やなぎみわ
たしかに自分の素顔を隠すためにこそ、仮面というものは、この自分の顔に、着けるものなのだが、しかし同時に、仮面を着けることとは、その仮面の者に(ニセの自分に)、なってしまう、ということでもあるのだ。つまり仮面をつけることには、二重の効果がある、自分の素顔を隠す、という効果と、そしてその「自分ではないだれか」になりきってしまう、という効果と、そんな二重の効果が(裏と表の効果が)あらかじめ仮面には、含まれているのである。だからときに、ひとつの「仮面」を着けて、「別の誰か」を演じているつもりだったのが(つまりそんなだれかを、演じつつ、現実に対して、距離を持って、順応しているつもりだったのだが)、ところがその仮面に、いつの間にかになじみすぎてしまい(そのキャラが、身につきすぎてしまい)、それで気づいたときには、その仮面が、素顔と、癒着してしまって、最早取り外すことができなくなってしまっていた、と、そんな自分ではない自分が、本当の自分に、とってかわってしまった、と、そのようなことは、充分ありえることなのだ。自分は素顔を隠し、巧みに、現実的に、振る舞っているつもりだったのだけど、ところがいつのまにかに、自分を見失い、その演じている当の者になってしまっていた、と、そんな痛々しい悲劇も、ごく普通に、よくあることではあるのだ。あるいはまた、その逆の場合では、自分はそれにすでになりきっているつもりなのだが(つまり自分は、見えている通りの、このような者であると、おもっていたのだが)しかし実は、それは、ただ本当の自分を隠しているだけのことであって、つまり本当の自分から、逃れたいがために、今見えているこの者であると、ただ思い込みつづけているだけであって、ところがある時に、ある局面で、その仮面が(ほんとうの自分からのがれるための仮面が)壊れてしまって、本当の自分が、図らずも、むき出しで、現れてしまって、そしてとりあえずの「破滅」を迎える(再生可能ではあろう、破滅を迎える)、というお寒い喜劇も、また、良くあることではあるのだ。「わたしはわたしであるべきだ」という、わたしを巡っての、本質的な問題は、しかし仮面という道具が加わることで(加わらざるをえないことで)、しかもその仮面に関わる他者が、必然的に、介在することで、さらに複雑に、わたしたち自身を、翻弄することになるのである。つまり仮面を着けることによって、幻惑されているのは、仮面に外からかかわる他人のほうではなく、むしろ、内から、仮面に関わっている(仮面をコントロールしているつもりの)、自分自身のほうなのである、と、その程度のことは、最低でも、現代に生きるものは、あらかじめ心得ておくべきであろう。着けた仮面に翻弄されている、自分の姿というのは、意外に、他人には、まったくお見通しだったりするものなのだ、しかしその当人は、自分が実は仮面に翻弄されている、ということに、まったく気づいていないままだったりするものなのである。そんなあまりにリアルな悲喜劇なんて、まったく日常茶飯事なのである。
女性性とは、多かれ少なかれ仮面として機能せざるをえないのである。あらかじめ与えられてしまった、取り外し不可能な、仮面。もちろん性差とは、自分自身でもあるから、その性差へと、それを悪しきものとして、敵対しすぎてしまうのも、嘘になってしまうだろうが(これはほんとうの自分ではない、と、性差に、敵対しすぎるのも、かなり危険であろうが)、しかしその性差に、なんの疑いもなく、順応しすぎてしまうことも、またどうしたって、危険な嘘になりがちなのである。やなぎみわの「エレベーターガール」という作品は、エレベーターガールになりきった女性たちが、つまりエレベーターガールといういかにも女性的な(女性的でしかない)イメージに完全になりきってしまった女性たちが、超現代的な建物のなかで、無時間的な静寂とともに、佇んでいる、そんな写真作品なのだが、ところがこの作品の中の、エレベーターガールたちは、まったく無個性的な、エレベーターガールに、あえてなりきることで、逆に絶対に見えない個々の内側を、あくまでも隠している、ということを、「露骨に」、ほのめかしてもいるのである。つまりエレベーターガールとは、まったくの仮面なのだが、しかもそれは、男たちに都合のいいだけの、ベタな女性的イメージとしての仮面でしかないのだが、ところがこの作品では、そうなりきればなりきるほどに(確信犯的に、女を演じれば演じるほどに)、彼女たちの、絶対に見えない本性は、あくまでも、隠されているのだ、ということが、逆説的に、強調されてもいるのである。