2012/02/20
諦めないこと
無事完走しました、青梅マラソン。
30kmの部男子40歳代で、順位は 3046 位、タイムは3:28:19でした。去年より5分ほど遅くなってしまいましたが、トレーニングが十分ではないなかでの結果なので、自分としては良かったと思っています。足の痛みはありますが、去年のように爪から出血するということもなく、身体の面でも日常生活に支障なさそうです。子どもの世話をしなくてはならない身としては、とにかく事故や怪我のダメージが一番大きいですものね。
今回のランニングでは、努めて歩幅(ストライド)を大きく、身体の上下動を少なくするフォームを心がけました。体力に比較的余裕のある前半では、まあうまくいきました。こういう走り方のほうが、省エネなんですよね。
後半は疲れもあり、また自分のなかで、「あまり練習してないからなあ」という弱気の所も出てしまい、かなりバテバテの走りになってしまいました。それでも、タイムで見ると順位を落としていないので、追い込まれても簡単に諦めない“しつこさ”が出ていたようです。
実は、マラソンの前日、すごく印象的な記事をネットで見ました。毎日新聞2012年2月8日大阪朝刊の、「児童養護施設から希望の大学へ」というタイトルの記事です。
詳しくは記事のリンクを是非ごらんになっていただきたいのですが、児童養護施設にいる子どもたちの多くは、進学の希望があっても、十分な学習環境がないのが現状だそうです。そこにNPOの学習支援ボランティアグループ「arch(アーチ)」が、進学を希望する子どもに学習支援をして、見事希望の大学に合格したという記事です。
記事を読んで、恥ずかしながら泣けて仕方ありませんでした。この進学を希望した子も、そしてその希望を逃すことなく育てた支援者も、なんと素晴らしいチャレンジャーでしょうか。自分が今やるべきことから少しも目を背けず、自分で今できることをやった。その夢を実現することが難しい理由など、周りがいわなくても本人たちも十分分かっていたでしょう。
それでも、彼女たちはやった。
この記事のことを、走りながらずっと考えていました。
昔ならともかく、今の時代に大学に行きたいというのは、そんなに大それた夢であって良いはずがありません。進学したいと希望した少女も、その支援者も、ごく当たり前のことが、あたりまえの制度になっていないこと。その狭間で、自分の夢を現実に埋もれさせることをしなかった。現実をみると、理想が古びた看板のように見捨てられていることが多いのですが、そうすることを彼女たちは選ばなかったのです。
僕にも、いろいろな理想があります。その実現のために、毎日少しづつ取り組んでいることがあります。彼女たちのチャレンジは、僕に「現実に自分の夢を埋もれさせるな」という強烈なメッセージとなって響きました。
今回、マラソンで完走できたのも、この記事のくれたエネルギーがあったと思っています。
いつかチャンスがあったら、大阪にこの団体を訪ねてみたい。一度会って話がしてみたい。そう思っています。
マラソンの前日、2月18日(土)に、息子と下の娘をつれて、プールに行きました。
電車に乗り国立まで行き、午前中1時間ほど泳いで、近くのファミリーレストランで昼食をしてから帰りに青梅市総合体育館でマラソンのゼッケンを取りに行きました。
マラソンの参加者をみると、やはりクラブで参加している人が多いようで、私のようにどこにも所属していないフリーの人は少ないようです。体育館のあちこちで仲間と談笑している光景が見られました。一方で、どうも自分の仲間にしか目が届いていないのではないか、と思われるような行動をするグループも見られ、あまり良い気分がしませんでした。個人でもできる競技なのに、やっぱり仲間と連みたがるのは、なんでなんだろうと思えてなりません。別にひがんでいるわけでもなく、本当に純然と一人を楽しみたいから、走っているのになあ。前回の日記に書いた山登りも、危険リスク回避の面からは複数の行動が好ましいのですが、山の時間を楽しむのにはやっぱり単独行が一番だと、高校のころから思っていました。これはまあ、性格的なものかもしれませんね。
