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2012/01/29

リービ英雄『日本語を書く部屋』

 文庫を買って読んだのだが、元になった本が刊行されたのは2001年らしい。それでも、不思議に震災後(もっと言えば、原発事故後)の今の時代に対してアクチュアルなメッセージが多く含まれていることに驚いた。一点目は、日本文化に対する意識。それから二点目は、災害と文学の関わり。
 まず一点目だが、リービ氏が「日本語」に対する、いささか奇矯とも言うべき偏愛を繰り返し語っているのはかなり周知のことかも知れないが、ここではその延長での日本文化に対する愛が語られる。そして彼の愛は、あくまで日本語とそれを基盤とした日本文化が対象であることに注目したい。彼は明確に示しているのだが、そこにあるのは「〈民族〉とか〈人種〉という十九世紀の発想ではなくて、〈言語〉と〈文化〉という二十一世紀の発想に基づいた愛国心」とということになる。そしてこの感覚は、実に僕自身の感じていることにもぴったり来るし、震災を経た後の日本にもっとも必要なことではないかと思う。太平洋戦争の暗い記憶が強すぎて、日本において「愛国心」という考え方は反発を生みがちだ。しかし国家とか民族を離れて、自分たちの国土や文化を愛するという、自然な愛国心はきちんと見直すべきだと僕は思う。僕自身も、実を言うと「民族」としての日本人には嫌いな面が多いし、「国家」としての日本にも嫌いな点が多い。それでも、「国土」としての日本、「文化」としての日本、は愛おしいと思う。
 そんな中で、原発事故後の面白い現象として、いわゆる右翼と左翼の接近、が言われたりもする。これまで反原発運動と言えば左翼のもの、と相場が決まっていたが、かくもひどい国土の汚染に、心ある右翼も立ち上がる。愛おしい国土を守るために、そこで生きていく子供たちの未来を守るために、左翼と右翼が繋がる。繋がるというか、その対立自体がどこか無化されて古びたものになる。そしてこのことは、リービ氏が言う「二十一世紀の愛国心」の、まさにその姿だと感じる。原発事故が、右翼と左翼という古めかしい対立と、その背後にあった「十九世紀」的な愛国心を、一気に過去のものとして葬り去った、ということだ。
 それから二点目の災害と文学の関わり。日本には「原爆文学」と呼ばれるものがあって、日本に生まれた僕はなんとなくそういうものがあるのは当然だと思っていたが、リービ氏の指摘で自覚したのだが、これは世界的には珍しい存在であるらしい。つまり、「西洋の近代史の中で最も〈想像を絶する〉出来ごとであったユダヤ人虐殺をめぐって確かに実際の記録や回想文は山ほどあるが、考えてみると、その中からこれといった文学作品は生まれなかった」。だから、「言葉にできないほどの無残さからは言葉の芸術である文学が生まれない。それはあまりにも当然なことではないか。そう考え続けてきたぼくは、日本には〈原爆文学〉というものがある、とはじめて知ったとき、本当におどろいた」。そうして彼は、日本で生まれた原爆文学を日本文学の特殊な流れの中でゆえに成立したもの、として分析する。その分析は分析で面白いのだが、今の視点からやはり興味があるのは、原爆文学が成立しえたように、3.11を受けた文学は成立しうるのか、そしてそれはこれまでの日本文学の流れとどのような関係になりうるのか、という点だろう。
 そして3.11を受けた文学、ということを考えた時、最近僕が思っていることがある。3.11というのはまったく異質の二つの問題を孕んだ事象であり、そこでは地震・津波という天災と、原発事故という人災が含まれているのだが、その上で文学を見渡してみる時、小説などはどちらかというと後者の方により視線が行っている(実際に話題作となっているのはそちらの方だ)のに対し、俳句はもっぱら前者の方に目が向きがちだった、ということだ。勿論、ともに重要な問題ではあるので、いずれにせよどちらか一方で足りるということではない。ただ、何かそのような傾向自体に、それぞれのジャンルの特性のようなものが出ている気がするのだ。
 それは端的に言えば、俳句は“現場性”が強い文芸だ、ということ。被災地発の俳句が注目され、さらには俳句の賞をもらったりする。それが悪いわけではなく、それはそれでひとつの俳壇としてのメッセージではある。しかし一方で、あくまで既存の大作家が原発事故に対して想像力を働かせて作品を発表することに注目が集まった小説界と、それは好対照をなしている。原発がもたらす社会的・倫理的問題という抽象的な課題よりも、とにかく眼の前にある被災という“現場”を優先させた俳句は、それ自体が俳句の特性を象徴していると思う。繰り返すが、どちらがいい悪いということではない。ただ言えるのは、俳句はそのような“現場”に強い半面、抽象的な思考は苦手にしているのではないか、ということ。
 そしてこのことに繋がるようなことを、リービ氏がこの本の中で言っていたのが印象的だった。「〈証言する文学〉は、過去を証言しているだけでなく、未来を予言しているかもしれない、と感じられたとき、はじめてノンフィクションの領域を越えて、文学の領域に入る」。そう考えると、俳句は本当にリービ氏が言うところの「文学の領域」に入っているのか、という疑問があらためて起きる。震災以降、未来を語ろう、少なくともその課題に取り組もう、という意志を示した俳句が充分にあっただろうか。あるいは、リービ氏はこんなことも書く。「文化肯定と民族主義批判という、一見相容れないような二つのプロジェクトをある緊張感をもって同時に行うことを可能ならしめるのは、小説という形式だけではないだろうか」。ここで書かれていることは冒頭で僕が書いた、「二十一世紀の愛国心」のことである。
 要するに私たちがこれからやらなくてはならないのは、ここで挙げたような複数のきわめて複雑な抽象的課題(哲学的?)をこなしていくことである。そのことは、きわめて抽象的な操作を必要とする。その任に、きわめて“現場性”の強い俳句は耐えうるのか。つまり、俳句は未来に対するメッセージ性を充分に持ちうるのか。実は最近、そのことにかなり疑問を抱いてもいる。
 ただし一方で、俳句自体は重要な要素をいくつも含んでいる。リービ氏が言う「二十一世紀の愛国心」の対象としての「日本文化」の核のひとつに俳句があることは間違いないし、脱原発で注目される文明と自然との関わりについても、俳句は示唆的な何かを持っている。懸念されるのは、せっかくそのような特質を持っているにも関わらず、そのような自身の特質を俳句自身が抽象的な問題として消化して未来へと繋げていく力を持たないのではないか、ということだ。
 そんなことを考えていると、俳句は文学なのかそうでないのか、という古くて新しい問題があらためて浮上する。3.11が俳句に突きつけた最大の問題とはそのことかも知れない。未来への倫理の問題という抽象的・哲学的な課題に俳句は耐えうるのか。しかしそれが任でないとするなら、要するに俳句は文学ではない、ということでしかない。

