動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会
『ニーチェ入門』を読んでまとめをして、ポストモダニズムと言う言葉は何回か出てきましたが、ポストモダンについてはやっぱり分からないと思い、本書を読んでみることにしました。オタク的文化についても書いてあるということは知ってはいたんですが、読んでみると思ったよりオタク的文化についての部分が多かったです(笑。まぁオタク的文化については特に抵抗ないですし、知り合いに詳しい人がいるんで、分からないことは聞けるんでいいんですが)。
ただ、読んでてなんとなく全体像が見えないと思ったので、ここにまとめをしてみることにしました(やっぱり、こうしないと頭が働かないんです)。本書では、いろいろな作品や理論のイラストなども含めながら、また(注)として、参考文献などもページ数まで詳しく挙げながら書いていますが、そういう部分は都合上省いて(文章の都合上、図○○とかは書いたりしますけど、本書で見てください)、まとめていきたいと思います。
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「オタク系」なるものについても、次の2つのことは言える。1つは、一群のオタク系サブカルチャーの起源は、基本的には60年代だとおもわれること、そしてもうひとつは、オタク系文化の担い手は、いま、大雑把に3つの世代に分かれているように思われることである。
その3つというのは、60年前後うまれを中心とし、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』を10代で見た第一世代、70年前後生まれのを中心とし、先行世代が作り上げた爛熟し細分化したオタク系文化を10代で享受した第二世代、80年前後生まれを中心とし『エヴァンゲリオン』ブームのとき中高生だった第三世代、とでも分けられるもので、この3つのグループの趣味志向はそれぞれ微妙に異なっている。
たとえば、コミックやアニメ、コンピュータは世代を超えて強い関心を集めているが、第一世代でSFやB級映画に向けられていた関心は、第三世代ではおおむねミステリやPCゲームへの関心に置き換えられている。また、第三世代は10代半ばにインターネットの普及を迎えており、その結果、彼らの同人活動の中心はウェブサイトに、イラストの中心はCGに変わり、先行世代とは流通経路も表現形式も大きく変わっている。本書の議論は、そのなかで、どちらかといえば第三世代の新しい動きに焦点をあてて組み立てられているp13-14
オタク系文化の特徴については、いままで日本の伝統文化との比較で語られることが多かった。たとえば批評家の大塚英志は、89年に出版された『物語消費論』で、80年代に急増した二次創作の存在意義を、歌舞伎や人形浄瑠璃で用いられる「世界」や「趣向」という概念を用いて分析している。この議論は(略)『オタク学入門』に暗に取り入れられており、岡田はそこでは、オタクたちは作品のメッセージよりもむしろ「趣向」を読み解くことに重点を置き、そのセンスは江戸時代の「粋」と直結していると主張している。『オタク学入門』の最後の章は、「オタクは日本文化の正統継承者である」と題されている。p16-17
オタク系文化と伝統文化の連続性は随所で指摘されている。そのなかでもっとも有名なものは、おそらく現代美術家の村上隆の主張だろう。彼によれば70年代にアニメーターの金田伊功が達成した独特の画面構成は、狩野山雪や曾我蕭白らの「奇想」につらなり、また、90年代に原型師のボーメや谷明が先導したフィギュア造形の進化は、仏像彫刻の歴史を反復している。p17
「オタク」という言葉が認知されたのは89年だが、その存在がひとつの集団として意識され、前述のような擬似日本的な想像力が広く支持され始めたのは、70年代から80年代にかけてのことだ。そしてそれは日本では「ポストモダニズム」と呼ばれる思潮が流行し始めた時期とほぼ一致しているp26
混乱しないで欲しいのだが、この「ポストモダニズム」というのは、前述のポストモダンとは異なる概念である。ポストモダンとは70年代以降の文化的世界を漠然と指す言葉だが、ポストモダニズムのほうは、ある特定の思想的立場(イズム)を指す言葉であり、はるかに対象が狭い。ポストモダンの時代には独特の思想がいくつも現れたが、そのうちのひとつが、「ポストモダニズム」と呼ばれるものだった、と考えてくれればよい。
