ニーチェニュウモン
ニーチェ入門
竹田青嗣著
かなり著者の見方が前面に出てる感じの書き方で評価等は分かれる本かも。哲学書は今まで読んだこと無いので一般的なスタイルと言うものは分からないですが。
現代文明論 上でニーチェに触れたので読んでみましたが、正直この本の内容をまとめる自信は全く無いです。本書を読んだ方が速いと思います。このKWを読んで興味を持った方は是非本書を読んでみて下さい。ここでは簡単なまとめとKWや著者の考えが現れているところを抜き出しリンクを貼っていきたいと思います。『ニーチェ入門』入門となれば幸いです。
二〇世紀半ばまでニーチェはナチズムに影響を与えた危険な思想家とみなされることが多かったが、その後それまで最大の思想だったマルクス主義の凋落と入れ代わるようにフランスを中心としてニーチェルネッサンスと言うべきものが起こる。クロソウスキー、ジャック・デリダ、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズなどといったポストモダニズム思想の中心人物たちによる"ニーチェの復権"が大きくものをいっている。そして現在ではニーチェは現代思想の最大の源流とみなされている p9。マルクスとニーチェは、ともに十九世紀前半にヨーロッパに君臨したヘーゲル哲学への強力な反対者として位置付けられる p10(動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会と言う本は読んでみました)。
ドゥルーズは現代思想におけるニーチェ復権の最大の功績者と言えるだろう。ドゥルーズがニーチェから受け継いだ考え方の核心はふたつある。ひとつは近代哲学をその問題の内容において問わないで、その「起源」、つまり「なぜそのような問題が設定されたか」と言う点を問題にする。もうひとつは伝統的に近代哲学が問題にしてきた「認識」や「真理」については問わないで、つねに事象の「意味」や「価値」を問題にするという考え方である p14。
起源を問うとはどういうことか、カントは「物自体」と言い、ヘーゲルは「絶対知」を主張した。またショーペンハウアーはペシミズムを説いた。しかしそれらの言説はようするに、人間に道徳を薦めるために語られているのである。そうニーチェは言っている p15。
わたし(竹田氏)がニーチェを読み直して強くもった印象は、ポストモダニズムはニーチェ思想の可能性をその1番深いところまでは汲んでいない、ということである。これは以降繰り返し出てくることになるが、ニーチェ思想の柱は三つある。ひとつは「ルサンチマン批判」。ひとつは「これまでの一切の価値の顛倒」ということ。そして最後に、「ニヒリズムの克服」すなわち「価値の創造」ということである。ポスト・モダニズム思想ははじめのふたつについてはニーチェの可能性をうまく汲み上げている。しかし最後の点についてはその可能性を殺している、というのがわたしの考えである p18。
ニーチェの思想はなぜ「意味」と「価値」についての新しい思想と言えるのかこのことは本書における最も重要なテーマとなるだろう。というのはこの問題なしには「価値の創造」について何ひとつ語れないからである。
近代哲学の大きな峰は何といっても17世紀のデカルト、18世紀のカント、そして19世紀のヘーゲルという事になる。この近代哲学の山脈は全体として何を企てたのか。大きく言ってふたつある。ひとつは正しい認識の原理を打ち立てること。もうひとつは、人間の「善悪」の新しい基準を打ち立てることである
近代以降自然科学という新しい世界観の登場とともにキリスト教の世界像がどんどん崩壊していく。そこでまず大きな問題となったのは人間は自分の力で果たして世界を正しく認識する能力をもつのか否か、ということだ(略)一体どの世界像が正しいのか、またそれはどうやって証明できるのか、ということが問題になったのである。
つぎに、それまで何が「正し」くて何が「悪」なのかを教えていたのはいうまでもなくキリスト教だったのだが、キリスト教の信仰の崩壊はこれまでの「善悪」の基準の崩壊を意味する。そこで近代哲学は何としてでもキリスト教神学に代わる新しい「善悪」の基準を打ち立てる必要があったのだ p50-p51