『傘vol.3』

 『傘』は創刊以来ずっと送っていただいていて、それでも2号はついついこのブログで評を書きそびれてしまった。なんとなく震災後のドタバタ、というのもあったのだけれど、2号のテーマのライト・バースがどうにもとっときにくかったという実感も、実はある。俳句とライト・バースとの繋がりが、どうも僕の頭の中でぱちんと繋がらなかった。勿論、それは僕がそう感じたというだけのことではあるが。
 と、そこへ行くとこの3号のテーマは飯田蛇笏。ライト・バースに比べれば、なんとも座りがいい感じがある。俳句誌が俳人のことを扱えばそりゃ座りがいいのは当然、という話もあるのだが、どうにもそれだけではない、何か不思議な相性のよさを感じる。今回に限らずなんとなく感じているのだけれど、若い世代の俳人たちが、大正期とかの古い俳人を取り上げると、意外になにやら相性がいい感じがあるのだ。重信とか完市とかあるいは兜太ではなく、あくまで蛇笏。言ってみれば、その青春性みたいなものが、不思議とぴったりと重なるのだ。だから、なぜ蛇笏?という感じにならず、蛇笏が実にぴったり来る。原因として考えられるのは、大正あたりの時代と今の時代に何か通じるものがあるという仮説。あるいは、蛇笏自体の俳句がいわば近代俳句の流れの中で一種の青春期にあった、という仮説。どうやら、二番目の仮説のほうが僕の感覚にぴったり来る。勿論、何も検証していないが。
 たぶん、俳句が俳句として瑞々しかった時代というのがあったのだと思うのだ。俳句史の不要な対立(ほとんど冷戦に近いもの?)が終わって、歴史がもう一度まっさらになって、その眼から見た時にその瑞々しさをそれ自体としてきちんと等身大に評価できる視点が俳句史の中にできてきた、その視点の役割をたまたま今の若い世代が「当番」になって担っている、とそんな気がする。
 そもそも、昨年の震災の後に、まだこれまでの俳句史のしがらみを引きずっていることに、僕は大きな違和感がある。時代の大きな分水嶺を越えた後で、さすがにもう前衛・伝統という図式はやめたい。もし何らかの対立が今後あるとするなら、村上春樹氏が言った「新しい倫理」と、それに対するいわば「古い倫理」があるだけだろう。ここでの「新しい倫理」とは、“近代文明自体の見直し”という、とてつもなく大きな視野を含んだものであることは、あらためて付言しておく。そして少なくとも今のところの僕の関心は、村上氏の言うその「新しい倫理」にこれからの俳句がどうやって向き合いうるか、ということしかない。そのことに「前衛」が役立ちうるのならそれもアリだが、それよりも実は蛇笏などのほうが「新しい倫理」には役立ちそうな予感がする。