2012/02/17
山で振り返る
いよいよ明後日になりました。
今週も肌寒い毎日でしたが、トレーニングして身体を慣らしておかないと、本番に苦しい思いをするのは自分だから、と午前中時間を捻出して、ランニングに勤しみました。
ただ、走り始めるまでは、結構しんどい思いをするのですが、走り出してしまうと腹づもりも固まるのか、自分の身体の調子に神経が向いて、息苦しさは考える余裕がなくなります。
コースの半分を上り下りのある山道にしたことで、なだらかな平地を走ることよりも、路面の状況により敏感になりました。靴を柔らかいものにしましたから、小石や木の根などの感触がダイレクトに足裏に伝わってきます。不用意に足をつくと、山道の場合足を滑らせたり、最悪の場合は転落事故にもつながりかねません。スピードよりもフォームを気にしながら走る癖がつきました。ただ登りはやっぱり苦しいですね。ついオーバーペースでへばってしまうことも数回ありました。
本番のコースは舗装路ですが、クルマの通行を止めて道路の真ん中を走れますから、路面の状況にそれほどシビアになる必要もなく、そのぶんペース配分に意を注ぐことができます。
練習とはいえ、やっぱり山道。身体を動かす爽快感とは別に、山の雰囲気というか空気は、登山からしばらく遠ざかっていた僕にとっては、やっぱり懐かしいものです。
今回練習のためにハイキングコースを走りながら、高校のころ、なぜあんなに取り憑かれるように山に入っていたのか、いま少し分かるようになりました。
山頂に着くという到達感を求めているわけではなく、あの頃の僕は、言葉にできない何か、が気になって仕方がなかった。たとえば音楽とか、写真とか、そういう創作物の中にある、他のものでは代えられない崇高なものを、自分の言葉で理解しようとしてもできなかった。自分の言葉というものは、結局人とのやりとりの中で磨かなくてはならないもので、自分の言葉を磨くために人との接触を厭うべきではないのに、人と会わずして自分だけで純粋たる言葉を求めては挫折し混乱していました。
結局、人というのは理念ではなく、存在としてあるものですよね。その形がきちっと見ることが、自分を理解することになり、それが言葉、自らの言葉につながっていくのだといまは分かるのですが、その頃の僕は、どうも人間というものが好きになれなかったのです。11歳のころ、怪我で入院したときに、同室だった大人の入院患者の隠れた嫌らしさを目の当たりにして、人間なんてたいしたことはないと思い込んでいたのです。人と交流することをせず、人から逃げていながらその弱みを見せたくなくて、人を馬鹿にするような態度で本ばかり読んでいたけれども、いくら難しい本を読んでも、その中に僕の求めているものがあるという感じがしませんでした。自分の頭の悪さにイライラしたり、身近な人につっかかったりして、だんだん仲間や社会からはぐれたような気分になっていました。厭世観という言葉が近いかもしれませんが、いわゆる社会生活から落伍しかかっていたようなものです。
そういう自分が、高校のころ山に入ると、嫌な自分を家に置いて出てきたように、一時的にせよそういう混乱した自分をうっちゃっておくことができた気がします。山に入るのは、社会から切り離された、もう一つの別の社会に“逃げ込む”ということに等しかったように思えます。
山の中で過ごす時間が、自分の混乱を鎮めてくれたのだ、といまならはっきり言葉にして認識していますが、当時の僕は「ただ山が好きだから」としかいえなかった。あのころ本を読んでいても、何一つ自分の頭でちゃんと理解していなかったのだな、と最近本を読んでつくづく感じます。
午前中走ってしまうと、午後はさすがにいろいろ動きをするのがしんどくなります。幸運なことに子どもたちもインフルエンザから回復して安定していますので、子どもの世話を少し抜いても、問題なくすごすことができました。
