、と口からでまかせの説明をするが、アナはこのデタラメを信じてしまう。
後日、怪我をした1人の脱走兵が村外れの空家に隠れているのを見つけたアナは、彼を精霊だと思い込み、以後頻繁にその家に通っては食べ物や父親の外套などを差し入れる。しかしある夜、男は警察に見つかって射殺されてしまい、翌日何も知らないアナは誰も居ない空家で途方に暮れる。更に、男に与えた外套に入っていたはずの懐中時計が父の手に戻っているのに気づき、父が男を殺したのだと思い込んだアナは精霊の姿を求めて失踪する。
家族に発見された時アナはショックの為に憔悴しきっていたが、やがて体力を回復し目を覚ます。そして夜の闇に向かって「ソイ・アナ」と繰り返しつぶやくのである。
2.子どもと死
「子ども」と「死」は一見結びつきにくいイメージがあるが、子どもは大人が考えているよりも死に近いところにいるようである。小浜逸郎は著書「方法としての子ども」の中で、自分の娘が4~5歳の頃のエピソードを紹介している。
ある時から、夜寝床に入ると何かの考えに深くとらえられたように遠くを見るような目つきをしはじめ、やがてその目に涙がいっぱいたまってくるのである。そしてそばに控えている母親を呼び求め、そっと耳打ちするーー「ねえ、ママ、あたしが死んだら川に捨ててね」母親は驚き、まあ、どうしてそんなこと言うの、ママがいっしょうけんめい育てているのだから死ぬなんてことがあるはずないでしょう、さあ、ママはずっとここにいてあげるから安心しておやすみなさいね、と髪をやさしく撫でながら眠りにつかせるのである。
別の言い方をするときもあったーー「ねえ、ママ、あたしが大人になったら、ママはおばあさんになって、それから死んじゃうんでしょう」
小浜氏の娘は数日間こうした言動を続けた後あっさりと元の調子に戻り、表面上は死への関心を失ったように思われた。だが、それは元の幼年期的まどろみへ回帰したのではなくて、ある過程を卒業したように見えた、と氏は書いている。
死に魅せられているのはアナも同じで、父親とでかけたキノコ狩りでは「いいキノコ」より「毒キノコ」のほうにばかり関心を寄せている。このことはコクトーの「おそるべき子どもたち」で、主人公のポールが少年時代毒薬に夢中になっていたことを連想させる。
また、イサベルと遊びに行った線路では、猛然と近付いてくる列車を前に立ち尽くし、イサベルの「アナ!」という声に気付いてようやく逃げおおせる。「このまま立っていたらどうなるかしら?轢かれて死ぬのかな?」という誘惑を感じたことは、誰しもあるのではないだろうか。
3.子どもの死の認識
私達観客も、かつて子どもだった頃にはアナのように「死」と向かい合ったことがあるはずである。もう流石に当時の事は覚えていないが、初めて知った「死」というものは、あまりにも漠然としていてとらえどころのないものではなかったか。そう、まるで映画の中の出来事のように、自分とはかけ離れた所にある事象であったような気がする。加えて、幼い子どもはまだ大人ほどには時間の感覚が発達していないため、未来のことを考えること自体が難しい。彼等の時間は、「今」だけである。
しかしアナは、男の不在によって彼の死を知らされる。「今、ここにいない」ことによって死を感じる、という例は他の文学作品にも現れる。日本の作家、芥川龍之介の短編「少年」がその一例である。主人公の保吉は4歳の少年で、この場面では父親と一緒に風呂に入っている。
父は体を拭いてしまうと、濡れ手拭を肩にかけながら、「どっこいしょ」と太い腰を起こした。保吉はそれでも頓着せずに帆前船の三角帆を直していた。が、硝子障子のあいた音にもう一度ふと目を挙げると、父は丁度湯気の中に裸の背中を見せたまま、風呂場の向こうへ出るところだった。父の髪はまだ白いわけではない。腰も若いもののようにまっ直である。しかしそういう後ろ姿はなぜか四歳の保吉の心にしみじみと寂しさを感じさせた。「お父さん」
一瞬間帆前船を忘れた彼は思わずそう呼びかけようとした。けれども二度目の硝子戸の音は静かに父の姿を隠してしまった。あとにはただ湯の匂いに満ちた薄明かりの広がっているばかりである。
保吉はひっそりとした据え風呂の中に茫然と大きい目を開いた。同時に従来不可解だった死というものを発見した。
死とはつまり父の姿の永久に消えてしまうことである!
風呂から上がった父の背中に死を感じとる4歳児(満3歳?)というのも驚異的であるが、この心理描写には不思議と説得力がある。おそらく芥川自身の幼少時の記憶に基づいて書かれたのであろう。「今ここにいて、いつもここにいるはずのもの」が、いつか消滅する可能性があることを認知したとき、保吉少年は初めて死を理解し、且つ「過去」「現在」「未来」の時間感覚を手に入れたのだと思われる。
これはアナも同じであろう。「私は今ここにいる」「なのに、彼は今ここにいない」と気付いた時点で、アナはただならぬものを感じとっている。それでも父親の前から逃げ出した理由は男の死を認めたくなかったからであり、疲労困憊した体で辿り着いた湖でようやく彼女は精霊がもう自分の心の中にしかいないことを知るのである。 そうした経緯を経てアナがつぶやく台詞「ソイ・アナ」は、イサベルにおまじないとして教えられた「ソイ・アナ」とはその意味合いを異にしている。ラストシーンのアナは、「今」が永遠に続くことはなく、自分もまた永遠ではありつづけないことを既に知っている。ラストの「ソイ・アナ」は、自分自身を確立した少女の、世界に対する宣言であると言っても良いだろう。アナはひとつの通過儀礼を終え、幼児から少女へと変貌したのである。
4.まとめ アナが表象するもの
「ミツバチのささやき」の原題は「蜜蜂の巣箱の精霊」である。「蜜蜂の巣箱」は「集団・社会」を指すことから、物語の舞台である内戦当時のスペイン社会を表していると読むことができる。映画のそこかしこには内戦の傷跡を示す表現がちりばめられており(映画の上映を知らせるのが男性ではなく女性であることや、アナの母が毎日綴る悲愴感にあふれる手紙など)、大人たちは皆何かに絶望したかのように静かである。その一方で、心に大きな傷を受けながらも、最後には立ち上がるアナのタフな姿には、スペインの未来に対するささやかな希望が託されているように読むこともできる。
だが「作品の映画的性格をまず考えてみることからはじめるべき」というエリセ監督の言葉どおり、この映画にそれ以上歴史的な意味を持たせることは無益であろう。この作品では、物事をただ「見つめる」だけであった子どもが「私は~です」という言語表現を体得し、死を自覚するまでの過程を美しく描いたこと自体に意義があるように思われる。そしてそれは、アナ・トレントという天才子役が、同名のアナという役を映画の中で生きることによってこそ達成されたのである。
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