リドリー・スコット&トニー・スコット『LIFE IN A DAY』

 リドリー・スコットは昔から好きで、その監督が面白いプロジェクトをやったというので昔から気になっていた。YouTubeを使って世界中から動画を募る。ただし条件があって、ある特定の一日に撮った動画。それを集めて編集したのがこの映画。アイデアは面白いが、逆に言えばたったそれだけの映画でもある。当然ながらストーリーらしいストーリーはないし、ある意味では平凡な日常の断片の寄せ集めでしかない。
 ところが、この寄せ集めのような映画が、めっぽう面白い。さまざま人々の日常の断片がこんなに面白いとは思わなかった。いささか“覗き見”的な面白さもあるのだと思うが、その面白さを支えるのは逆に言うと観客の想像力だ。ちょっとした生活の断片に、その人たちのこれまでやこれからを想像する。実際、後で記憶に残る映像はそういった生活の断片のほうで、よくテレビなんかでやっている“決定的瞬間”とか“びっくり映像”みたいなものよりよっぽど面白い。
 そして観客の想像力ということで言うと、映像をある特定の一日での出来事に限ったというのは、実は大きな意味があるように思う。勿論、たぶんそのことには実務上の効果もあったのだ。時期に制限を設けなければ、映像はほぼ無限に集まりうる。それに歯止めをかけるのに、一定の日を設定するのは確かに有効だ。だが、それだけではないと思う。ある特定の一日で、しかもこの映画ではどうやらそれを朝から夜の順番でまとめている。勿論、時差のことを考えればそれは時系列で並べたのとは違うはずだが、それでも朝から順番に世界各地の映像が流れていくと、見ている観客は漠然と「地球」というものを意識する。しかも、自転している惑星としての、何か物理的な感触を持った地球を。このように、単純な素材の列が、ある世界観を与えられたことで特別な輝きを持つというのは映画だけに限らず、いろんな表現方法であることだと思うが、この映画ではそのことをうまく使っている。
 そしてさらにそのことを踏まえるなら、インターネットを通じた集合知としての創作方法として、この映画は大きなヒントを与えていると思う。例えば、集合知としての映画はありうるか。そのことに、この映画は明確な答えを示している。つまり、ある有能な監督が世界観を設定し、それに対して多くの人が素材を投げかけ、それをさらに映画監督が世界観に基づいて選別し編集する。たくさんの人が素材を作るだけでは勿論映画にまとまるはずもなく、さらに言えばそれを単に繋いだだけでも映画は成立しない。どこかで強力な個人の独創性がなくては、集合知としての創作は成り立たない。そのことを、この映画は実に正確に示している。