こうして、ヨーロッパの近代哲学は、まず第一に、「果たして人間は世界を正しく認識できるのか否か」という問題を中心に展開することになる。これは「主観」と「客観」(人間の「認識」と「現実それ自体」といってもいい)は一致するか、という問題のかたちをとった。第二の中心は、何が「善」で何が「悪」かをどのような仕方で明確に言えるか、という問題である。p51
第一の「認識」の問題についてはこうだ。カントは「物自体」という概念を出して、人間の理性の能力では「世界それ自体」(=物自体)を認識することは不可能とした。しかしヘーゲルは非常に独創的な仕方でカントの説をひっくり返す。彼によれば、人間はその長い理性の「歴史」のプロセスを通じて最後には「絶対知」に達し得る存在であるということになる。人間の「歴史」とは、理性がますます深いかたちで自己を実現していくプロセスなのである p52。
第二の問題については(大幅に略)ヘーゲルに言わせれば、カントはただ人間に、道徳的であることが「善きこと」だからそうしなさいと進めているにすぎない。そうではなくて、人間は自分の自分の存在の本質を深く知れば知るほど「善きこと」をめがけるべき理由を自らつかむような存在なのだ、とヘーゲルは言うのである。(略)
さてヘーゲルが19世紀の前半にそういった大きな哲学体系を打ち立てたあと、その反動ともいうべき動きが起こる。哲学における半ヘーゲルの流れがそうだ。ドイツではシェリングやショーペンハウアーがその代表だが、それは主として、反歴史主義や反理性主義の形をとった。ヘーゲルは、近代の合理的理性は歴史や社会や人間の本質を深く捉えうるし、そのことによって世界の矛盾も解決する、という考え方を代表する哲学者だといえるが、反ヘーゲルの思潮はこれとは逆の立場をとる p54。
すでに見てきたように、ショーペンハウアー哲学の大きな看板は厭世主義(世界の矛盾は解決できない)、非理性主義(理性を超えた力としての根源的意志)である。
『反時代的考察』(1873-76)について
『反時代的考察』で重要なのは、ここでのニーチェのドイツ文化批判の中身であるそれはどういうものだったか(略)「われらの近代が次々に提出し、それを見ることから、死すべきものがおそらくなお長きにわたって自分の生を光明で満たすことへの衝動を受け取るところの三つの人間像がある。それはルソーの人間、ゲーテの人間、最後にショーペンハウアーの人間である」(小倉志祥訳)。まず「ルソーの人間」は「自然こそが善である自然に帰れ」と叫ぶが、このとき彼は自分自身を超え出たものに強く「憧れて」いる。この人間類型では、現実への強い否認と「本来的なもの」への激しい憧れがその特質をなしており、ここからしばしば強烈な革命への希求が現れる。
つぎにゲーテの人間。これはルソーの人間が煽り立てた過激なロマンの鎮静剤をなす。(略)ゲーテの人間はルソー的ロマン主義をよく理解しているが、その激情からは身を離して世界を「観想」する態度をとるp57-58。
ショーペンハウアー的人間が「観想的な」ゲーテの人間につけ加えたもの、それは人間の自己自身に対する「誠実」の能力である、とニーチェは言うつまり、ショーペンハウアー的人間とは、人間や世界の赤裸々な「真理」を深く認識し、それがどれほど矛盾に満ちていようとあくまでこの「真理」にしたがう事で「生の本来的意味」をつかみとろうとするような人間とされるのである p58-59。
もちろんすでにニーチェはルソーのようにロマン主義的に直接的な現実変革を叫ぶことの無効性を知っている。そこで彼はショーペンハウアーの哲学からひとつの"文化的戦略"の可能性を見出す。直接に現実の変革をめざすのではなく、これまでの「文化」の概念に戦いを挑むことによって、人間が誰しも持つ「ロマン性」や「理想」を生かしつづける可能性を与えること。(略)おそらくここに、『反時代的考察』におけるニーチェ最大のモチーフがあった p61-62。
人類の究極の目標というものを考えて多くの人間はこう言う。それは万人あるいは最大多数の幸福であると。実は違う人類全体とか歴史全体とかは全く問題ではない(これは反ヘーゲル的である)。問題なのは、どれだけ高い・非凡な・有力な「人類の判例を産み出しうるか、ということだ。そうニーチェは主張する。(略)おそらく読者の多くはこういう考え方に対して直感的に次のように思うのではないか。