昼は、朝に奥さんと長女の弁当と一緒に作った弁当で、昼の支度を抜いています。その分朝の支度と夕飯はちゃんと作ろうと思い、朝の起床時間を代えずに弁当のおかず作りと読書をして、夜は疲れ果ててバタンキュー。
おかずのメニューも考えました。あれこれ細かく作るよりも、鍋物とか煮物の方が豪華で、しかも作り置き・使い回しが効く。息子の好物の里芋の煮物、おでんとかロールキャベツとか、一見手間がかかりそうだけど、実はそれほどでもないメニューが続きました。こんなメニューは対流式ストーブの上に鍋を置いておくだけでできますから、これを上手く使わない手はないですよね。
2012/02/13
山間コース
いよいよ迫ってきました、青梅マラソン。
寒波とインフルエンザで、一時は辞めようかとも思いましたが、それでも直前までできる努力はしよう、とトレーニングの時間を捻出しています。
午前中は陽射しが出ても、午後は曇りがちで気温も上がりませんから、朝、慌ただしく洗濯物を干して家を飛び出します。
マラソンのコースは、青梅線に沿って走る青梅街道なのですが、歩道が狭いところもあり、また車道の脇も自転車が追い抜いたり、クルマにはじき飛ばされた小石などが吹き寄せられて走りにくいことこの上ありません。クルマの通らないような小道を探しながら走るのもなんだかなあ・・・と思っていましたら、ふと気づくと「青梅丘陵ハイキングコース」いう看板を見つけました。高校のころ、ワンゲル部で山岳マラソンといって、登山道をそれこそマラソンのように走ってトレーニングしたことがありましたから、往路は一般道でも、帰路はこのハイキングコースを走ってみようと思いました。なにしろ眺めは良いし、脚力をつけるトレーニングにもなりますから。
今シーズンは新しい、柔軟性に富んだ靴底のランニングシューズにしましたから、ふくらはぎの疲労が、以前よりも強く感じますが、膝の痛みがほとんど感じなくなりました。トレーニング不足を差し引いても、靴を変えた効果があったようです。
自宅をでて、軽くウォーミングアップをしながら、東青梅駅前〜青梅駅〜宮ノ平駅〜日向和田と抜けていきます。日向和田から石神前駅に向かう緩やかなカーブを走っていくと、人が通れるだけの小さな踏切があり、ここから「青梅丘陵ハイキングコース」に繋がる林道があります。
ハイキングコースは、ちょうど青梅線の北側にある青梅丘陵の尾根を繋いだもので、青梅の永山公園から辛垣城跡、高水山にむかっています。利用者も多く、平日午前でもほぼ毎日のように歩いているひとを見かけました。
コースには要所要所に案内板が完備されて、これを見失わなければコースを間違えることは少ないでしょう。一部霜や凍結、またぬかるんでいる所もあるので、ランニングは路面の状況に気をつけて走らなくてはなりません。ただそれは、足の接地面を意識して走ることにもなるので、却ってランニングフォームの改善につながる気もします。
ハイスピードはもともと出ませんから、のんびり走り、途中持ってきたデジカメで風景を撮りながら約1時間、石神前から青梅までの約6kmほどを走ってきました。こんな調子で、怪我も身体のトラブルもなく当日を迎えたいものです。
土日は、子どもを見なくてはならないので、マラソンというわけにはいきません。
11日(土)は久しぶりに子どもたちを連れてプールに。プールが工事中だったのでほぼ2ヶ月ほどのブランクがありましたが、子どもはなに気にすることなく水を愉しんでました。1時間ほどでは満足せず、結局2時間近く入っていました。つき合うこちらもへとへと。マラソンはしているものの、やっぱり使う筋肉が違うみたいですね。夜は子どもたちと一緒にバタンキューでした。
12日(日)は、奥さんと姉が家でお菓子作りをしたいというので、下の子どもたちを連れ出して欲しいとリクエストされ、急遽友人のブログ日記でみた仏子の「文化創造アトリエ・アミーゴ」に電車で行くことになりました。
