ほそかわガラシャふじん
『細川ガラシャ夫人』
三浦綾子のは『母』以来だが、クリスチャンである彼女がこのテーマで歴史小説を書いたというのは不思議ではないと言えば当たり前過ぎる言い方だが、彼女がどんな視点で書いたのかは興味のあることだった。
明智光秀の娘で細川忠興の妻となった玉子であったが、信長の家臣である父光秀像とか舅である細川藤孝像、或いは荒木村重の謀反の一件で登場する高山右近とかの描き方には、史実に忠実である面と彼女が何を強調したかったのかの面の両方に興味深い。
忠興についてネットで調べると、利休の弟子でもあった第一級の茶人等という記述もあり、そこら辺野上弥生子の『秀吉と利休』には何か触れているところがあったのか、何せ利休にリンクするとなれば、もう一読したい気にもなる。
筋の大まかな点は「千冊千夜」で取り上げられているから、大凡知ってはいるが歴史小説って結構面白いと思うこの頃である。
戦国の世にあって、女は戦略の為人質にもなり必要あって離縁されて家元に返されるということもあり、言わば道具として扱われる時代の女性像と玉子が後に選んだ選択に作者はどんな女性像を描こうとしているのか。
或いは矢張りクリスチャンとして「原罪」という観点から、正しく生きようと思っても叶わない政治的環境との相克をどう感じ取っていたのか等々、読み進めるうえでの興味もある。
そうこうしていて上巻を漸く読み終えた。風邪で寝ている間と病院の待ち時間に読んでいた。
暴君信長の記述が多く、いずれ家臣光秀によって自害を迫られることになるのだろうが、それは下巻となる筈だ。更には光秀自身も秀吉に攻められる。ある記述では逃亡中に農民によって殺されるというのもあるが、自害となっているのもあって定かではないが作者はどういう記述とするのかも興味がある。
メインのガラシャ夫人=玉子の行く末が本題だが、この著書は玉子と父光秀の視点で書かれている。戦国動乱の世の象徴としての父光秀とその時代の女性のあり方と玉子という数奇な自我を浮き彫りにした著者の視点はクリスチャンという自身の立場を超えたところにあって共感出来る。
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