The Legend of Kikuichimonji
菊一文字の裁ち鋏 沖田総司愛剣伝説
■菊一文字の裁ち鋏は、鋼の刃と鋳鉄のハンドルを持つ、正統派の日本刃物だ。近年一般的な樹脂製ハンドルのステンレス製ハサミは、プレス打ち抜きの薄いステンレス鋼板に刃をつけただけだったりするが、昔ながらの鋼の裁ち鋏は、厚い刃を立体的な三角形に鋳鍛造している。そのため、ふたつの片刃包丁を重ね合わせたような迫力がある。実家で40年近くを経た裁ち鋏は「京都・菊一文字」の刻銘を持つが、菊一文字は後鳥羽上皇そして新撰組・沖田総司の愛剣だったという伝説がある。
■この裁ち鋏が名刀の末裔だと信じる背景には、個人的な実体験もある。実は9歳頃、母の目を盗んで菊一文字の裁ち鋏をいじっていて、勢い余って手を切ってしまったのだ。ジャッキンッという鈍い音とともに、掌の厚い皮がまるで切り絵のような三角形に深く切り離されてしまったのには、幼心にもびっくりした。幸いにも傷はその後無事に癒着したが、今も掌にV字型の刃傷が深く刻印されている。布ばかりでなく皮膚を切った実体験を持つと、たしかに刀鍛冶を引き継ぐ、恐るべき技だと身をもって納得する。沖田総司に斬られたと考えれば仕方ないと、妙な正当化もしたくなるわけだ。
■「菊一文字」の名は、鎌倉時代に備前の一文字派刀匠だった則宗が、一文字派の銘である「横一文字」の上に、後鳥羽上皇の御番鍛冶の証として十六弁の菊紋を刀に彫ったことに由来する。菊一文字則宗は、日本を代表する名刀として誉れ高い。とくに、司馬遼太郎の『燃えよ剣』や『新鮮組血風録』では、新撰組の沖田総司の愛剣として登場する。現在、山王(永田町)の日枝神社が所蔵する糸巻太刀は、国宝に指定されている。
■株式会社菊一文字は、京都市中京区三条通河原町に現存する。刀匠だった当主・泉家は、明治8年(1876年)の廃刀令で作刀を禁じられたのを機に、京都で料理・工芸・生花用の打刃物に転身した。そのとき、「菊一文字」を屋号、鍛冶を象徴するクツワ印を紋とした。戦後1954年には東京支店を開き、神田小川町ですでに半世紀の歴史を編む。菊一文字の銘をつけた刃物は、他にも全国にいくつかある。長崎・菊一文字は、京都の支店ではないようだが、同じ屋号・商標・来歴を名乗る。伊勢の二見にも、京都のクツワ印は使わないが、明治創業の菊一文字則宗本店がある。夫婦岩で有名な二見興玉神社境内にも、1952年に本店から分家した菊一文字則宗支店がある。実家の裁ち鋏は、クツワ印の刻印がある京都・菊一文字の作であり、いよいよ、幕末の京都で剣を振るった沖田総司との因縁が気になる。
■しかし、実は、沖田総司は加州清光を使ったという記録はあるが、菊一文字を手にしたという史実は残念ながら確認できない。則宗は、幕末にはすでに名だたる名刀だったため、若い新鮮組組員の手に届くような代物ではなかったという説も有力だ。沖田が菊一文字で斬りむすぶというのは、剣の達人にはこの名刀こそが似合うという、司馬遼太郎の美学というか、創作のようだ。
■また、「菊一文字」は商標登録されているため、今や、京都の株式会社菊一文字とその支店以外には、この呼称を名乗ることが許されない。が、そもそも菊一文字は「則宗」銘の日本刀の別称であって、「菊一文字」と銘が打たれた日本刀は存在しなかったという。京都・菊一文字も、名刀の「名を屋号とし」たと由来を説明するが、「則宗の子孫や弟子筋である」とは明言しない。また、則宗が「伝統七百有余年」だとは紹介し、自らも「明治以降」に「諸刃物の製作に進出」したとは言うが、自社を「創業700余年」とは決して言わない。加えて、京都・菊一文字の紋は鍛冶を意味するというクツワ印であり、伊勢・菊一文字則宗を含め、後鳥羽上皇由来の菊紋を使うことは絶対にない。
■以上から推察する限り、京都・菊一文字は、則宗からの直接の継承関係はないと思われる。明治時代に刀匠から打刃物に転身したとき、則宗を頂点とする日本刀の伝統を継ぐ意気込みで屋号を選んだのだろう。したがって、菊一文字の裁ち鋏は、二重の意味で、沖田総司の愛刀の末裔ではありえない。残念。・・・・それでも、菊一文字が、京都有数の老舗であることに変わりはなく、高級刃物の伝統を今に伝えることでは定評がある。