(略)それは、個々の人間の生活を何らかの目標の手段とするような考え方である。個々人の生はそれ自体が取替えのきかない目標、目的なのであって、すると「より高い人間とは」一般の人間が豊かにその生活を過ごせる条件をつくり出すのに貢献する人間のことでなくてはならない。そういう観点からはニーチェの考え方は"顛倒"しているのではないか、と。
これはじつはニーチェ思想の全体的な評価に関わる重要な問題である。しかしわたしはさしあたって、できるだけニーチェの意を汲んでみることにする p65-66。
ともあれ『悲劇の誕生』、そして『反時代的考察』という初期の著作においてニーチェはショーペンハウアーの影響を色濃く受けながらも独自の思想家として姿を現したと言うことができるしかしもしその後にニーチェがこの段階で考えたことからそれほど遠くへ進めなかったら、彼はとうてい20世紀における"最も問題的かつ重要な思想家"とはなりえなかった。本当に深く考える思想家としてのニーチェの歩みは、この後始まる p71。
[キリスト教批判]
ここから"現代文明論 上 「西欧近代」再考"でもふれたグート、シュレヒトの話の後(ここらへん日本人なら知っておきたい神道のよし、あしと読み比べてみても面白いと思いますが)、
「他人のためを思うこと」はもちろん「わるい」こととは言えない。それは人間が社会的な存在であるかぎり、自然な「よい」事とされる理由を持っている。しかしまた一方で、人間が自分の「快」・「悦び」・「エロス」を求めることも、それ自体は「わるいこと」であるとはいえない。それが「わるい」こととみなされるのは、その行為が他人を侵害する場合か、あるいは公共の秩序に反するものとされる場合である p82。
「僧侶的評価様式」は(略)「卑俗」で「弱い」人間たちから出てくる。それはつぎのような推論から現れる。「この猛禽は悪い。だから猛禽とはできるだけ縁の無いもの、「むしろその反対物、つまり羊こそが、――善いといえるのものではあるまいか?」
ニーチェによればこの僧侶的評価価値の本性は「反動的である」なぜならこの評価は、まず「敵(強いもの)は悪い」という否定的評価をはじめに置き、つぎにその"反動"として「だからわれわれ(弱い者)はよいと言う肯定の評価を作るからだ。このことからこの「僧侶的評価様式」起源を見てとることができる。つまりは弱者の「ルサンチマン」(恨み、嫉妬、反感)から出てくるものであると p84-85。
パウロによって打ち立てられた世界宗教としてのキリスト教(教会)は、この「善悪の評価をさらに屈折させて独自の価値の体系を築きあげることになった。
すなわちそれは個々人が「唯一の神に贖い切れない負債(罪責)を追っているという考えを打ち立てたのである。人びとはこれによって、自分の存在自体を"疚しい"ものと考えるにいたる。ヨーロッパにおけるキリスト教の支配とは、実は万人に対するこの罪責観念の普遍化という事を意味する。そして、「人びとの罪を贖って十字架にかかったキリスト」という伝説は、この制度を打ち立てるのにまさしくこの上ない絶妙の神話だったとニーチェは言う。(略)神みずからが身をもっておのれ自身に弁済をなし給う、神こそは人間自身の返済しえなくなったものを人間に代わって返済しうる唯一者であり給う。――債権者(lightcyan注:神)みずからが債務者のために犠牲となる、それも愛からして(信じられることだろうか?――)おのれの債務者への愛からして!…… p89
ニーチェによれば、「善悪」という顛倒した評価価値はまだ敵を目の前に置いている。「彼は敵だ敵は悪い。だから、私は善い」と。しかし「良心の疚しさ」ではさらにルサンチマンが深くなる。なぜならそれは、敵に対して向けられていた憎悪や反感や攻撃本能がもはや行き場を失って(現実における自分の非力が決定的である場合そうなる)、ついにはその所有者自信に向け変えられるということだからである。
こうして今や「悪い」ものは目の前の「敵」ですらなく、この「私」の存在、私の生存それ自体であるということになるのだ p90。
新しい無神論たち(哲学者、科学者、合理主義者、懐疑主義者等々)はキリスト教とその神の国の信仰に反対した。しかしじつは彼らもまた「新しい信仰」をもっている。近来哲学や近代科学における「真理への意志」(正しい認識へのあくなき追求)なるものがそれである。なるほどこの近代における「真理への意志」によって、世界像としての、また道徳としてのキリスト教は没落した。だがニーチェによればこの近代の「真理への意志」は、「禁欲主義的理想」という本質をそのまま保持しているのである p95。