ポストモダニズムの思想は、60年代のフランスで生まれ、70年代にアメリカで成長し、80年代に日本に輸入された。それはもともと、構造主義やマルクス主義や消費社会論や批評理論の集積からなる複雑で難解な言説であり、したがっておもに大学内で流通するものだった。ところがそれが日本では、80年代の半ば、若い世代の流行思想としてむしろ大学の外でもてはやされ、そして時代とともに忘れ去られた。日本のポストモダニズムは、流行思想としては「ニューアカデミズム」と呼ばれることが多い。(略)このあたりの事情については別の論文で説明したので(ここで公開されていたようですが、今読めません)、興味のある読者はそちらを参照してもらいたい。いずれにせよ、ここではポストモダニズムの内容はあまり重要ではない。むしろ重要なのは、日本で、その難解な思想がジャーナリスティックに流行してしまったという事実である。
おそらくその流行は、当時すでに一部の批評家がしていたように、80年代の日本社会を満たしていたナルシズムと関係している。当時日本で流行したポストモダニズムの言説は、「ポストモダン的であること」と「日本的であること」を意図的に混同して論じることに特徴があった。当時のポストモダニストが好んだ主張は、要約すればつぎのようなタイプのものである。
ポストモダン化とは、近代の後に来るものを意味する。しかし日本はそもそも十分に近代化されていない。それはいままで欠点だと見なされてきたが、世界史の段階が近代からポストモダンに移行しつつある現在、むしろ利点に変わりつつある。十分に近代化されていないこの国は、逆に最も容易にポストモダン化されうるからだ。たとえば日本では、近代的な人間観が十分に浸透していないがゆえに、逆にポストモダン的な主体の崩壊にも抵抗感なく適応することが出来る。そのようにして21世紀の日本は、高い科学技術力と爛熟した消費社会を享受する最先端の国家へと変貌を遂げるだろう……p27-28
当時の日本のポストモダニストは、フランスの哲学者アレクサンドル・コジェーブを好んで参照していたが、この選択ほど彼らの欲望を如実に表しているものは無い。第2章でもういちど詳しく説明するように、この哲学者は、ポストモダンにおいて考えられる社会形態として、動物化したアメリカ型社会と、スノビズムに覆われた日本型社会の二つのタイプを挙げたことで知られている。そしてここでコジェーブは日本に対して妙に好意的であり、西洋人のアメリカ化=動物化よりむしろ日本化=スノッブ化を予測していた。p29
80年代の日本ではすべてが虚構だったが、しかしその虚構は虚構なりに、虚構が続く限りは生きやすいものだった。筆者は、その浮遊感の言説における現れがポストモダニズムの流行であり、サブカルチャーにおける現れがオタク系文化の伸張だったと捉えている
そのような浮遊感はあらためて言うまでもなく、バブル崩壊に始まり、阪神・淡路大震災、オウム真理教事件、援助交際や学級崩壊が相次いで話題となった90年代にはほとんど消滅してしまった。ところがオタク系文化の周辺においては、その幻想が例外的に生き続けてきたように思われる。というのも、アニメやゲームが世界的評価を獲得し、またその強さが一般に知られるようになったのは、まさに90年代に入ってからのことだったからだ。
実際に90年代後半のオタク系の論客の主張は、かつてのポストモダニズムの言説を知る読者にとっては、懐かしさすら感じさせる独特の古さを帯びている。p31
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とりあえず夏休みになったので、明日以降続きを書いていこうかと思いますが、その前に自分のことでも書こうかと思います。
まず第二第三世代の真中くらいに生まれました。子供の頃は特撮よりアニメが好きでした。アトムとかヤマトとか物心ない頃に本を買ってもらったみたいですが、ボロボロになってました。父親が手塚治虫のマンガを買っていたので読んだりもしました。
まぁ松本大洋とか好きで、『Trainspotting』とかも小説で読みました(映画も見ましたけど。小説はすごい好きでKWに加えようかとも思いましたが、今のところしてません)。あと『AKIRA』は友達のうちでビデオを、弟が買ったのでマンガを読みました。『エヴァンゲリオン』は実家離れたときに、地元ネタだーと思って、友達から借りて一気に見ました(地元新横須賀です。第三新東京市の方に友人いましたし、バイトでそっちの方面に通ってたこともありました。二子山とか小学校の窓から見えてましたし)。まぁエヴァは『Trainspotting』小説版的なといえるのか、理解不能なまま話が進んでいく感じが、結構好きでした。一気に見たんであんまり話し覚えてませんけど。