■実家の菊一文字の裁ち鋏は、1970年頃にはすでに母が愛用する裁縫箱の主役だったが、持ち主を喪ってから10年以上忘れられて眠っていた。それを先日、法事の帰省時に探し出し、譲り受けて持ち帰った。真っ黒に錆びてすっかり骨董品じみていたのだが、創業80年の老舗刃物屋に持ち込みハサミ研ぎをしてもらうと、幼少時の畏怖心が甦るほど、力強い鉄の光沢を取り戻した。紙には石英等の鉱物質粉末(填料)が含まれるので、布に対する本来の切れ味を守るには、「裁ち鋏で紙を切ってはいけない」ことが常識だ。が、使われずに朽ちさせるより、あえて事務鋏として再活用し始めた。デスクの上にあると、戦国時代の野武士が現代のオフィス街に紛れ込んだような異彩を放つ。ハガネそのままの堂々たる風格と少し緊張するほど鮮やかな切れ味は、ステンレス刃のドイツ製高級事務鋏なども、足元にも及ばない。
■デザインE、機能B、革新性D
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■2005年12月に登録したこのKWは、個人的情熱から「菊一文字の謎」を追ったものだが、嬉しいことに多くの人に読まれた。その後、Wikipediaにも逆引用されたが、執筆時にこちらも勉強させてもらっただけに、光栄である(ガンダムアストレイ・レッドフレームが振るう武器「ガーベラ・ストレイト」が、「菊・一文字」の直訳だとは新発見で恐れ入った)。また、則宗と沖田総司と株式会社菊一文字の関係をまとめようという、問題意識を共有するページも現れた。このKWも、三条名店街商店街振興組合内の京都・菊一文字ページなど、数多くの情報源に世話になったので、同好の士は歓迎だ。
■しかし、当KWの書き方が拙かったがゆえに、伝言ゲームのように誤りが伝播するとしたら、責任も感じる。とくに、菊一文字の現在について、「菊一文字伝説」が一人歩きしているようだ。国宝・則宗(日枝神社社宝)の継承者なら、人間国宝や無形文化財に認定されたり、重要文化財級の工具・巻物を伝えていたり、則宗ゆかりの菩提寺・墓所を守っていても不思議ではないが、こうした過度の期待や追及は無粋というか、筋違いのようだ。京都・菊一文字を明治期に創業した泉家は、それまでは泉州・堺で鉄砲や刀を作っていたそうだが、一文字派に遡る系図は示さない。同じく明治創業という伊勢・菊一文字則宗も、伝承関係には言及しない。
■もっとも、京都の菊一文字も伊勢の菊一文字則宗も、すでに1世紀の歴史を重ねた老舗に変わりはない。刃物の地域一番店として揺るがぬ伝統がある以上、日本刀・則宗への「オマージュ」は必ずしも必要ない。とくに、堺鍛冶出身の京都・菊一文字は、則宗の系譜というより江戸時代の堺刃物の直系だと考えた方が説得力がある。堺刃物は、江戸時代から幕府専売「堺極印」のたばこ包丁で知られる。誇るべきは、茫漠とした「伝統七百有余年」のイメージよりも、地道な鍛冶の実績と地元に根ざした刃物文化の伝統かもしれない。
■株式会社菊一文字も、その後、三条名店街商店街振興組合ページから独立して、オフィシャルHPを開いた。また、東京支店主の泉氏も、神田法人会HPで東京支店の歴史を語っている。そこで各HPを検討の上、KWを再び書き直した。拙KWの引用や孫引き等による誤解も以下に整理しておく。
■(1)[会社] Wikipediaは、拙KWの文章や構成をほぼそのまま引用しているが、正当にも、長崎・菊一文字に関する私の誤認を削除してくれた。長崎・菊一文字は、屋号・商標登録はもちろん、来歴の字句まで京都本店と一致するため、京都・菊一文字から暖簾分けしたものと推察した。しかし、その後、京都・菊一文字が新たに立ち上げたHPでは、「※全国に類似した屋号・製品がありますが、現在、京都本店・東京支店"のみ"で取り扱っております」と注記している。伊勢はもちろん、長崎も支店ではないらしい。
■gensijin.comの和アイテム・文化では、拙KWとは異なる流麗な筆致で、則宗、沖田総司、菊一文字を改めて語ってくれている。13式の日本刀名鑑でも、則宗と菊一文字との関連を述べる。喜ばしい。しかし、老婆心ながら、拙KW(あるいはそれを引用したWikipedia)を誤読したように思われる部分は心配だ。