「真理への意志」は、要するに「絶対的に正しいものが存在する」という"信仰"を前提としている。近代科学も近代哲学も、この「絶対的にただしいもの=真理」を追い求めようとする情熱において一致する。そしてニーチェによればこの"信仰"はキリスト教の「禁欲主義的理想」から生じたものなのだ p96。
近代においてキリスト教の世界観が没落したとき、しかしヨーロッパの人間はこれに代わる新しい人間像を提示できなかった。その理由をどう考えればいいか。彼はこう言う。「禁欲主義的理想を外にしては、人間は、人間という動物は、これまで何の意味をももたなかった」ためだ、と p97。
ヨーロッパ独自の人間の価値観、それは「何のために生きるか(苦しむか)」という問いに対して「一つの意味」を与えつづけてきた。「神のために」、あるいは「あの世の生のために」という意味を。これが「禁欲主義的理想」だが、あえてこれをはっきりと規定するなら」それは「虚無への意志であり(略)生のもっとも基本的な諸前提にたいする反逆」だと言える。
つまり現代のニヒリズムとは、キリスト教的理想の反対物では決してない。それは実はこの「虚無への意志」というヨーロッパの理想の本性が、宗教的な覆いを剥がされて露になったものにほかならない……。
これが『道徳の系譜』におけるニーチェの強烈なキリスト教批判の大要である。もはや明らかなことだが、彼のキリスト教批判は単なる「宗教」の批判でもなければ、単なる「道徳」の批判でもない。 p98
道徳の起源は恐怖や不安にある。だから、道徳は群れ集まろうとする本能に由来する。またそういう意味で道徳は"弱さ"の現れである。道徳の代表的な徳目は「利他性」だがこれは弱者から出てくる。したがって道徳の基礎には願望がある…… p103。
道徳が不安や恐怖を起源とすること、弱さから出ていることは事実だが、そのことは別に道徳を無価値なものにしない。ニーチェ自身が何度か主張しているが、物事の「起源」と「本質」は別物なのである p104。
「汝の敵を愛せよ」というキリスト教の教えは何を意味しているか。せんじつめて言えばそれは、「自分のために何かをなしてはならない、ただ他人のためにだけ何かをなせ」という命令を意味する。そしてニーチェによればここにはある根本的な顛倒が存在する。「まず自分のために努力する。そしてつぎに、その余裕と力があるとき人は他人を助ける」ということが人間の道徳的"自然性"だとすると、キリスト教はこれをまったく逆転しているからである。 p105
ところで、あるとき何者かが現れ、「自分のためになすな、ただ他者のためになせ」という道徳的命令をもたらすとする。これは人間の道徳の"自然性"に反しており、そのままでは通用しない。しかしこの要請はある場合だけ、"自然性"を超えて受け入れられる可能性がある。それはどういう場合か。
何らかの「超越者」、何らかの「絶対」が仮構され、それがこの世の一切を超えて大事な「真理」である、という信仰が成立するときである。そのときそれは、「自分のために何ものをもなすな、それは悪であるから。ただ絶対的な真理、あるいは正義のために自分のすべてを捧げて生きるのが最もただしい」という独自の命題として自立する。キリスト教がなしとげたのはまさしくそういうことだったとニーチェは言う。
こうしてキリスト教の「絶対的な道徳」が現れるが、それはもはや道徳の自然な存在理由から離脱したものとなっている。それはただ絶対的「真理」と「正義」を追求することを、人間の一切に優先する目標として設定することになるのだ。
たとえばニーチェは、"自分を正しいと言う者をこそ最も警戒せよ"、と繰り返し語っている。「いったい、人間の未来全体にとっての最大の危険は、どういう者たちのもとにあるのか?それは善にして義なる者たちのもとにあるのではないか?」(『ツァラトゥストラ』) p106。