友人はギターポップやマンチェスター聴いてたり(影響受けてちょっと聴きました)、ゴダールとかレオス・カラックス(カラックスは松本大洋でいえば、シロがいないクロが恋愛したような感じでしょうか。結構好きです)観てたり、友人のうちに集まって『ビバヒル』や『アンジェラ 15歳の日々』とか見てました。マンガで言えば大友克洋とか、木城ゆきととか、魚喃キリコとか、山本直樹とか、しりあがり寿とか、よしもとよしともとかをてきとーに読んでました。
で、'03くらいかな?になって独学でCGIを書いてみて、webで知ったとある店に持っていったら、特にプログラマ系の人はいなく、自作PC好きとオタクの巣窟だったという(笑)。でもそこに居座ってます(今もそこでこの文章書いています(笑))。で、そこで店長(といっても店長が一人でやってる店ですが(笑))が気まぐれに薦めてくるアニメを気まぐれで見るという感じです。最近観たものは、『フルメタル・パニック』と『涼宮ハルヒの憂鬱』です。あと本書と関係あるところでは、『機動戦艦ナデシコ』もさかのぼって観ました。
まぁ、あまりあてになりませんが自分の感じとしては、'03前の友人と後の友人では興味の対象となる作品が、全くといっていいほどかぶらないんですよね。今V∞REdomSのTシャツ着てますが誰も突っ込みません。思うのは「前」の友人は、いわゆる世間一般に流行っているものに対して批判的な態度があったかなと思います(後でくわしく出てくるスノビズムでしょうか)。それにくらべて「後」の友人は世間から与えられたマンガやアニメをまめにチェックして、人が「あれは、○○みたいでいいよー」とか薦めると「じゃぁみてみるよー」とか素直な感じがしました(後でくわしく出てくる動物化でしょうか)。
あと僕の感じとしては、世間一般で流行ってるものを追うと言うのは、ここhttp://nakano.main.jp/blog/archives/...とかにあるような、多くの人の顔をモーフィングすると、美人顔になるという(多分探せば色々なところに同じことが書かれてると思うんですが)話からして、人間の本能に、遺伝的アルゴリズム的な感じで、生き残っている人間の平均を取るといい遺伝子っていうのがあるんじゃないかと。で、なんか流行ってるものを追うと言うのも、それと同じ本能にしたがう、ある意味動物的かなーと。
で、第二章にいきます。
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オタク系文化の本質とポストモダンの社会構造のあいだに深い関係がある、という筆者の主張は、別にそれだけでは新しいものではない、オタク系文化のポストモダン的な特徴としてはすでにつぎの2点が指摘されている。
ひとつは「二次創作」の存在である。二次創作とは、原作のマンガ、アニメ、ゲームをおもに性的に読み替えて制作され、売買される同人誌や同人ゲーム、同人フィギュアなどの総称である。(略)
この特徴がポストモダン的だと考えられているのは、オタクたちの二次創作への高い評価が、フランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールが予見した文化産業の未来にきわめて近いからである。ボードリヤールはポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になると予想していた。原作もパロディもともに等価値で消費するオタクたちの価値判断は、確かに、オリジナルもコピーもない、シミュラークルのレベルで働いているように思われる。p40-41
もうひとつは、オタクたちの行動を特徴付ける虚構重視の態度である。その態度は、単に彼らの趣味だけでなく、また人間関係も決定している。オタクたちの人間関係は、親族関係や職場のような社会的現実(と呼ばれるもの)とは関係なく、アニメやゲームの虚構の中を中核とした別種の原理で決められていることが少なくない。その振る舞いはオタク以前の世代からするとモラトリアムや退行にしか見えないため、ここにときに軋轢が生じることになる。
「オタク」という総称は、1970年代から80年代にかけて、オタクたちがたがいに「おたく」と呼び合っていたことから生まれた。批評家の中島梓は、『コミュニケーション不全症候群』で、この呼び名にはオタクの本質がすでにはっきり現れていると論じている。「お宅、という語が示すものは、その関係の個人的でないこと、家単位の関係、自分のテリトリーをしょってここにいるのであるということの主張である」と彼女は記している。そのようなテリトリーが必要とされるのは、中島によれば、オタクたちが、父親や、国家の権威が失墜したのち、それでも帰属すべき集団を探さなければならないからだという。(略)「おたく」という二人称には、そのような帰属集団の幻想をたがいに承認しあう役割が与えられている。この中嶋の指摘は重要である。オタクたちはたしかに、社会的現実よりも虚構のほうを重視している。ジャーナリズムはしばしば、この観察から安易にオタクたちは現実とゲームの区別もつかないと結論づけている。
