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ブロークバックマウンテン

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 荷物運びとか、ビル清掃とか、土木作業とか。
 ひとが簡単に「単純作業」と呼んでしまうそれら作業はもちろん単純なわけがなくそれら作業においてはその都度一回的な決断を強いられている。それら作業はつねに維新されていく新しい脈略(生きた現場)において一回的な決断が強いられる作業なのである。ところがそれらをいともあっさりと「単純」と呼ぶなんていくらなんでも無礼にもほどある。もちろんたしかにそれら作業は複雑な技術体型を用いてはいない。技術体系だけを比較すればそれら「単純」作業は(医学の技術体系などに比べれば)たしかに相対的には単純な技術体系ではある。しかしそうであったにしても一回的な決断をしなければならないのだからその作業においての決断の連続には確実になにかしらの精神的な次元が入り込んでいる。だからかけがえのない存在がそれら「単純作業」によって創造されつつあることもまちがいないのだ。したがってあらゆる労働者は自らの労働に誇りをもつことになる。そしてその彼らの誇りは負け惜しみでも張ったりでも自信過剰でもなくまったく正当なまさに存在論的な誇りなのである(だから「単純」作業などと見下すように言うべきではないのだ)。したがってその誇りの在り処が見えていない男は(平気で作業員たちを見下せるような男は)男としてはまったくダメなつまんない奴だと断じられるべきなのだ。そして言うまでもなくそのような「つまんない奴」とは男としては(男だけの世界にあっては)最大の蔑称なのだ。それが蔑称だと分からない奴はそもそも男としてははじめから問題外ですらある。

 ヤクザであろうと医者であろうと官僚であろうと教師であろうと男たちは見えない男同士の友情最前線をひそかに生きている。物心ついたころから男たちはそんな友情最前線を生き続けているのだ。妻とか恋人とか子供たちとかあるいは社会的地位とかそんな見えている世間一般とはまったく別次元で男たちは(ひそかに)友情最前線をいつだって生きているのだ。男たちはその次元で競い合ったり牽制し合ったり緊張感感じたり強い怒りを覚えたりあるいは喜び合ったりなどなどさまざまなやりとりを日々続けている。目の前にある気が遠くなるような難事に(きつい労働に)結構平然とたんたんと向き合っていられるのはかれが(ひそかに)見えない次元でのそんなやりとりにこそ夢中になっているからなのである。妻や子供は喜びや癒しにはなり得てもしかしわたしの労働の時間のその総体を(わたしの存在そのものを)肯定するための根拠にはならないのである。自分がその男のすべての絶対的な根拠なのだと思い込める女は悪妻でしかありえないだろう。すばらしい女性であったとしてもそれとこれとは話しがまったく別なのだ。男たちが自らを肯定するための友情最前線のその総体こそが生きた歴史にほかならないのである。歴史なしで男が生きることはとても厳しいことなのである。



 歴史の脱落者という役目を歴史によってあらかじめ強いられているふたりの若い男が出会うことから「ブローク・バック・マウンテン」というこの映画は始まる。ふたりはともにすでに歴史から脱落している、歴史に復帰することはありえない、そんな運命を受けいれる他ない、ふたりの若者はあらかじめそれほどまでに諦めている、それほどまでの諦めから自らの生をこれから営もうとしている。そんなふたりの若者が出会うことから映画は始まる。

 この場合もしもかれが「だらしない男」ならば話しはたやすいだろう。かれはそのまま「歴史からの脱落者」としてだらしなくなってしまえばいいのだから。あるいはほどほどに凡庸な「良いひと」でしかなかったのならばこれもまた話しは実にたやすいだろう。やさしい明るい家庭を営み子に望みを託せばそれで済むだろう。しかしこのふたりの若者はあまりにも純粋に男でありすぎたのだ。つまり自らが営む過酷な労働、人によっては倦み嫌うかもしれない「汚れごと」のその総体を、それらもろもろに含まれているすべての価値をそれをそのままのものとしてふたりはどうして直接的に肯定したかったのである。それら諸々の労働の総体をなにかに還元して(家庭とかお金とか地位とかに還元して)その還元をもって言い訳がましく肯定するのではなくてそれ自体の過酷な労働のそのものの価値としてふたりはどうしてもそのまま直接的にそれを肯定したかったのである。つまりこのふたりの不幸とは歴史からの脱落者でありながらもその志があまりにも純粋でありすぎたという点なのである。歴史なしでみずからの存在を肯定することなど厳密は不可能なことなのである。歴史を失った男たちは絶対に不幸である他ないのである。