さてはじめに述べたように、ニーチェの思想が20世紀になって再びよみがえったのは、なにより彼のキリスト教批判が、ある特定の「信念」、「主義」、「イデオロギー」などに対する普遍的な批判思想として読み直されたからにほかならない。というのも、このニーチェの道徳批判には、信条(ドグマ)、主義、イデオロギーといった「正しさを絶対化するような信念」の一切を徹底的に批判し、解毒するような原理が封じ込められているからである。またそこで、「正しさ」の「信念」なるものがいかにしてしばしばルサンチマンやその他の意識できない情熱によって支えられるかという、その真理的機制(メカニズム)がみごとに捉えられているからである p110。
多くの場合人々は示された「絶対性」にひざまずき、そのことであの自然を顛倒した道徳や命令に従う。なぜこのような奇妙な服従が成立するのか。つまり、支配され虐げられていた人間たちの「ルサンチマン」が自分に苦しみを与えていた「何ものか」に対する復讐のためにこの「顛倒」を受け入れるからなのである p110-111。
ニーチェに、「真実なるものはない、ただ解釈だけがある」という有名な言葉がある。(略)
「解釈」とは、世界がなんであるかについていわば任意の「物語」を立てることである。世界を解釈するもの、それは私たちの要求である」(『権力への意志』)つまり人々の要求が多様であるのに応じて「世界が何であるか」についての無数の解釈が存在する。それだけが根本の"事実"なのである。そしてその中で、いわばもっとも力を持った(説得性を持った、または権力をもった)「解釈」がこれまで「真理」と呼ばれていたにすぎない。これがニーチェの考え方である p115。
「これこれのものはこうであると私は信ずる」という価値評価が「真理」の本質にほかならない。価値評価のうちには保存・生長の諸条件が表現されている。すべての私たちの認識器官や感官は保存・生長の諸条件に関してのみ発達している。 p116
[力]
では「解釈」の本質は何か。それは「価値評価」にほかならない。「価値評価」は何を根拠としているか。生命体のそれと意識されることも明示されることもない「保存・生長の諸条件」を根拠とする「全ての生あるもの」はこの「保存・生長」を不断の要請として自らに課している。これをニーチェは「力」と呼ぶ p117。
[ニヒリズム]
ヨーロッパに「ニヒリズムの到来」という事が起こるが、しかしその理由は単に「神」が死んだと言うことに還元できない。神学的世界像の代わりに登場した、哲学や科学という近代的思想の中にニヒリズム的本質が存在するのである。(略)ニーチェによればそれは例えば「ロマン主義」、「感傷主義」、「相対主義」、「懐疑論」、「機械論」、「無神論」、「ペシミズム」、そして「デカダン」といった諸形式をとって現れるのだ p122。
「徹底的ニヒリズム」とは、この世を越えたところに何か「神的なもの」あるいは「神聖なもの」などはいっさい存在しない、と言う確信である。この確信は必ずしもキリスト教の世界像に対するアンチテーゼとして選びとられたのではなくて、自然科学の合理主義的な世界像から必然的に現れたものである。
宇宙とは、自然の物理科学法則に貫かれたいわば機械仕掛けの天体運動にすぎず、この天体以外にはどんな特別の世界も存在しない。天国と地獄も作り話にすぎない。だから「彼岸」もなければ「神聖」もない。だからまた「よいと悪い」は人間の社会が考え出した取り決めにすぎない。すると実は「一切は許されているのではないか……。これまでの世界像から超越者を排除すると、ここまでゆきつかざるををえないのだ p123。
[超人]
「超人」思想の要点を整理してみよう
(1)人間がこれまでもっていた「理想」、キリスト教、哲学のそれは、本質的にルサンチマンを内包している。したがって、それは結局「生の否定」の思想にゆきつかざるをえない。
(2)「神の死」という事実は、これまでの一切の人間的価値の根拠が抹消されたことを意味する。近代哲学は、キリスト教的価値の代わりとなるものを打ち立てることができず。ただ、キリスト教的価値を変装させて生き延びさせたにすぎなかった。そのために近代哲学以降の諸価値は、そのニヒリズム的本性を露出させることになった。
(3)このヨーロッパのニヒリズムを克服する方法はただひとつしかない。古い価値への立ち戻りを(=反動)を禁じてにして、むしろニヒリズムを徹底すること。つまり既成の価値の根拠を徹底的に捨て去り、積極的に新しい価値の根拠あるいは新しい価値の「目標」を打ち立てることである。それ以外には、人間がこの必然的に現れ出たニヒリズムを克服する道はない。