家を出たときはまだ風がなかったので、つい薄着をして出てしまい、午後から風が強くなっていささか閉口しました。アトリエ・アミーゴは西武池袋線仏子駅から歩いて5分ぐらいのところで、昔盛んだった紡績工場の建物を活かして各種文化イベントの拠点として利用しているそうです。私の地元も同じような性質の建物がありますが、恒常的なイベント基地にはまだなっていないようです。こういう施設は、プロデューサーの力量が問われるものだと思いますが、公共性の強い組織では、プロデューサーの個性があまり強く発揮できないこともありそうで、地域に根ざした施設を作り上げる困難は、福祉だけでなく芸術の分野でもありそうですね。
2012/02/09
回復基調
やっと普段の調子に戻りました。
2月4日(土)の朝には息子が、午後には下の娘も熱も下がりました。解熱後2日で学校の出席停止は解除ですが、二人ともまだ咳がでていて、つらそうです。この日は奥さんがほとんど休んでいて、万全とはいえないまでもだいぶ回復しました。代わりに日曜は僕の方がダウン。本当は都内に会議に出かけなければならなかったのですが、関節痛と喉が痛みほとんど声が出ません。それで会議は迷惑ながら欠席させてもらいました。普段なら出かけたがる子どもたちも、さすがにどこにも出かけたがらず、家の中でテレビを見たり、奥さんとバナナケーキを作ったりしながら過ごしていました。
2月6日(月)は、熱こそ下がっていましたが、念のために休ませました。夕方から久しぶりの雨。夜から翌日にかけてまとまった雨が降り、低気圧の関係か、久しぶりの暖かい空気が広がって、気温も穏やかです。2月7日(火)は子どもたちと奥さんをそれぞれ送り、その後、寝床で付箋をつけながら読んだ『完 子どものへのまなざし』(佐々木正美、福音館書店)のメモをまとめました。
この本の前に、雑誌『クウネル』2011年7月号に和歌山の児童書店「メリーゴーランド」の記事が載っていて、その店主のインタビューが面白かったので、著書を借りて読みました。これも面白かった! この本を読んでも、子どもを発達途中の存在としてみるのは、やっぱり大人の勝手さ、エゴの押しつけでしかないという感想を持ちました。関西の友人に聞くと、この書店、いろいろなイベントや店主の講演などで、地元では結構有名だそう。本を読んでも、ほとんどワーカホリックとしか思えない所があります。三重に行く機会はあるか分かりませんが、いちど訪れてみたい書店です。
本書によると、店名の由来は、子どもの時に父親に連れられていった遊園地で、メリーゴーランドにのってくるっと回ったとき、父親の姿が見えなくなると心細くなる・・・という体験からきているそうです。同じ遊園地でも、もし「ジェットコースター」なんてつけたら、急激に上がっても劇的に下がる。お店の業績も不安になっちゃいますものね。同じ所でもくるくる回っているほうが商売繁盛になりそうですね。
2012/02/04
インフルエンザ
ついにやってきました。
前回の日記を書いてから、息子の調子は咳と微熱が続くといったものでしたが、2月2日(木)の夜に、今度は娘がいきなり38度台の熱を出しました。顔もほてったように赤く、二人とも咳をしています。
2月3日(金)、二人とも学校を休ませ、奥さんにも休みを取って貰って病院へ。インフルの検査は、綿棒で鼻水を取るのですが、嫌なことをされると思ったのか、ふたりとも抵抗します。「指で鼻を取るよりも痛くない」と言い聞かせましたが、果たして結果は二人とも陽性。薬を処方して貰って、後は自宅で大人しく静養しているしかありません。
下の子どもたちと一緒に寝ているためか、わたしも奥さんも、どうも調子がすぐれません。前日に、この寒波と雪で路面が凍結しているためにトレーニングできなかったので、それを取り返そうと思い、2時間近くランニングしたので、その筋肉痛と思っていましたが、足というよりも腕や肩の関節がひどく痛み、また痰が絡んできます。わたしもどうやらかるくかかってしまったようですが、発熱はしていません。ぎりぎりのところでふんばっているのかもしれません。