 この映画は男の不幸についての映画である。歴史からみすられながらもあまりにも純粋に男でありすぎた者の不幸についての映画なのである。

 しかし「不幸な男」ほどドラマにふさわしくないものもないだろう。女の不幸はドラマになり得ても男の不幸なんて物語にも何にもなりはしない。そんなに見ていてつまらないものもないはずなのだ。しかし歴史を見失ってしまった二十一世紀初頭の今じつは男たちはある種の不幸に至っているとはいえないだろうか。世の中明るく楽しく心地よくときに快楽的ですらあったとしてもしかし歴史を見失うことは男たちにとってはきわめて不幸な現実でしかないのである。今からほど遠いように見える「ブローク・バック・マウンテン」というこの映画が(同性愛が許されない時代を舞台にしたのこの映画が)不思議と現代的に感じられるのは男たちのこの不幸感においてなのである。「同性愛」を物語の装置にしながら実に的確に男の不幸が物語として組み立てられているのだ。そういう意味で今だからこそ撮られるべくして撮られた映画だといえるだろう。



 たまたま出会った歴史からの脱落者である不幸なふたりの若い男はブローク・バック・マウンテンという山で数カ月のあいだふたりきりで過酷な労働を営むことになる。しかし残酷な大自然に対峙しながらのたんたんとした驚くほど地味な「汚れ仕事」の日々がこのふたりの男にとっての唯一の幸福の日々となるのである。

 自然は自然として労働は労働として余計な意味に汚されることなくただそれはそれとしてふたりの目の前にそのときあったのだ。ふたりは意味に汚されることのない自然に対峙しつつ労働しなにかを成し遂げみずからの価値を感じ取りつつ日々を営むことがこのときできていたのだ。だれもかれらのことを貶めないしだれもかれらのことを侮蔑しないし。自分が一番えらいなんて言いたくないがしかし誰かに無駄に見下されるのは耐えがたい、自分はパーフェクトではないがしかしそれはそれとしてそれでしかないかけがえのない価値が自分ににだってあるはずだろう、しかしそれなのにわたしたちは意味に汚染され他との比較という序列を押しつけられ値札のようなつまり侮蔑そのものでしかない価値を誰かに決められてしまう(いったい誰に?、いったいなぜ?)。それはそれとしてそれでしかないかけがえのない価値があるはずなのに。ただそれをそれとしてそれそのままのものとして肯定したいだけなのに。ただそれだけのことなのにそれは実現しえずさまざまな侮蔑は避けがたい。あらゆる男は多かれ少なかれその手の不幸から逃れがたいものなのだ。歴史はそんな不幸すら意味づけてくれようがしかし歴史を見失ってしまったのならばどんなに輝かしい世の中であったとしても(どんなに成功したとしても)その手の不幸は避けがたいものなのだ。このふたりの男はその不幸に激烈なまでに浸かり切っているのである。そしてかろうじてブローク・バック・マウンテンでの日々で自らを肯定しえる幸福をはじめて体験したのである。

 
 ブローク・バック・マウンテンでの過酷な労働の最中にこのふたりの男は愛し合うことになる。それはいわゆる男同士の同性愛なのだがしかしこの映画でのこの同性愛には美学的でナルシスティックな享楽的イメージはまったく欠いている。要するにこの同性愛はセクシュアルには描かれてはいないのである。つまりこのふたりの同性愛は意味を逃れ序列から解放された喜び(わたしがわたし自身を肯定し得た喜び)の表現であり(ふたりだけのまったくマイナーな歴史をブローク・バック・マウンテンでの日々でひそかに実現し得たふたりの喜びの表現であり)また同時にこのような形でしか喜び得ない(みずからを肯定し得ない)不幸な男の不幸そのものの表現でもあるのだ(ふたりは絶望的に分裂している)。つまりこの映画ではひとつの同性愛がふたつの意味を(まったくセクシュアルではないふたつの意味を)同時に意味しているということなのである。もしもこれが美学的で過剰にセクシュアルな同性愛の物語であったのならばそれは特殊なカテゴリーの恋愛作品となってしまうだろうが(ならば同性愛者以外にはあまり関係なくなってしまうが)しかしここではでは同性愛が同性愛以外のなにかを(まったく非セクシュアルななにかを)意味し得ているという点で一般的な作品(ふたりの不幸な男の物語という作品)になり得ているということなのである。その見せ方の厳格さにおいてこの監督の手腕はななか光っている。それほど騒ぐほどではないがしかし理路整然とした落ち着きはらったなかなかの傑作。面白い。

ブロークバックマウンテン

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投稿者:
room9
  • 2006/05/12更新
  • 2006/05/12登録
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コメント (1)

2008/01/13

Poughkeepsie 仰るように、普遍的な愛のそして不幸な物語として成功しておりなかなかみせますね。(「飲食男女」「推手」「いつか晴れた日に」等で李安は好きな監督なのです。)

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