このあたりの、レトリックの巧みさが、この作品では、とてもうまくいっているのだ。エレベーターガール達は、確信犯的に、ベタベタな女性のイメージでしかない、エレベーターガールに、ここではなりきっているのだが、そしてその演技は、「男たちのために演じてあげている」という余裕とも読めるし、また「女であることを自分のために謳歌している」という享楽とも読めるのである。だからそういう意味では、これは、「エレベーターガール」というこの作品とは、女が女を演じる「女天国」ではあるのだが、しかしこの作品では、その女天国という意味の裏に、別の意味も、潜んでいる、ということすらも、「明解に」ほのめかしされているのである、つまり「演じてあげている」にせよ、「謳歌している」にせよ、しかしどっちにしろ、ほんとうの自分たちは、隠れていなければならない、ということでもであり、もちろん主体的に「隠している」、という挑発的な構えは、充分可能ではあるが、しかしそれでも、それをどうしたって、表には出せない以上、つまり女であることの演技をどうしたって降りることができない以上、わたしたちたは、個々に、女という閉ざされた場所に、閉じ込められていなければならない、ということでもあるのだ、つまり現実に対して、絶対的に、隔たりつつ在る他ない、ということでもあるのだ、すると女が女を演じる「女天国」を、そのように、裏の意味として、あらためて見直したならば、この女天国は、そのまま、女地獄という、別の価値も、持たざるをえない、ということなにるのである。「エレベーターガール」というこの作品では、女天国(=女地獄)というこの両義性が、きわめて正確無比に、抽出されているのである。一見まったりしていながらも、だからみじめっぽく見えながらも、しかしそのくせ、ほんとうは張りのある、「男たちの孤独」、とは、まったく異質な、女性たちの孤独。華やかそうに見えて、その実、殺伐とすらしている、彼女たちの孤独。そんな特異な孤独が、この作品では、はっきりと見て取れるのである。女性のエロティックな衝動が、寂しさ、という情感と、結びつかざるをえない、ということの存在論的理由も、この作品をみれば、なんとなく、納得もいくのである。おそらく、この特異な孤独から、女性が、完全に目を逸らそうとすることは、かなり危険なことなのだろう。その者になりきっているつもりが、しかしそれは、ほんとうの自分から、逃れたいがために、そうなりきっているつもりになっている、ということだけかもしれず、つまりこの女天国(=女地獄)ということから、目を背けることは、女性という仮面に、翻弄されはじめる、その最初の一歩なのかもしれない、と。だから逆に、存在論的孤独を湛えた女性というのは、とても興味深くもある、とも言える。もしかしたら、そのような者が、一番自由な存在、なのかもしれないのだ。
おなじくやなぎみわの、「マイ・グランドマザー」という作品は、「エレベーターガール」と、ちょうど一対をなす、あるいは「エレベーターガール」への自己批評的、ないしはひとつのアンサーとして、位置づけられるべき、作品なのである。つまり「マイ・グランドマザー」とは、エレベーターガールたちが隠していた、その内側に、(おなじ方法的展開によって)直接的に迫ろう、というコンセプトの作品なのである(若い女性に、老女の仮面を着けることで、女という閉ざされた場所から、解放されよう、というコンセプト)。したがって簡単に言ってしまえば、「マイ・グランドマザー」とは、「エレベーターガール」においての女天国(=女地獄)という公式を、女地獄(=女天国)という公式に、変換した作品、と、言い切っても良いと思う。そしてその方法としての仮面が、「マイ・グランドマザー」では、表現的に、あらたな展開を見せている、ともいえるのである。この聡明な作品展開は、極めて正確無比なのだ。成功しすぎなほどに、成功している、とおもう。
(現在、原美術館にて、個展「無垢な老女と無慈悲な少女の信じられない物語」開催中。十一月六日まで。)
やなぎみわ公式ホームページ
- 2005/12/27更新
- 2005/10/10登録
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