■(2)[商品] 拙KWでは「菊一文字は・・・・刀匠"から"料理用・工匠用・生花園芸用の諸刃物"に転身"」とは書いたが、「"刀匠"、料理用、生花用・・・・まで揃っています」と書き直してしまっては、文意が外れる。同様に、「爪切りから"日本刀まで"・・・扱っている」というWikipediaも、事実誤認だ。京都・菊一文字は、創業前は作刀に携わっていたかもしれないが、現在の品揃えに刀はない。他方、二見興玉神社内の菊一文字則宗支店では、もちろん国宝・則宗とは無縁の守り刀であろうが、御神刀本拵を販売している。
■(3)[地理] 拙KWでは「伊勢・二見にも菊一文字則宗本店・支店がある」とは書いたが、「伊勢・二見」を「伊勢"や"二見」に書き換えてしまうのは、地理的な誤解だ。菊一文字則宗は、本支店とも「伊勢の二見」にあるのだ。また、拙KWでは、同店は「商標が異なる」と書き、それがそのままWikipediaにも引用されたが、「商標を使わない」と言った方が正確なので、書き直した。
■(4)[年代] 株式会社菊一文字の創業年は、「明治以降」のいつ頃か、明らかにされていない。神田法人会HPでは創業年を1876年としているが、これは廃刀令の年そのものであり、正確な年号であるか定かでない。しかし、「則宗の子孫は"今"菊一文字という刃物屋を開き、支店も"オープンした"」と現代進行形で要約するのは、さすがに時代考証が乱暴だ。株式会社菊一文字は、京都本店ならすでに1世紀以上、東京支店も半世紀以上の歴史を持つ老舗だ。「今、オープン」したわけではない。
■(5)[史実検証] 最後に、拙KWの最終結論でもあるが、京都も伊勢も長崎も、名匠の精神を受け継ぐ意志の持ち主ではあるだろうが、則宗の「直接の子孫」や「本人や弟子の筋」であるという歴史的証拠を示せる者は、誰もいない。
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■■比較文例■■
■菊一文字HP: 作刀を中止した明治以後は、その卓越した技術を基に京都に於いて料理用・工匠用・生花園芸用等、諸刃物の製作に進出、その時、名刀菊一文字と言われたその名を屋号とし、さらに鍛冶の紋ともいえる「クツワ」印を入れ、製品の登録商標とし、高級刃物なら、「菊一文字」と言われ、現在にいたっております(2005年12月閲覧)。
■拙KW(2005年12月登録): 株式会社菊一文字は、作刀が禁止された明治以降、刀匠から料理用・工匠用・生花園芸用の諸刃物に転身し、「菊一文字」を屋号、鍛冶を象徴するクツワ印を紋として商標登録した。現在、京都市中京区三条通河原町に本店を持つ。東京店や長崎店も同じ商標を使うので、京都本店の支店のようだ。他方、伊勢・二見にも明治創業の「菊一文字則宗」本店・支店があるが、商標が異なるので、別系列と思われる。
■(Ver.I) wikipedia: 作刀が禁止された明治以降、刀匠から料理用・工匠用・生花園芸用の諸刃物を製造する株式会社菊一文字として創業した。 「菊一文字」を屋号、鍛冶を象徴するクツワ印を紋として商標登録し、現在、京都市中京区三条通河原町に本店を持つ。 支店として東京店を持ち、本店・支店共に爪切りから日本刀まで幅広い刃物を扱っている。 他方、伊勢・二見にも明治創業の「菊一文字則宗」本店・支店があるが、商標が異なる(2007年6月閲覧)。
■(Ver.II) gensijin.com: 刀を作ることを禁じられた明治以降に、刃物を作る会社、株式会社菊一文字として創業されました。刀匠、料理用、生花用、刃物と呼べるものはつめきりの果てまで揃っています。「菊一文字」を屋号に定め、鍛冶を象徴するクツワ印を紋に決めて商標登録されています。現在は京都の中京区三条通河原町に本店をかまえ、東京に支店を持ちます。・・・・伊勢や二見に明治創業の商標の違う「菊一文字則宗」の本店と支店がありますが、こちらは則宗の直接の子孫ではなく、則宗本人か弟子の筋から分かれていった別の系列だと考えられます(2007年6月閲覧)。
■(Ver.III) 13式・日本刀名鑑: 則宗の子孫は今「菊一文字」という刃物屋を開き、支店もオープンした。菊一文字のハサミやら、爪切りやらが売っているらしい。もはや、菊一文字でも何でもないと思う(2007年6月閲覧)。
- 2007/06/15更新
- 2005/11/29登録
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