しかしそのような結論は賢明ではない。オタクたちがすべて精神病者というわけではない以上、虚構と現実の区別がつかなくなることはありえない。むしろその選択は、中嶋が説明したように彼らのアイデンティティと関係している。オタクたちが社会的現実よりも虚構を選ぶのは、その両者の区別がつかなくなっているからではなく、社会的現実が与えてくれる価値規範と虚構が与えてくれる価値規範の間のどちらが彼らの人間関係にとって有効なのか、(略)その有効性が天秤にかけられた結果である。その限りで、社会的現実を選ばない彼らの判断こそが、現在の日本ではむしろ社会的で現実的だとすら言える。オタクたちが趣味の共同体に閉じこもるのは、彼らが社会性を拒否しているからではなく、むしろ、社会的な価値規範がうまく機能せず、別の価値規範を作り上げる必要に迫られているからなのだ。
そしてこの特徴がポストモダン的だといえるのは、単一の大きな社会的規範が有効性を失い、無数の小さな規範の林立に取って替わられるというその過程が、まさに、フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールが最初に指摘した「大きな物語の凋落」に対応していると思われるからである。18世紀末より20世紀半ばまで、近代国家では、成員をひとつにまとめあげるためのさまざまなシステムが整備され、その働きを前提として社会が運営されてきた。そのシステムはたとえば、思想的には人間や理性の理念として、政治的には国民国家や革命のイデオロギーとして、経済的には生産の優位として現れてきた。「大きな物語」とはそれらシステムの総称である。
近代は大きな物語で支配された時代だった。それに対してポストモダンでは、大きな物語があちこちで機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に弱体化するp42-44
この点でもうひとり参考になるオタク論を展開しているのが、社会学者の大澤真幸である。彼は95年の「オタク論」で、オタクたちにおいては内在的な他者と超越的な他者の区別が「失調」しており、そのため彼らはオカルトや神秘思想に強く惹かれるのだ、と分析している。ここで「内在的な他者と超越的な他者の区別」というのは、平たく言えば、自分の身の回りにある他人の世界(経験的世界)と、それらを超えた神の世界(超越的世界)の区別を意味する。オタクたちはその両者を区別できず、その結果、サブカルチャーを題材とした擬似宗教にたやすく引っかかってしまう。そのような失調は、かつての近代社会では個人の未成熟として切り捨てることができただろうが、ポストモダン社会ではそう簡単にはいかない。というのも、私たちが生きているこの社会そのものが、いまや大きな物語の失調によって特徴付けられるものだからだ。伝統に支えられた「社会」や「神」の大きさをうまく捉えることができず、その空白を近くのサブカルチャーで埋めようとするオタクたちの行動様式は、ポストモダンのそのような特徴をよく反映している。p45((前述のp42-44の、「オタクたちがすべて精神病者というわけではない以上、虚構と現実の区別がつかなくなることはありえない。」と矛盾するようですが、あくまで95年の時点では、と考えれば後の説明とも整合性が取れる気がします。))
この2点を前提としたうえで、つぎのような2つの疑問を導きの糸として、オタク系文化の、ひいてはそこに凝縮されたポストモダン社会の特徴について考察を進めていこうと思う。
その二つの疑問とは、
(1)ポストモダンではオリジナルとコピーの区別が消滅し、シミュラークルが増加する。それはよいとして、ではそのシミュラークルはどのように増加するのだろうか?近代ではオリジナルを生み出すのは「作家」だったが、ポストモダンでシミュラークルを生み出すものは何者なのか?
(2)ポストモダンでは大きな物語が失調し、「神」や「社会」もジャンクなサブカルチャーから捏造されるほかなくなる。それはよいとして、ではその世界で人間はどのように生きていくのか?近代では人間性を神や社会が保証することになっており、具体的にはその実現は宗教や教育機関により担われていたのだが、その両者の優位が失墜したあと、人間の人間性はどうなってしまうのか?
