桂枝雀
二代目 桂枝雀
昭和14年(1939)~平成11年(1999) 享年59歳
昭和36年(1961)桂米朝に入門
「十代目桂小米」を経て、昭和48年(1973)に「二代目桂枝雀」を襲名。
大阪サンケイホールをはじめ各地で独演会を精力的に開催、国内のみならず英語による海外公演「英語落語」も実施。「なにわの源蔵事件帳」などのテレビドラマや舞台でも活躍、高い評価を受ける。師匠米朝の端正な芸とは対極の爆笑型の“枝雀落語”を磨きぬいて確立。
自分の芸に人一倍厳しく、緊張と緩和論を説いていつもニコニコ、芸と同時に人柄も愛された。
私が通っていた大学で桂枝雀が特別講師として教鞭をとっていたことがある。
受講できるのは3回生からだったので、当時1回生だった私は、他の教師の目を盗みながらいつも生徒で満員だった教室の窓の外から枝雀師匠の姿を垣間見ることしかできなかった。
講義の内容はほとんど知ることができなかったが、一生懸命生徒達にむかって落語を語っている姿を目に焼き付けることだけはできた。ほんの時々、廊下などですれ違うことがあったが枝雀師匠はいつもなにか考え事をしているような真面目な面持ちで、声をかけることがためらわれた。
言葉を交わすことはなかったが落語が大好きな私は落語界の大スターと同じキャンパスに身を置くことができることだけで、それだけでなんだか嬉しかった。
枝雀師匠の最後の講義は我が校内での【枝雀寄席】だった。考えてみると奇跡的なことだ。この落語を聴くためだけに1年分の授業料を払っても惜しくない程だ。
この日ばかりは私たち1回生も師匠の講義を受けることが出来た。ワクワクして前の夜はほとんど眠れなかった。
まさに名人芸。
紫の座布団の上で踊るように動き回る。そしてリズミカルな喋り。みるみるうちに枝雀落語に引きずり込まれる。お得意のタコ顔も絶好調。口をとんがらせ顔の色まで真っ赤に変わる。私たちはおなかを抱えて笑った。そして見事な落語に感嘆のため息を漏らした。
終了後、これで最後なのだからとお疲れの師匠のもとに握手を求めてかけよった。
「枝雀師匠の落語大好きです。これからも応援してます」
緊張して、つっかえながらしゃべる私を師匠は穏やかな笑顔で見つめ、両手で握手をしてくれた。とても暖かな手のひらだった。
「ありがとさん。今度は本物の寄席に来てな」
そこには躍動的な落語を汗を流しながら演じる【落語家桂枝雀】ではなく、にっこりと穏やかに笑う私たちの【枝雀先生】がいた。
それから数年後、1999年の春、桂枝雀は自殺をした。
【笑いとは緊張と緩和の繰り返しである】という有名な落語論理を展開した、真面目で繊細な天才は「笑い」を突き詰めて考察し続け、緊張が解けることがなかったのだろう。ぷっつりと糸が切れるように自らの命を絶ったのだ。
あの時も、うつ病に悩んでいらっしゃったのだろうか。
あんなにも素敵な笑顔を私たちにくれたあの時も。
あの時の、桂枝雀の手のぬくもりを今でも忘れていない。
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