(4)新しい価値の「根拠」とは何か。……「力への意思ということ。新しい価値の「目標」はなにか。……「超人」の創出ということ p135-136。
「超人」思想の基本コンセプトそれ自体は、さほどやっかいなものではない。要するに、これまでの「道徳」と「理想」を廃棄し、新しい「道徳」と「理想」を打ち立てることがその眼目である。(略)それが存在することによって人間をいっそう"強く"、"高貴に"するような「道徳」と「理想」を打ち立てること。言い換えれば、人間に、より深いルサンチマンやニヒリズムでなく、より大きな「エロス」と「力」を生み出させるような「道徳」と「理想」を創出すること。そのために、さらに「高い」人間のモデル(超人)を生み出すこと。そして、今生きている人間はこのより高い人間の創出ということをおのれの「目標」として生きること p136-137。
この「階序」の思想の要点はわたし(注:竹田氏)の考えでは次のことにある。
ルサンチマン思想が現れる根本の理由はなんだろうか。ニーチェに言わせればそれは、この世に強者と弱者(あるいは優れた人間と劣った人間)が存在しその序列が存在するという動かしがたい事実を、否認することからはじまる p140。
「大衆化」した社会の中で、人間がますます俗物化し(スノビズム)、精神の高貴さと偉大さを忘れ、世俗の欲望の中に埋没するという大衆批判は、すでにキルケゴールにもあったし、後のハイデガー哲学にも共通するものである。(略)いわゆる「強者の論理」とは本質的に違ったものなのである。
わたしたちはしばしば、強者と弱者とが存在するという事実の是認と、「強者の論理」(強い・弱いという秩序だけが存在するにすぎない)とを混同する p141。
ニーチェによれば、ヨーロッパ的な宗教、思想、文化の諸制度は、もし放っておけばますます凡庸化し、虚弱化した人間を生み出す方向に向いている。だからこの方向を逆転すべきなのである。そしてこの逆転の方策が「階序」の思想と呼ばれる p142。
たしかに、ナチズムには、ニーチェ風「超人」思想を社会革命として実現しようという考え方が含まれていたかもしれない。しかしわたし(注:竹田氏)の判定では、根本のところそれはニーチェ思想とは無縁の考え方だというほかない。というのは、「超人」思想は、文化に対する一つの本質的洞察なのであって、何らかの理想を制度的に実現するという「社会革命」の思想ではないからだ。ある理想を「社会革命」としてもたらすという考え方を、ニーチェはロマン主義の一形態として激しく攻撃している(たとえばルソーへの批判) p144。
「弱者」にとって本当に重要なのは、自分より「よい境遇」にある人間に対して羨みや妬みを抱くことではなく、より「高い」人間の生き方をモデルとして、それに憧れつつ生きるという課題である。また「強者」にとって重要なのは、他人の上にあるということで奢ったり誇ったりする代わりに、自分より弱い人間を励ましつつ、つねに「もっと高い、もっと人間的なもの」に近づくように生きるという課題なのである p146
*'06 5/26 p98,p105,p106,p116のところを書き足してみました。
以下'06/6/28
このあと3章の残りを永遠回帰に費やし、4章全部を「力」あるいは「力への意思」にあてて本書は終わりますが、
「すなわち、一種の肯定が最初の知的活動なのである。はじめに『真なりと思いこむこと』ありき!それゆえ、どうして『真なりと思いこむこと』が発生したのかを説明すべし!」(『権力への意思』)p204
とか、
「快」と「不快」のうちにはすでに判断がひそんでいる。p205
とか自分が漠然と感じていたことに近い気がします。あとすでに打ち込んだ部分ですが、「その問題の内容において問わないで、その「起源」、つまり「なぜそのような問題が設定されたか」と言う点を問題にする。…ようするに、人間に道徳を薦めるために語られているのである。」p14-15とか、「「敵(強いもの)は悪い」という否定的評価をはじめに置き、つぎにその"反動"として「だからわれわれ(弱い者)はよい」」p84とかも、「敵は悪い」…「だからわれわれはよい」というのは、世の中であふれてる気がしますし、「すべての私たちの認識器官や感官は保存・生長の諸条件に関してのみ発達している。 」p116とかも、自分の考えに近い気がします。