奥さんも午後に計ったら38度台。しかし、息子は熱も下がり、本調子ではないものの、それほどひどい状態ではなさそうです。この日はとにかく眠れるだけ眠ろうということで、二階の和室に布団を敷きっぱなしにしてごろごろして過ごしました。
食欲もあまりありませんが、それでも食べなきゃならない。前日がおでんでしたので、ここに新しい種をいれようと思いましたが、買い物に行けない。冷蔵庫にストックした食材を見ると、白菜やキャベツなどはありましたが、練り物がない。ロールキャベツもいいけど、挽き肉がないしなあ、白菜をつかえないかなあ、とおもってネットを見てみると、「白菜ロール」というものを発見。これならちょうどかんぴょうもあるし、冷蔵庫のありものでできるので、これに決めました。
白菜の葉をしんなりする程度に茹で、中心にウインナを、あとベーコンをはさんでくるくると巻き、かんぴょうで縛るだけ。子どもには一本で十分なボリュームがあります。おでんじゃなくても、トマトソースやクリームで煮てもよさそうですね。
体調が優れないので、あまり難しい本は読みたくないものですね。図書館の返却期限が近づいているので、読まねばならないものもあるのですが、こういう体調なのであっさりあきらめ、手にしたのが『暮らしに思いを馳せる経済学』(山家(やんべ)悠紀夫、新日本出版社)と『NHK俳句 子どもを詠う』(西村和子、NHK出版)です。
経済学というと、どうも僕には専門家が勝手なことをいっていて、分からなくちゃ損するのはお前だ! というような所を感じていました。しかしTPPや今の消費税の議論などを見ていると、どのような日本を目指すのかのビジョンをきちんと政治で議論していなくて、お金の話でゆがめられている気がします。
この本の指摘でなるほどと思ったのは、日本の財政赤字を家計になぞらえて国が危機感を強調していることの過ちについてです。国が本来果たすべき役割を、財政赤字を盾に放棄し、国民に過度な税負担を要求するといった政策の根拠に家計モデルで国家予算をみることがあるというのです。家計や企業は、収入を自分で決められないけれど、国は法の手続きに従って増収をはかることができる。うーん、たしかにそうですよね。今の新聞報道は「増税をしなくては日本が破綻してしまう」と危機感をあおりますけれど、その裏でちゃっかりいい目を見ようとしている輩が潜んでいることを、この本を読んで感じます。素人の目こそ、今の専門家にだまされないための最後の砦だから。
そして、『子どもを詠う』。わたしは俳句をやってきたわけではなく、むしろ短歌の方になじみがあります。けれども、子どもという題をおいて俳句をみると、こんなに豊穣な子育ての時間が記されてきたのだ、と思えてなりません。ここには難しい作品解題はありません。子どもを育てるという、多くの人にとって一見ありふれたできごとであり、じつは底なしに深い体験を、どうゆたかなものにしていくのか、といったヒントが隠されている気がします。
子どもが小さい時、その一挙手一投足に感動し、子どもが成長して行くに従い、親を頼るばかりだったこどもが少しづつ自立していくときに感じる親の安堵感と一抹の寂しさ。そして病気や夭逝という不運の時。これを俳句が鮮やかに切り取ってくれるのかもしれません。
著者は、まえがきにかえて「いそがしいあなたに」という題で、子育てに忙しい親、とくに母親に向けて、こんな一文を記しています。
「子育て最中は自分の趣味の時間なんてとても無理、とあきらめていたあなたも、この、世界で一番短い詩なら、側に置いておいてもいいと思ってくれるでしょう」そしてこの一文はこんな言葉での終わっています。
「移りゆく季節と人生の出会いを大切に、あなたの足もとをあらためて見つめなおしてみませんか」
俳句というものを、自分を客観的につかむためのきっかけとしてみているのですね。この自己対象化の働きは、文学作品の大切な要素の一つだと思います。作品の巧拙はともかく、この自分を理解するということに意識の向いていないものは、単なる独りよがりな、文学のようなものとしかいいようがありません。


















wahei