2012/01/28

たくきよしみつ『裸のフクシマ』

 書評などで話題になっていたので、昨年末に感慨にふけりながら読んだ一冊。今回の事故が孕むさまざまな問題を考える上ではとても有益な一冊だと思う。
 内容としては、福島で田舎暮らしをしようと地元の県に移り住んだ作者が、震災と原発事故に遭遇する。そのことを、実体験に基づいて丹念に、そして容赦なく描いていく。容赦なく、というのは、原発事故を起こした東電や政府の側に容赦なく、という意味もあるのだが、この本の特筆すべきは、よくありがちな「被害者≒絶対的な弱者≒絶対的な善」という図式にもきちんと切り込んでいるところだ。例えば、この作者は彼が言うところの「避難太り」とでも言うべきことも起きていることを容赦なく書く(勿論、すべての避難者がそうだというわけでは決してない)。あるいは支援や復興の過程で起きる奇妙な制度の歪み、例えば作者が「補助金ありき」の「ぶら下がり体質」と福島の自治体を呼ぶ問題などにも、きちんと言及する。さらには、それを報道するマスコミの歪みにも(例えば作者は、ニュースで報道された「一時帰宅」を一種の「ショー」でしかないとして批判する)。どれも、言いにくいことだけに大変勇気があることなのだが、しかしたとえどんなことであろうと、おかしいと思ったことははっきりと言う。それが為政者であろうが避難者であろうが支援者だろうが報道者だろうが、容赦はない。勿論、それがすべての見方ではないにせよ、そのような面を指摘する勇気こそは、本当に今必要なことだと思う。
 というのも、とにかく今回の原発事故の経緯についてはその実態を知れば知るほど、ひどい。この本にも書いてあるように、それは「想定外」などではなく、要するに「やるべきことをやってこなかった」だけの事故である。だからこそ、そこでは何か「やるべきことをやる」勇気や倫理のようなものが欠けていたのではないか、としか思えない。そしてこの「やるべきことをやる」ことは、決して政府や東京電力だけの問題でもないように感じる。例えば、作者の文章をそのまま引用するが、「福島県は、県民が自分たちの頭と努力で生み出す経済活動よりも、巨大企業や国から落ちてくる金をどれだけ受け取れるかという受け身の戦略で長いこと行政をやってきた」「田舎は、自然災害には強いが、権力と金に弱い」。そしてもし作者の言うとおり本当にそうなのだとすれば、この勇気と倫理の欠如の問題はこの国全体に横たわる、根の深い問題ということになる。
 またこの本を読んで、事実として怖ろしいと思ったのは、この作者が書いているように原発事故後の福島では、「いつもの年と違うこと」がたくさん起きているということ。カエルが例年より小さかったり、とかそういったことではあるのだが、そのことを「まあそういう年もあるよね」と言って平然としていられる人はいないと思う。勿論、それが放射能の影響であるのかないのかは誰にも判定はできまい。ただ、そういう事実があるたびにそこに住む人は漠然と不安になる。仮にそれが放射能のせいではないにしても、そのたびに精神的なダメージを受けている積み重ねも、けっこう馬鹿にならないひとつの悲劇だと思う。
 それから、エネルギー政策についてのこの作者の見解には納得させられるものがあった。風力発電などのいわゆる再生エネルギーに、さまざまな問題があることは既に周知のことではある。この作者は、「風力発電は発電しなくてもいい。補助金がいただけるから作る」という事業者の発言を引用しているが、この図式、実は原発を推進してきた構図とまったく同じである。そのことも、作者は鋭く指摘し、その上で断言する。「政府が発電方法を考える必要はない。素人である国民も発電方法を考える必要はない」。素人が、なぜ飛行機が飛ぶのか、とかそんなことの詳細はわからないように、発電も同様だというのだ。ただ大切なのは、「国が金を出さない」で、「健全なビジネスの姿」を作ることだとする。この指摘は一理あると思った。脱原発運動の最大の弱点は、原発の代替エネルギーの具体的方法について「素人」が口を出し、それが「専門家」に揶揄されてしまう、という点だ。素人はあくまで素人に徹して、ただ制度というかそれを取り巻く倫理だけを正す。これはエネルギー政策に対する発想として基本的に正しいと思う。
 そしてとにかく、今回の事故が明らかにした最大のことは、作者の言うように「一旦事故を起こせば国が丸ごと滅びるかもしれないという取り返しのつかない危険性」を原発は持っている、ということだ。そんな危険性があることがわかっているものを、作者の言うように「民間ベースの事業」なら誰もやるはずがなく、ただそれにじゃぶじゃぶ税金を投じて延命させてきたに過ぎない。そしてそのじゃぶじゃぶ投下される税金が、人々の倫理の歪みを生む。
 それにしても原発事故からそれなりに時間が経って、今だから冷静に言えることは、あの時本当に原発事故が最悪の事態になっていれば、まさしく日本という国家が消滅するような事態にもなっていた、ということ。よく原発ではなくて「○○亡国論」的な上っ面な議論がマスコミを賑わせるが、原発の事故はそんな言葉遊びを越えた、本当に国家自体が滅び去るようなことにもなりかねなかった。なにしろ、国家の首都であり経済・文化の中心でもある東京を含めた、日本の国土の三分の一くらいに人が住めなくなるようなことが、実際にありえたのだ。そして残された国土でも、人々はひどい汚染に長く悩ませられるようなことになったのだろう。その結果、おそらく国家としての経済も行政も、ほぼ壊滅状態になっただろう。これを「亡国」と呼ばずして、他に亡国と呼べる状況はどこにあるのか。それなのに、一部の人たちは、脱原発運動を「集団ヒステリー」と呼んでいるようだ。しかし、既に現実に次世代を担う子供たちの健康や安全にリスクを負わせ、農業や漁業など生活の根幹となる産業を危機に陥れ、多くの家庭の幸せを奪い、さらには実際の可能性として国家の滅亡すらを引き起こしかねなかったことに対して怒りを表すことを、「集団ヒステリー」と呼ぶならば、一体私たちはどのような事態に対して怒ればヒステリーと呼ばれなくてすむのだろうか。
 ともあれ、今回の原発事故の問題は実に多様なレベルの違う問題をいくつも含んでいる。そのことに、この本は実に実践的に、そして多角的に、踏み込んでいく。そんなこの本の中で、非常に共感したくだりがあったので引用する。