である。p46-p47
第1の問いから出発しよう。ここで筆者が注目したいのは、まず、さきほども参照した大塚英志の『物語消費論』である。そこで大塚は、前述のようなシミュラークルの全面化を前提としたうえで、さらに、ではそのシミュラークルがどのような理論に従って生産され消費されているのか、一歩踏み込んだ分析を行なっている。後々まで参照するので詳しく引用しておこう。p47
コミックにしろ玩具にしろ、それ自体が消費されるのではなく、これらの商品をその部分として持つ<大きな物語>あるいは秩序が商品の背後に存在することで、個別の商品は初めて価値を持ち初めて消費されるのである。そしてこのような消費行動を反復することによって自分達は<大きな物語>の全体像に近づけるのだ、と消費者に信じ込ませることで、同種の無数の商品(「ビックリマン」のシールなら772枚)がセールス可能になる。「機動戦士ガンダム」「聖闘士星矢」「シルバニアファミリー」「おニャン子クラブ」といった商品はすべて、このメカニズムに従って、背後に<大きな物語>もしくは秩序をあらかじめ仕掛けておき、これを消費者に察知させることで具体的な<モノ>を売ることに結びつけている
[中略]
プログラムそのものへの関心が特定のマニアに限定されているうちはよかったのだが、アニメやコミック、玩具といった限られた分野に関してはこれが明らかに消費者の共通感覚と化しつつあるのが現状だ。ここに今日の消費社会が迎えつつある新たな局面が見れとれる。消費されているのは一つ一つの<ドラマ>や<モノ>ではなく。その背後に隠されていたはずのシステムそのものなのである。しかしシステム(=大きな物語)そのものを売るわけにはいかないので、その一つの断面である1話分のドラマや1つの断片としての<モノ>を見せかけに消費してもらう。このような事態をぼくは「物語消費」と名付けたい。
[中略]
しかしこのような<物語消費>を前提とする商品はきわめて危うい側面を持っている。つまり、消費者が<小さな物語>の消費を積み重ねた果てに<大きな物語>=プログラム全体を手に入れてしまえば、彼らは自らの手で<小さな物語>を自由に作り出せることになる。例えば以下のようなケースが考えられよう。著作権者であるメーカーに無許可で、誰かが<スーパーゼウス>に始まる772枚のビックリマンシールのうちの1枚をそっくり複写したシールを作れば、これは犯罪である。こうして作られたシールは<偽者>である。これは今までいくらでもあった事件である。ところが同じ人間が、「ビックリマン」の世界観に従って、これと整合性を持ちしかも772枚のシールに描かれていない773人目のキャラクターを作り出し、これをシールとして売り出したとしたらどうなるのか。これは772枚のオリジナルのいずれを複写したものでもない。したがってその意味では<偽者>ではない。しかも773枚目のシールとして772枚との整合性を持っているわけであるから、オリジナルの772枚とも同等の価値を持っている。<物語消費>の位相においては、このように個別の商品の<本物><偽者>の区別がつかなくなってしまうケースが出てくるのだ。p47-49((分かる人にしか分からないとは思いますが、ボールとジムを組み合わせた、"量産型"デンドロビウム(参照)とかがそうでしょうか。販売はしてないと思いますけど。))
大塚はここで、「小さな物語」と言う言葉を、特定の作品の中にある特定の物語を意味するものとして用いている。対して「大きな物語」とは、そのような物語を支えてはいるが、しかし物語りの表面には現れない「設定」や「世界観」を意味する。
そして大塚によれば、オタク系文化においては、ここの作品はもはやその「大きな物語」の入り口の機能を果たしているにすぎない。消費者が真に評価し、買うのはいまや設定や世界観なのだ。とはいえ実際には、設定や世界観をそのまま作品として売ることは難しい。したがって現実には、実際の商品は「大きな物語」であるにもかかわらず、その断片である「小さな物語」が見せかけの作品として売られる、という二重戦略が有効になる。大塚はこの状況を「物語消費」と名付けた。二次創作というシミュラークルの氾濫は、その当然の結果に過ぎない。
この指摘はじつは、サブカルチャーの状況分析にとどまらず、ポストモダンの原理論としても示唆的である。ここで簡単に説明しておくと、ポストモダンの到来の前、大きな物語が機能した近代とは、だいたい図3aのようなツリー・モデル(投射モデル)で世界が捉えられていた時代である。一方には、私たちの意識に映る表層的な世界があり、他方にその表層を規定している深層=大きな物語がある。したがって近代では、その深層の構造を明らかにすることこそが学問の目的だと考えられてきた。
