タイムボカン
無料動画で、テレビアニメ「タイムボカン」を見たのだが、やはりちょっと面白かった。
ビールをのみながら、「タイムボカン」をひとり見る、そんな大人になるとはおもわなかったけれど、しかし面白く堪能してしまった。
わたしの知り合いで、途方もなく頭の悪い、ダメダメな男の人がいるのだが、たいていこのひとと話していると、悲しいくらいうんざりしてくるのだが、しかしこのひとが、たった一回だけ、とても鋭いことを言ったことがあったのだ。それが「タイムボカン」についての一言なのだった。
かつてのテレビアニメは、その基本形は、「ヒーローもの」である、という話から、始まって、つまり魔女がでて来ようと、野球が主題になろうと、未来が舞台であろうと、その基本は、「ヒーローもの」である、というのが、そのダメダメな男の人の主張だったのだが、それを聞いて、わたしも、なるほどそれは言えている、と、納得していたのだが、それでわたしが思いつきで、ということは「タイムボカン」も「ヒーローもの」になるわけだな、と、口をはさむと、そのダメダメな男の人は、少し考えて、いや違う、と断言したのだ。
そしてそのダメ男君はこう言ったのだ。
タイムボカンとは、ヒーローものなのではなく、厳密には、ヒーローものの、パロディーなのだ、と。
なるほど、よくぞ言った、ダメダメ男君。
それはまったく正しいぞ。
まさか君がそんな鋭いことを言おうとは、わたしは夢にも思わなかったぞ。
そしてそれつづけて、興奮しつつわたしも、こう言ったのだ。
タイムボカンは、ヒーローもののパロディーである、ということは、同時に、テレビアニメそのものの、総合でもある、とは、いえないだろうか。
つまりヒーローものを、意識的にパロデイー化することで、オリジナルテレビアニメの、諸言語を、総合することに成功した、と。それがタイムボカンシリーズである、と。
そう。まったくその通り。おれもそうおもうよ。
たしかに、テレビアニメは、いまでも続いている、しかしオリジナルテレビアニメは、今では、死滅してはいないか。
ああ、かなしいことだが、たしかに死滅している。現在あるものは、ほとんと゛原作もののアニメ化ばかりだ。
しかしよくよく考えてみれば、オリジナルテレビアニメを、殺したのは、タイムボカンシリーズ、ではなかったか。
というか、それは「殺した」といようり、あれが総合であり、あれが終わりだった、ということだろう。あれが時代の変わり目でもあったんだ。
バブル前夜、か。
そう。
そしてバブルとともに、オリジナルテレビアニメの居場所は無くなった、というわけ。お役御免となったわけ。
なるほど。
タイムボカンシリーズが、最後だったのだよ。
ダメダメなこの男の人とこのとき話していて、わたしが気づいたのは、オリジナルテレビアニメが、ある時代の産物であった、ということであり、そしてそこには、原作アニメ(あしたのジョー、キャンディーキャンディーなど)のような、意味内容が、まったく欠如している、ということである。つまりオリジナルテレビアニメは、意味内容を(メッゼージを)、伝えるための、媒体ではなく、それ自体が、様式として、その反復において、なにかを意味している、ある種の様式的構成物であった、ということなのである。だからそれは、それこそ、ハリウッド映画の、黄金パターンの、その機能性が、その反復による差異の生産によって、様式それ自体が、なにかを意味している、ということと、同様のことである。つまりオリジナルテレビアニメも、様式として、反復され続けているそのこと自体が意味しているところが、より多く、重要であった、ということになるのだ。そしてそのような在り様は、おそらく、大衆文化としての、本質的な在りようなのだろう。「トラさん」はバブルを超えて無駄に反復されてしまったし、また「水戸黄門」は(終わりなどしらぬかのように)いまだ反復され続けているし、また「笑っていいとも」の反復は、ほとんど終わることが想像出来ないほどに大衆文化の中枢に食い込んでしまっている。「寅さん」も「水戸黄門」も「いいとも」も、それ自体としては、まったく無内容ではあるが、しかしそれが、反復され続けている様式であり、したがってその反復において、意味するところは、大衆文化論として、きっちり読まないわけにはいかない部分であるのだろう。大衆的感受性はまさにその反復の只中においてこそ育まれるのだから。
ある時代が終わりを告げ、オリジナルテレビアニメという様式は、死滅した。しかしそのオリジナルテレビアニメという様式的反復の中で、大衆的感受性を育んだ、その時代を生きた、子供たちの一部は、しかしその時代の終わりを、受けいれることができず、だからかれらは、幼少期にオリジナルテレビアニメの反復によって育まれた「内面」を、バブル以降も、場違いに、抱え込んだまま、思春期を、迎えることになった。そしてかれらこそが、「オタク」第一世代として、その後、文化的階層として、姿を表すことになったのである。オリジナルテレビアニメの終わりとオタクの発生は、同じ事態の、裏と表というべき、現象なのだろう。
タイムボカンを今みても、がぜん面白い。そしてその様式的な完成度の高さは、ちょっと驚きですらある。しかしこの様式が、意味するところは、おそらくは、このころ同時に反復されていたほかの諸様式との同時代的な付置関係をきっちり押さえないことには浮かび上がってはこないのだろう。バブル前夜の、あの頃の、大衆文化一般の全体像なしでは、その意味する所は、正確には、位置づけられそうにない。おそらくメディア化された大衆文化の、その本質とは、いくつかの様式の反復の、共存共栄であり、またそれら「生態系」のゆるやかな新陳代謝であり、そしてそれらの変容から流れ出る意味合いそのもののことなのだろう。だからタイムボカンも、その大衆文化という場の、ある一部分の本質をにないつつ、様式的に機能していた、ということなのだろう。そしてその本質は、いまでは別のなにかがにないつつ、反復してはいるのだろう。だからある意味タイムボカンも生きてはいる、生きてはいるのだが(死んではいないが)しかし終わってはいる、ということなのだろう。
ともかくわたしは楽しんでしまった、いやな大人だなあ。
ヤフー動画「タイムボカン」
- 2007/01/29更新
- 2006/12/27登録
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