《日本はいま、従来の基準(ICRPやウクライナの基準)をあてはめたら、福島県まるごとプラスαくらいの規模で国土を喪失している。
 これはもう議論している段階ではなく、現実として直視するしかない。(中略)
 その上で、ではどうすればいいのかという命題は、もはや「汚染された国で、残りの人生をどう生きるか」という哲学的な領域に入ったと言えるだろう。》

 僕も今起きているのは、まさにそういう問題だと思う。今私たちが直面しているのは多様で複雑なさまざまな面を持つ「哲学的」な問題なのだ。そしてその「哲学的」な問題は、決して福島の人たち(この本の作者も含む)だけに押し付けておしまい、ということであってはならない。それは私たち日本人すべてが、きちんと受け止めて格闘すべき「哲学的」な問題のはずなのだ。

『星の木7号』『星の木8号』

 ノックしたきこれは大きな蝸牛  大木あまり
 椅子に姉畳に姉や柿の花  同
 北へゆく院長先生豆の花  石田郷子
 十人や夏の真中に立ちてをり  同
 四月長し会議の椅子を運び入れ  藺草慶子
 呼ばれたるそこが入り口海の家  同
 流れつきここに住みつき磯菜摘む  山西雅子
 山法師にはかに急ぐ人ばかり  同

 短日の芳香剤の置きどころ  大木あまり
 通院や日蔭の水を鴨歩く  同
 頭数かぞへて秋の山に入る  石田郷子
 切干をひろげながらの話かな  同
 鳴きやめる蝉の下にも秋の蝉  藺草慶子
 そそり立つ如くに菊の鉢並ぶ  同
 冬ざれや舌うつくしき蛇女  山西雅子
 冬ぬくし沓のごとくに島を置き  同

 2011年の春・夏号と秋・冬号。まるで震災などなかったかのような句群だ。しかし、僕はそのことを決して悪いことだと思ってはいないし、むしろかえってどこか積極的に肯定したい気持ちすらある。確かにここには、震災や原発事故による惨禍のことも、そしてそれが残した大きな社会的な課題のことも、何も(少なくとも直接的には)書かれていない。しかし、そんな時だからこそ、俳句の足元をきちんと見つめるということは、それはそれでひとつの方法論だと思う。というのも、こういう時だからこそ、このような句群が妙に心に染みる。静かな安らぎを覚え、ああ自分たちにはまだこういう場所が(それはひょっとすると現実であるよりもむしろ心の中でかも知れないが)あるのだ、と確信する。それは間違いなく、俳句の効用のひとつでもあるはずだ。そこにあるのは、実際に起きた惨禍や課題に対する無関心や無神経ゆえの静けさではなく、むしろそれを知り、それに心を深く寄せるからこその、それに対する対抗力としての静けさであり、それゆえの美なのだ。なぜならば、今回の惨禍や課題で、もっとも失われ損われたものがそのような静けさや美であるからだ。
 だから、こういうあり方も、今の時代に対して充分にアクチュアルな俳句のあり方だと僕は思う。ただ僕自身がそれをできるかというと、眼の前の現実を見つめた時、なかなかそういう気持ちにはなれない、というのも実感である。汚染された国土や自然を前に美や静けさを詠めるのは、よほどの鈍感か、もしくはよほどの意志か、どちらかがなくしては不可能だと思う。勿論、意志を持って乗り越えるのであれば、かえってその意志の美しさがここに挙げた句群のように際立つ。そのような、「俳句へ向かおうとする、静かで強い意志」が、時代の中でひとつの光を持っていることも確かなことだと思う。

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『ono-deluxe』(小野裕三公式ブログ)

『ono-deluxe』(小野裕三公式ブログ)画像 『ono-deluxe』(小野裕三公式ブログ) 俳句・俳句評論など、いろいろと書き物をしています。 ... もっと見る

  • 2012/01/30更新
  • 2007/03/12登録

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