ところがポストモダンの到来によって、そのツリー型の世界像は崩壊してしまった。ではポストモダンの世界像はどのような構造をしているのか。1980年代の日本では、そのひとつの候補として、深層が消滅し、表層の記号だけが多様に結合していく「リゾーム」というモデルが示されることが多かった。しかし筆者の考えでは、ポストモダンの世界は、むしろ図3bのようなデータベースモデル(読み込みモデル)で捕らえた方が理解しやすい((まぁ僕が行ってる店ではデータベースと言う言葉の是非は、問題になりましたが))。p50-52
以下の議論を追うためには、とりあえず、近代の世界像がツリー型であるのに対してポストモダンの世界像はデータベース型であり、前者の深層には大きな物語があるが、後者の深層にはそれはない、という点だけおさえてくれれば十分だ。
さて、このような前提のうえでさきほどの大塚の文章を読み返すと、そこに記された物語消費の構造が、まさにこのデータベース・モデルの構造を反映していることが理解できるだろう。「小さな物語」と「設定」の二層構造とは、見せかけと情報の二層構造のことである。物語消費に支配されたオタク系文化においては、作品はもはや単独で評価されることがなく、その背後にあるデータベースの優劣で測られる。そしてそのデータベースはユーザーの読み込みによっていくらでも異なった表情を現すのだから、ひとたび「設定」を手に入れてしまえば、消費者はそこから原作とは異なった二次創作をいくらでも作り出すことができる。この状況を表層だけで捉えれば、オリジナルの作品=原作が無秩序にシミュラークルの海に呑み込まれていくように見える。しかし実際には、それは、まずデータベース=設定があり、その読み込み方によって、原作もできれば二次創作もできるという現象だと捉えたほうがよい。
つまりオタク系の消費者たちは、ポストモダンの2層構造にきわめて敏感であり、作品というシミュラークルが宿る表層と設定というデータベースが宿る深層を明確に区別しているのだ。この2層構造は、以下、本書の中で幾度も登場するので、ここでしっかりと頭に入れておいてもらいたいp53-54
都合により途中ですが公開します。まだ書きたいんですけど、とりあえずこの後、(1)の問いに40ページほどついやして、(2)の問いに45ページほど費やして、最後、「応用編の予告のようなもの」に30ページほど費やして終わります。この(1)(2)の問いの答えのところを理解するために、まとめるのが僕の目的だったんですが、また後でやりたいと思います。
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以下できるだけまとめていきたいと思います(が短くなるかどうか)。
筆者はこの大塚の指摘を「いまも基本的に有効性を失っていない」としたうえで、「ひとつ修正を加えたい」とします。「大塚は設定や世界観のことを「大きな物語」と呼んでいた」これは当時流行のポストモダニズムの影響や、1980年代はオタク系作品に「世界観や歴史観を見出すことが一般的だったからである。」例えばガンダムシリーズの作品の多くが同じ架空の歴史に属し、「ファン達の欲望は必然的にこの偽史の精査と充実に向かう」「そこでは確かに、中島梓が指摘したとおり、現実とは別の物語=虚構が作られている」「大澤真幸が『虚構の時代の果て』で分析したように、70年代の連合赤軍と90年代のオウム真理教の違いは、ただ、前者が共産主義という社会的に認知された物語を信じたのに対し、後者がオウム真理教という認知されにくい物語を信じていたことにあるにすぎない」p55
「20世紀の後半はそもそも、日本だけでなく、世界的に、二つの時代に挟まれた大きな変動期だった。50年代までの世界では近代の文化的論理が有力であり世界はツリー型で捉えれていた。したがってそこでは必然的に、大きな物語がたえず生産され、教育され、また欲望されていた。たとえばそのひとつの現れが学生の左翼主義への傾倒だった。」p56
