「ライフ・アクアティック」(ウェス・アンダーソン監督)
綺麗な凝った「絵」なんて誰にでも撮れる、しかしその「絵」をつなぐことはそうそうだれにでもできることではないのだ。つなぎ間違いも最早ひとつのつなぎ方なのだから、つなぎ間違いを間違えるということも今では起きたりする。あるいはそのつなぎは確信犯的にすさまじく酷いから逆にちょっとは良いかなあということもあったりする。つまりつなぎ方には最早ルールらしいルールなんて存在しないのである。しかし凝った綺麗な「絵」のためのルールは今だってもちろん存在している、そしてそれをどう使おうととりあえず「有効」ではあるのだ、たしかにそれによって綺麗な「絵」にはなる、個々の「絵」はたしかに技術的に綺麗になり得る。しかし一方つなぎ方にはルールはないのである、つなぎ方はあくまでも無根拠なままなのである。するとつながなければならないということを前提にあらためて「絵」を撮ろうとするとなにをどう撮るべきなのかが突然分からなくなってしまったりする、つまりただわたしの「美意識」とやらで綺麗に「絵」を撮ったところでなんら意味がないことがつなぐことの無根拠性によって撮る者に突きつけられることになる、「つなぎ」はわたしの閉鎖的な内面を容赦しない、「つなぎ」はそれを解体させてわたしを創造の無根拠性に追い込む。つまりつなぎ方を決断することが個々の画面を二次的に決定するのである、個々の絵がまずあってそれをつなげば良いというのではなく、まずはつなぐ事が先行してつなぎが絵を決定するということである。ゴダール風に言うならば「つなぐことだけが創造なのである」ということになる。
ウェス・アンダーソン監督はつなぐことができる。したがってかれの映画は少なくとも創造的ではあるのだ。つまりその主題が分かりやすすぎたとしても、あるいは意匠が過剰におしゃれであったとしても、それらの「個性」は決して閉鎖的で独りよがりではなく、あくまでもつなぐことの無根拠性の「洗礼」を受けた強靱なものとしてそれらは画面に定着しているのである。だからかれのスタイルはガチガチのように見えてしかし実際はとても生き生きと機能している、つまりかれの撮る画面が登場人物たちを厳密に規定しているように見えても、しかし実際はかれのつなぎの独創性こそがその人物像を豊かなものとして躍動させているのである、つまりかれのつなぎは生き生きと機能しているのである。したがってウェス・アンダーソンが本物の映画作家であることは最低でも言い切れるのだ。「ライフ・アクアティック」とても面白い映画です、恵比寿ガーデンシネマという場所柄もなかなか良いとおもう。
- 2005/06/22更新
- 2005/06/16登録
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