光の雨
革命をしたかった。生きる全ての人が幸福になる世の中を作りたかった。
「お前に総括を求める」
「兄さんのためよ。もっと力一杯殴るのよ」
「お前は死刑や。それが中央委員会の決定や」
「異議なし!」
1972年、連合赤軍事件。
革命を夢見た20代の若者たちは、なぜ14名の同志を殺してしまったのか?
連合赤軍による同志リンチ事件を描いた小説『光の雨』を映画化するという企画で、CMディレクター樽見のもとに若手俳優たちが集まっていた。劇中の組織「革命共闘」の上杉や「赤色パルチザン」最高幹部・倉重などにキャスティングされた20名以上の若者は、30年前に実在した同年代の若者たちの行動に疑問を感じながらも、それぞれの役を演じようと試みる。
「それはすなわち、自己批判と、自己批判に至るまでの相互批判である…何が言いたいんか、さっぱりわからんわ」
豪雪の山岳地帯で「総括」場面の撮影が続く日々。だがある日、樽見監督は現場から突然姿を消してしまう。果たして映画は完成するのか。
「…いつか僕も、あの光の雨の中に行くことができるのだろうか。」
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原作は立松和平の小説「光の雨」。でも私はこれを読んでいません。ていうか、大塚英志の「彼女たちの連合赤軍」の評を見て読む気なくしました…そんな教訓じじいな話なんかい…。やっぱ自分のやったことに対しては冷静になれないものか…見苦しい。
で、映画のほうはというと、でんでんそういう言い訳がましいかんじがありません。それはやはり「映画を撮る人々の映画」ということで、事件そのものに対して一歩距離をおいているためだと思われます。
重要なのは映画のメイキングを撮っている阿南(=萩原聖人)の視点。事件を扱った小説←それを映画化する監督←監督を見つめる阿南、という3重の構造。メタメタ映画って感じですか?兎に角、彼の揺るがない客観性が、「何が正しいのかわからなくなってしまう」この事件に関して、ある種の物差しになってくれているような気がします。
現場から遁走した樽見に、阿南は「貴方たちは何も語ろうとしない」と言い放ちます。この言葉に、私も激しく同意します。
ほぼ日刊のイトイさんが、原宿をおしゃれスポットにしたてあげ謎のカタカナ職業につく前、いったいどんな目にあったのか、私は知りたい。1101.com、とか言ってる場合かよ、て思う。でも立松和平の恨み節は聞きたくない。重信房子はただの不細工なおばさんだから興味ない。
「大学なんてほとんど休講ばっかりでねえ」
「友達にも留置場に入ってる奴が結構いてね」
「あの頃の若者は気骨があったよね(それに比べて今時の若者は)」
…そう言ってるおじさん、おばさん。あなたの話がききたいのです。あなたは何をしたんですか。人を殴りましたか。傷つけましたか。オウムの事件と赤軍の事件。どう違うっていうんですか。あなたは何をあきらめましたか。多くの犠牲の上にたって、今のうのうと生きているのですよね。今の世の中は、間違っていませんか。
あなたの話が、ききたいのです。