「しかし時代は60年代に大きく変わり、70年代後半以降は、逆に急速にポストモダンの文化的論理が力を強めるそこではもはや、大きな物語は生産されもしないし、欲望されもしない。ところがこのような変動はちょうどその時期に成熟した人々に大きな負担を与える。なぜなら彼らは、(略)教育機関や著作物を通じて、古いツリー型のモデル(大きな物語への欲望)植え付けられてしまっているからだ。結果としてこの矛盾は、特定の世代を、失われた大きな物語の捏造に向けて強く駆動することになる。ここでは詳しく述べないが、たとえば70年代のアメリカで高まったニューサイエンスや神秘思想への関心世界的に生じた学生運動の過激化などはそのひとつの結果だと考えられる」p56-57((『文明の衝突と21世紀の日本』に「歴史的に見ても、この世代(15から20歳)の若者が人口の二十パーセント以上を占めると社会は不安定になり、暴力や紛争がエスカレートする傾向がある。」とありましたが関係あるんでしょうか。多分第二次世界大戦のあと世界中でベビーブームが起きたんでしょうから、その人らは25歳以上ですか。ちょっと違いますかね。))「当時の第一世代のオタクたちにとって、コミックやアニメの知識や同人活動は、全共闘世代にとっての思想や左翼運動ときわめて近い役割を果たしていた」p57((まぁ周りのオタク系の人達にもいわゆる左翼運動ってのを嫌う人は多いですけど、ここらへんと何か関係あるんでしょうかね。近親憎悪っていうか))
「しかしそのような複雑な心理がいまでもオタク系文化を規定しているかといえば、それはまた別の問題である、むしろ筆者には、逆に、近代からポストモダンへの流れは、進むにつれて、そのような捏造の必要性を薄れさせていくように思われる。」「もしそうであれば、失われた物語の補填として虚構を必要とした世代と、そのような必要性を感じずに虚構を消費している世代とのあいだに、同じオタク系文化といっても、表現や消費の形態に大きな変化が現れているに違いない。」p57-58
「そして実際にその新しい傾向は、大塚の評価が発表されたあと、90年代の10年間でかなりはっきりと目に見えるものになってきた。90年代のオタクたちは一般に、80年代に比べ、作品世界のデータそのものには固執するものの、それが伝えるメッセージや意味についてはきわめて無関心である。逆に90年代には、原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独で消費され、その断片に向けて消費者が勝手に感情移入を強めていく、という別のタイプの消費行動が台頭してきた。この新たな消費行動は、オタクたち自身によって「キャラ萌え」と呼ばれている。(略)そこではオタクたちは、物語やメッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している。したがって、この消費行動を分析する上では、もはや、それら作品の断片が「失われた大きな物語」を補填している、という図式はあまり適切でないように思われる。」p58
具体例として「90年代には、『新世紀エヴァンゲリオン』が『ガンダム』と頻繁に比較されてきた。」「実際には、この両者は、物語に対する全く異なった態度に支えられ消費された作品だという事が出来る。」
「『ガンダム』のファンの多くは、ひとつのガンダム世界を精査し充実させることに欲望を向けている。つまりそこでは、架空の大きな物語への情熱がいまだに維持されている。しかし、90年代半ばに現れた『エヴァンゲリオン』のファンたち、とりわけ若い世代(第三世代)はブームの絶頂でさえ、エヴァンゲリオン世界の全体にはあまり関心を向けなかったように思われる。むしろ彼らは最初から、二次創作的な過剰な読み込みやキャラ萌えの対象として、キャラクターのデザインや設定ばかりに関心を集中させていた。」「『エヴァンゲリオン』のファンの多くは、主人公の設定に感情移入したり、ヒロインのエロティックなイラストを描いたり、巨大ロボットのフィギュアを作ったりすることだけのために細々とした設定を必要としていた」p59((まぁでも地元民としては、箱根の描写とかはかなり詳しかったと思います。箱根湯本駅(実物そのもの)周辺(平らな土地が無い)でなく、桃源台が開発されて大きな街になってたり。レーダーのような地図が出てくるときも芦ノ湖とかそのままの形でありましたし。あとロープウェイが道路の上を通るところにある、ガードの網みたいなのも、本物そのままに描いてあった記憶があります))
そしてこの変化は「原作者の側にもはっきりと現れている。『ガンダム』は(略)つぎつぎと続編が作られたことでも有名な作品である」「対して『エヴァンゲリオン』には続編が作られていない(略)代わりに原作者の製作会社ガイナックスが展開しているのは(略)二次創作に限りなく近い発想の関連企画(略)である」p60
「さらに重要なのはこの変化が、(略)原作の構造そのものにも大きな影響を及ぼしていたことである。」「最初からコミケでの二次創作の出現を予測し、むしろその生産を奨励するかのような仕掛けを原作内に大量に配置している。たとえばTVシリーズ最終話では、まったく異なった性格の綾波レイが住む、まったく別の歴史を歩んだエヴァンゲリオン世界が挿入されるのだが、そこで描かれる光景は、実は放映時にすでに二次創作として大量に流通していたイメージのさらなるパロディである。」p60-61
