オーロラ
オーロラ観測の最終夜を迎えた。
1夜目は、飛行機の遅れでフォートマクマレーにたどり着けなかった。
2夜目は、雪が降ってまったく空が見えなかった。
そして、今日。最後のチャンスだ。雲ひとつない星空だ。
キャビンで待っていれば、オーロラが出たときにガイドが知らせてくれる。しかし、僕はオーロラの出現する瞬間を見逃したくなかったし、何よりもオーロラ自体、数秒で消えてしまうこともある。僕はずっと凍った湖面の雪の上に立っていた。
チャンスは、22時から翌1時30分までの3時間半。その間に、現れてくれるだろうか。
23時まで、まったく何の変化もなかった。ただ星を見上げていた。
緯度が高いとはいえ見慣れた北半球の星空は、とても賑やかだった。北極星がだいぶ高い位置にあり、オリオンや北斗七星、小さな星々がそれを取り囲んでいる。双子座のあたりを見たが、星が多すぎてすぐに見つけられなかった。
あたりからは、氷が膨張して割れる「ズシン」という低い音と、白樺の木の中の水分が凍って幹がはじける「パキィッ」という音がいくつも聞こえてきた。
時どき、薄く、ごく薄く、縦に棒状のオーロラが見えた。それはすぐに消えたけれど、しばらくすると別の場所にまた棒状のオーロラがぼんやりと現れた。
「寒くないですか?」
ガイドが声をかけてきた。
「大丈夫です。あのへん、ちょっと来てますよね」
「そうですね、来てますね。もうちょっとですね」
オーロラがどんな現れ方をするのか知らないので、ぼんやり現れたのが前兆なのか、それ自体が完結したオーロラなのかわからない。僕は、とにかくカメラを北の空に向けた。
気温はマイナス25度。これだけ寒いと、カメラの扱いにもとても気を使う。
霜が降りてしまわないように、布をかぶせておく。ときどきレンズを確認するけれど、息がかかるとレンズに氷が張ってしまう。フィルムを乱暴に巻きあげると、フィルムが固くなっているので切れてしまうし、空気が乾燥しているので静電気が起きて露光してしまう。シャッターを切るときは息を止めないと、白い息が写ってしまう。
この旅行に向けて、オーロラ写真の取り方をいろいろと勉強した。
僕はそれを何度も頭の中で繰り返して、オーロラを待った。
23時30分。
夜食の支度ができたという。
僕はずっと空を見ていたかったが、少しだけ休憩することにした。
23時45分。
夜食を終えて再び空を見たが、真っ暗なまま。
さっきまで出ていた月が、雲に隠れた。
空が暗くなり条件がよくなったが、そのまま空が雲に覆われてしまったら元も子もない。
24時00分。ぼんやりとした緑色の光が見えた。
それは急激に成長しはじめた。
右の方の空にも、同じような光。
来るか? そう思った瞬間。
2つの光が、鮮やかに波打って広がり、繋がった。
僕は夢中でシャッターを切った。
1、2、3、4、5!
5秒カウントし、シャッターを閉じる。
揺らめいている。光り輝いている。
強い光のかたまりが左から右へすらりと飛び移る。
1、2、3、4、5!
5秒カウントし、シャッターを閉じる。
ふっ、っと、オーロラは消えた。あっという間の出来事だった。
僕は全身の毛が逆立つのを感じながら、カメラをのぞき込み、フィルムを確認した。あと何枚ある?
そのとき、僕は、全身に電流のような物を感じて、目を見開いた。
来た!
そう直感した僕は、顔を上げるよりも早くシャッターを切った。
1、2、3、4、5!
5秒カウントし、シャッターを閉じる。
凍ったフィルムが破断しないように、ゆっくりと巻き上げる。
再びシャッターを切る。
1、2、3、4、5!
5秒カウントし、シャッターを...閉じない?
聞いたことがある。電気式シャッターは、寒さでバッテリーがやられ、シャッターが切れなくなる。機械式シャッターは、グリスが凍り、シャッターが切れなくなる。
このとき僕が使っていたのは、1966年製のヤシカ。クラシカルだがいかにも頑丈そうな、機械式シャッターのカメラだ。僕のカメラは電池を使うため寒さに弱そうだったので、父の古いカメラを引っぱり出して持ってきていた。ただでさえ経年変化で固くなっていたグリスがやられたか!
僕は奥歯をかみしめ、フィルムを巻き上げる。
1、2、3、4、5!
カウントし、フィルムを巻き上げる。
そのとき、シャッターが閉じた。フィルムを巻くときのショックで、閉じることがあるのか!
やわらかい光は、ときおり激しくゆらめき、ひらめく。
僕は再びシャッターを切った。
また閉じない。構わずフィルムを巻き上げる。
まだ閉じない。
再び5秒カウントし、フィルムを巻き上げる。
今度は閉じた!
右の方で光が渦を巻く。
端の方はオレンジ色に光っている。
僕はカメラの向きを変え、シャッターを切る。
今度も閉じない。
構わない、シャッターを開きっぱなしでフィルムを巻き、5秒露光を続けた。
フィルムが尽きるのを見届けたように、オーロラは消えていった。
僕は全身の震えを押さえることができなかった。
ひざの力が抜け、その場に崩れ落ちるように座った。
目の前にはヤシカが立っている。
その命とも言えるシャッターを凍り付かせながら、なおも光をとらえ続けたヤシカ。
僕はヤシカを手に取り、静電気が起きないようにゆっくりとフィルムを巻き取った。
数分後、空はすっかり雲に覆われてしまった。
すべてが、最後の瞬間に合わせて力を振り絞った。
オーロラも。星空も。ヤシカも。フィルムも。
カメラを、急激な温度変化から守るためにクーラーバッグにしまいながら、僕はもう一度空を見上げた。
今は真っ暗だけれど、確かに僕はオーロラを見た。あの空に輝いていた。
白樺の木のはじける音が、また一つ、広い湖上に響いた。
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