あと、「個々の人間の生活を何らかの目標の手段とするような考え方」でも別に構わない気がします。むしろ「個々人の生はそれ自体が取替えのきかない目標、目的」と、いつか必ず終わってしまう人生を目標にする方が、孤独なような気がするのですが…。まぁ、「人類全体とか歴史全体とかは全く問題ではない」というのは理由がよくわかりませんし、賛同もしませんが。でも部分部分ではすごく惹かれるところがあります。しかし全体を見通そうとすると、自分の頭では難しいです。またくりかえし読みたいと思います。
7/12 p51追加
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2011/05/30
若葉 以下KWからの引用です。ニーチェに、「真実なるものはない、ただ解釈だけがある」という有名な言葉がある。(略)
「解釈」とは、世界がなんであるかについていわば任意の「物語」を立てることである。世界を解釈するもの、それは私たちの要求である」(『権力への意志』)つまり人々の要求が多様であるのに応じて「世界が何であるか」についての無数の解釈が存在する。それだけが根本の"事実"なのである。そしてその中で、いわばもっとも力を持った(説得性を持った、または権力をもった)「解釈」がこれまで「真理」と呼ばれていたにすぎない。これがニーチェの考え方である p115。
すみません、コメント欄たくさん使ってしまって。上記の部分で、わたしは9・11とビン・ラディンの暗殺の件を思い出していました。両者とも、無数の解釈の一部で、おのおのが信じる「真理」によって起こった事件なのだと。そう考えると、ちょっと、どきどきしてしまいますね。心の中に溜まっていた、もやもやが晴れたような気がしました。つまり「真理」という名においては、どちらも間違っては、いなかったのだと。そう信じることで実行きたのですね。世の中から戦争やテロや殺戮がなくならないはずだな~と、その点だけは、ものすごく納得できました。(この件に関する議論には、わたしは有効な答えなんて持ってないので、ご了承ください)。ふと、感じたままにコメント、させていただきました^^
lightcyan 僕も哲学関係の本を読むようになったのは、国際情勢で何を良しとしてなにを良しとしないのかとか、分からなかったからというのが大きいんですよね、細かくは語りませんが。ただ、『これがニーチェだ』の方も読んでいただくと、なにか心に抱いてはいけない考えを抱いてしまうようなどきどき感や、もやもやが晴れるような感じが味わえると思います。
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竹田青嗣による、ニーチェの一般向け入門書。 ニーチェは時代そのもの、人類の歴史そのもに真正面から戦いを挑んで、人類文明そのものに深い楔を打ち込んだ哲学者。 とても刺激的で面白い。分かりやすい...
ジル・ドゥルーズ 『ニーチェ』
- (2026)
ドゥルーズの著作の中では、たぶんもっとも読みやすい部類の本。 原著は1965年に刊行された。 余計なことを書かず、要点(だけ)を押さえてるところがいい。 久々に拾い読みして思ったのは、 <...
ニーチェ
- (ゆゆゆゆゆ)
現代日本の一般人が読んで、もっとも面白いと感じる哲学者だと思います。一般人からみると、刺激的です。いいところをついてます。分かりやすいです。 ただし、インテリならともかく、原著やその日本語訳...
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竹田青嗣『ニーチェ入門』(筑摩書房)
- 有沢翔治のlivedoorブログ | Tracked: 10.12.14 5:32 pm
クリスマスのシーズンに 本来は十二月二十四日に読もうと思っていたのです。ニーチェはこの本にもあるようにキリスト教の本質を浮き彫りにしました。しかも竹田青嗣さんの入門書 ...
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拒否できない日本
日本人なら知っておき...
日本はどう報じられて...