「この作品でガイナックスが提供していたものは決してTVシリーズを入り口としたひとつの「大きな物語」などではなく、むしろ、視聴者のだれもが勝手に感情移入し、それぞれ都合のよい物語を読み込むことのできる物語なしの情報の集合体だった」p61-62
「筆者は以下、小さな物語の背後にありながら、もはや決して物語性をもたないこの領域を、大塚の「大きな物語」と対比させ「大きな非物語」と呼びたいと思う。『エヴァンゲリオン』の消費者の多くは、完成したアニメを作品として鑑賞する(従来型の消費)のでも、『ガンダム』のようにその背後に隠された世界観を消費する(物語消費)のでもなく、最初から情報=非物語だけをひつようとしていたのだ。」((まぁ確かにガンダムオタク(ガノタ)を自認する人はいても、エヴァオタクというのは言葉自体ほとんど聞いた記憶がありません。ちょっとしたきっかけですぐにガンダムの話に持ってく人はいても、エヴァはいないような気がします。年齢的には第三世代も周りにはいるはずなんですが。まぁこんなhttp://www3.ocn.ne.jp/...ページに細かい「年表」とかが載ってたりもしますが。あと関係ないですが極太明朝は市川崑監督でしたっけ?))
「それでも『エヴァンゲリオン』においては、原作のTVシリーズは、(略)データベースに近づくための入り口として機能していたと言えるかもしれない。しかし、(略)ここ数年のオタク系文化は、じつはその必要性すら急速に放棄しつつある。」p62
「ここで重要なのがメディァミックスの台頭である。(略)そのような状況では、何が原作でだれが原作者であるかはきわめて曖昧になるし、消費者もその存在をほとんど意識することがない。彼らにとって存在するのは、原作(オリジナル)と関連商品(コピー)の区別ではなく、匿名的に作られた設定(深層にあるデータベース)と、その情報をそれぞれのアーティストが具体化した個々の作品(表層にあるシミュラークル)、その両者の区別のみである。」p63
「この傾向を理解する上で最も重要な例は、1998年に誕生した「デ・ジ・キャラット」、通称「でじこ」と呼ばれるキャラクターである」((このページのキャラっぽいですね。本書の挿絵とは絵の感じが変わってますけど。本書はここから、このキャラやその後のアニメ化などの流れの説明になるのですが、書くのがめんどくさいです。ここの説明が分かりやすいかと。キャラの設定は、こちらですね。本書によれば、性格とかの設定は「アニメ化に際してなかば自己パロディ的につけくわえられたものだ」そうですが。))
「『エヴァンゲリオン』とは異なり、これらの展開は特定の作家や製作会社が制御しているものではない。というのもこの作品は、基本的には一企業の宣伝企画に過ぎないからである。このような状況においては、『デ・ジ・キャラット』のオリジナルがどのような作品で、その作者がだれで、そこにどのようなメッセージが込められているかを問うことは、全く意味をなさない。」p65
「『デ・ジ・キャラット』でもうひとつ興味深いのは、(略)物語やメッセージの不在を補うかのように、そこでキャラ萌えを触発する技法が過剰に発達している点である。(略)でじこのデザインは、デザイナーの作家性を排するかのように、近年のオタク系文化で有力な要素をサンプリングし、組み合わせることで作られている。」p65-66
「これらの要素が、それぞれ特定の起源と背景をもち、消費者の関心を触発するため独特の発展を遂げたジャンル的な存在であることに注意して欲しい。それは単なるフェティッシュと異なり、市場原理の中で浮上してきた記号である。」p66
「消費者の萌えを効率よく刺戟するために発達したこれらの記号を本書では、以下「萌え要素」と呼ぶことにしよう。」p66-67
「その自覚を装置として表現したひとつの試みが、96年に公開が始まったオタク系検索エンジン、「TINAMI」である。」ええとこのあと「TINAMI」の使い方の簡単な説明が続きますが、ようするに萌え要素で検索できるって感じなんですが、こちらを読んだ方が詳しそうです。
まだ書きますがとりえあずここまでで公開。
東浩紀著
- 価格: ¥700(税別)
-
ISBN:
4061495755

商品を見る - 年(代): 2001年11月20日第1刷発行
- 人名: 東浩紀
- 2006/08/14更新
- 2006/08/07登録
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